礼拝説教

 『 神のもとに導くもの 』 奥村献牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 8713 節(新共同訳、新約聖書 p309

 

(聖 書)

7.しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像にな じんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭 から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

8.わたしたちを神のもとに導くのは、食物では ありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得 るわけではありません。

9.ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにな らないように、気をつけなさい。

10.知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いてい るのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを 食べるようにならないだろうか。11.そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまい ます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。

12.このようにあなたがたが、兄 弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなの です。

13.それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせ ないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

 

(説 教)

当時のコリントの街の人々の中には、ギリシャの神々をまつる伝統的な文化が根付いていました。 その中で歩み出して間も無いコリントの教会の一部の人々は、キリスト者としてのあり方と、これまで身 についた生活習慣との間で戸惑うことが多くありました。 今日の聖書で主題となっているのは「偶像に供えられた肉を食べること」でした。当時、偶像に一 度供えられた肉が市場に出回って売られていました。イエス・キリストを救い主と信じるキリスト者の共 同体の中に、一度偶像に供えられた肉を食べても良いのだろうかという戸惑いの声がありました。7 節で「良心が弱い」とされる人々です。良心の呵責に苛まれながら、これまでの生活習慣と、キリスト 者としてのふさわしいあり方との間で戸惑っている人々がいました。一方で、「自由な態度」(9)でそ の肉を食することを受け入れ、堂々と過ごしている人々がいました。パウロはそのような人々に、今日 の聖書で「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさ い。」(9)と警告します。自由な態度でためらいなく一度供えられた肉を食す、ある面で心の強い 人々が、良心を痛めている人々を戸惑わせ、混乱させることに気をつけなさいとパウロは伝えます。 11 節には「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。」とあります。良心を痛めている人々 が強い人々の影響を受け、結果として教会という共同体から離れてしまうことを「滅びてしまいます」と 強い言葉をもって伝えます。続けて「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」とあり ます。パウロはキリスト者の共同体にあって、その根本である「愛」についての必要を訴えます。パウロ は「キリストが愛した目の前のその人のことを愛しているか」鋭くここで問いかけています。1 節にも「知 識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」とあります。 イエス・キリストを土台とする共同体は、キリストに倣い、弱い人々を中心として歩みます。時にその ためには自分の「正しさ」を断念します。パウロは最後に「それだから、食物のことがわたしの兄弟を つまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」と まで宣言します。 私たちは「正しさ」を追求するあまり、自分の立場や態度を絶対化し、それらが他者に与える影響 についてわからなくなることがあります。キリスト者の共同体を作り上げるのは「正しさ」ではなく「愛」で す。イエス様はマタイによる福音書 186 節で「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずか せる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。」と言われます。 私たちを神のもとに導くもの、私たちをつなぐものは、イエスキリストの十字架の愛です。イエスキリ ストの十字架の出来事は私たちに解放をもたらし、自由を与えました。しかしその自由な態度が人々 をつまづかせていないかということを問い直していたいと思います。「だから、あなたがたは食べるに しろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」1031

 

 

 

 

 

 『 神の同労者 』 奥村献牧師

コリントの信徒への手紙Ⅰ 319 節(新共同訳、新約聖書 p302

 

(聖 書)

1.兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つ まり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。2.わたしはあなた がたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかった からです。いや、今でもできません。3.相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争 いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになり はしませんか。4.ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」な どと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。5.アポロとは 何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお 与えになった分に応じて仕えた者です。6.わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長さ せてくださったのは神です。7.ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長 させてくださる神です。8.植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分 の報酬を受け取ることになります。9.わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あな たがたは神の畑、神の建物なのです。

 

(説 教)

今日の 3 章でも パウロは引き続き、コリントの教会で広がっていた問題に対して警告をします。その問題とは、3 節に 「お互いの間にねたみや争いが絶えない」とあるように、教会の中に対立や分裂が起こっているという ことでした。 パウロはコリントの教会の信徒たちに、あなたがたは「霊の人」ではなく「肉の人」であるということを 伝えます。そして、肉の人であるあなたたちには「乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ 固い物を口にすることができなかったからです。」(2)と語ります。ここでの「乳」とは、キリストの十字 架の福音です。信仰の土台、教会の土台となる十字架の福音を、まだ歩み始めたばかりであるコリン トの教会にパウロは語ってきました。しかし「肉の人」と表現されるコリントの教会の人々は、人間的な 争いを起こしていました。「肉の人」とは、人間的な基準に支配されている人のことを指します。コリント の教会ではそれぞれが人間的な基準に支配され、「私は誰々につく」と主張し合い、バラバラになっ ていました。そんな人々に「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神 です。」(6)とパウロは語ります。 私たちの教会の奉仕にも、さまざまな役割の違いがあります。それぞれの奉仕は分量も機能も違 います。目立たない奉仕も、目立つ奉仕もあります。植物を植える人と、水を注ぐ人に優劣がないよう に、教会の奉仕においても優劣は存在しません。教会を成長させてくださるのは神様だからです。 パウロは今日の聖書で、コリントの教会の人々のことを「肉の人」、「ただの人」と表現してきました が、最後に「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物な のです。」と呼びかけます。「神のために力を合わせて働く者」という言葉は、岩波訳聖書では「神の 同労者」と訳されています。わたしたちは教会にあって神の同労者であり、神の畑であり、神の建物 なのだとパウロは「わたしたち」という言葉を用いて呼びかけます。 教会の土台はイエス・キリストです。イエスキリストの十字架の福音こそが、わたしたちを強め、一つ となさしめます。人間的な価値観が土台となった共同体は、もろくくずれ去ります。「イエス・キリストと いうすでに据えられている土台のほかに、誰も他の土台を据えることはできないからです。」(311)。わたしたちはいつも、この土台にあって揺るがない教会でありたいと思います。十字架の福音 は、私たちを力比べの価値観から解放します。十字架で示された無力なるキリストの福音は、わたし たちを力の論理から解放します。十字架の福音は、すべての人は愛されているのだという神様の愛 にわたしたちを立ち返らせます。新しい年度の歩みが始まっています。2024 年度、平尾バプテスト教 会の歩みが十字架の主イエス・キリストを中心として豊かに広がっていきますように。

 

 

 

 

 

 『 十字架のある教会 』 奥村献牧師

コリントの信徒への手紙 11018 節(新共同訳、新約聖書 p.299

 

(聖 書)

 10.さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。 皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさ い。11.わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らさ れました。12.あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたし はケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。13.キリストは幾つに も分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あ なたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。14.クリスポとガイオ以外に、あなたがた のだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。15.だから、わたしの名に よって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。16.もっとも、ステファナの家の人たちに も洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。17.なぜなら、キリストが わたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しか も、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知 らせるためだからです。 18.十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神 の力です。

 

(説 教)

2024 年度の歩みが始まりました。先週は計画総会が開催され、2024 年度の様々なことが協議さ れ、決議されました。新しく立てられた計画、奉仕者のためにお祈りください。そして、2024 年度の教 会の歩みも、神様によってますます豊かに祝されるように祈りを合わせていたいと思います。 今週から教会はしばらく、コリントの信徒への手紙を読み進めます。コリントの信徒への手紙に は、がありますが、この手紙の執筆者はパウロです。この手紙の中でパウロは、パウロ自身が 設立したコリントという街のキリスト教会の信徒たちへの助言や、受けた質問に対する答えなどを書き 記しています。コリントという街は、商業の要の街として大変栄えていました。その中で、人々の心が ある面で荒廃し、その弱さゆえの問題がコリントの教会の中でも起こっていました。 コリント信徒への手紙の基本的な主題は 10 節に記されています。「皆、勝手なことを言わず、仲 たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。」。パウロがこのように勧告しな ければならないほどに、当時のコリント教会の信徒の心はバラバラでした。パウロはそのことを耳に し、いてもたってもいられずにコリントの人々に手紙を書きました。コリントの教会の信徒たちは「私は ○○につく」と主張しあっていました。イエス・キリストを中心とするべきその教会で、人間を能力や雄 弁さ、知識などで見定め「私はこの人につくのだ」とバラバラに主張し合っていました。これは、人間 の自然な性質かもしれません。人間にとって、人を頼りにしながら生きることは不自然なことではあり ません。人間が共同体の中で生き残るための工夫のひとつです。しかし教会においてそれがあまり にも加熱し、イエス・キリストが脇に置かれ、「どの人につくのか」ということが最優先されるときに、その 教会は教会ではなくなります。 パウロは「キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるた めであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで 告げ知らせるためだからです。」(17)とコリントの教会の人々に伝えます。パウロは十字架の福音を 告げ知らせるためにこそ、キリストから遣わされたのだと断言します。十字架の福音は神の力です。こ の世のあらゆる人間的な力とは全く違った力です。すべての人々に救いの道を示したイエスキリスト の十字架の出来事こそが、私たちの教会の真ん中にしっかりと据えられるべきものです。このことに ついて、共にみことばからきいていきたいと思います。 「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交 わりに招き入れられたのです。」(19)

 

 

 

 『 平和があるように 』 奥村献牧師

ヨハネによる福音書 201123 節(新共同訳、新約聖書 p.209

 

(聖 書)

 11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12.イエスの 遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の 方に座っていた。13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14.こ う言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだ とは分からなかった。15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜している のか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに 置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16.イエスが、「マリア」と言 われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味であ る。17.イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていない のだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなた がたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上 る』と。」18.マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告 げ、また、主から言われたことを伝えた。 19.その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の 戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」 と言われた。20.そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21. イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったよ うに、わたしもあなたがたを遣わす。」22.そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。 「聖霊を受けなさい。23.だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪で も、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」。

 

(説 教)

 

今日はイースター礼拝です。イースターは「復活祭」とも呼ばれます。イエスキリストが十字架にかけられた 後、三日目の朝に復活されたという聖書の伝える出来事を記念するために、キリスト者はこの時を大切におぼ えています。今日の聖書にはまさに、イエス様が復活なさったその日の出来事が記されています。イエス様はま ず、マグダラのマリアのもとに現れます。マグダラのマリアは、イエス様が十字架で亡くなった後、墓にかけつけ ました。しかし、そこにイエス様の体はなく、墓の中には二人の天使が立っていました。悲しみの中でマリアは 「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(13)と天使に伝えま す。すると、マリアの背後にイエス様が現れますが、マリアはそれを園丁(庭師)だと思い、イエス様だとは気づき ません。「マリア」と呼ばれて初めてそれがイエス様だと気づきます。イエス様に「ラボニ」(先生)と応えて安堵す るマリアにイエス様は「わたしにすがりつくのはよしなさい。」(17)と言われます。イエス様は、マリアがこれから 何を頼りにして生きていくべきかということを知っておられました。イエス様はこれから自身が天に上げられること を告げます。復活とは目に見える「しるし」ではなく、もっと大きなものをさし示しているということを、私たちも受け 止めていたいと思います。 その日の夕方、イエス様は弟子たちに現れます。弟子たちはイエス様を十字架につけた人々を恐れて鍵を 閉め、家にこもっていました。 イエス様を裏切ってしまったその弟子たちは、この時恐怖と共に、情けない思い でいっぱいであっただろうと思います。その真ん中にイエス様は現れ、「あなたがたに平和があるように」と繰り 返し言われました。ここでの平和という言葉には「ερήνη」というギリシャ語が使われています。このイエス様の言 葉はイエス様が天に上げられた後も神様との関係性の中で、弟子たちが守りのうちに置かれているのだというこ とを示しています。恐怖に怯え、自分自身にも失望していた弟子たちは、この言葉により大きな希望を受け、新 しく歩み出しました。十字架のイエス様は、恐怖、後悔、悲しみの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるよう に」と語ってくださるお方です。イースターのこの時、私たちはこのイエス様の言葉に答えて歩み出したいと思い ます。 私たちの住むこの世界では、戦争が今も続いています。人間が人間として扱われない世界があります。 軽く扱われる人権、理不尽な扱いを受ける命、なかったことにされる命があります。弟子たちに傷をお見せにな ったイエス様は、社会の中で小さくされた者、その一つひとつの命の側に立っておられます。私たちは「イエス 様が復活された!よかった!」で終わらせないイースターを祈りとともに過ごしていたいと思います。

 

 

『 渇きと痛みの只中に 』 奥村献牧師

ヨハネによる福音書 191730 節(新共同訳、新約聖書 p.207

(聖 書)

 17.イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴル ゴタという所へ向かわれた。18.そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒に ほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。19.ピラトは罪状書きを書い て、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。20.イ エスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。 それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。21.ユダヤ人の祭司長たちがピラト に、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてくださ い」と言った。22.しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答え た。23.兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ 渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであっ た。24.そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合っ た。それは、 「彼らはわたしの服を分け合い、 わたしの衣服のことでくじを引いた」 という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。25.イエスの 十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 26.イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの 子です」と言われた。27.それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときか ら、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。 28.この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こ うして、聖書の言葉が実現した。29.そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々 は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。30.イ エスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

(説 教)

 

本日 324 日から 330 日までは受難週です。30 日の夜には受難日キャンドルサービスが平尾会堂で 執り行われます。受難週のこの時、私たちは今一度イエス・キリストの十字架の出来事を自分の出来事として捉 え直し、祈りと沈黙をもって過ごしていたいと思います。イエス様が処せられた十字架刑は当時、最も重く、主に 政治犯に課せられるローマ帝国の刑罰でした。そしてそれは受刑者に、大きな苦しみと痛みを与え、その姿を 多くの人々に晒される、見せしめの意味の強い刑罰でした。イエス様は主にユダヤ人の指導者たちの訴えによ って十字架にかけられました。ローマ帝国の総督であったピラトはその人々に押し切られ、イエス様を十字架に つけることを決断してしまいました。 十字架の上には、罪状書が掲げられます。ピラトはその罪状書に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」(19)と 書きましたが、ユダヤ人の祭司長たちはそれがたとえ罪状書であっても納得しません。祭司長たちは抗議しま すが、ピラトはそれを退けました。「多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ」(20)とあります。混乱の中、イエ ス様の十字架の出来事は、多くの人々の知るところとなりました。十字架にかけられたイエス様の足元では、兵 士たちがイエス様の服を分け合いました。下着を誰がもらうかということはくじ引きで決めました。イエス様が十 字架にかかり、苦しみと痛みを受ける中、ユダヤ人の指導者たち、そしてこの兵士たちは最後の最後まで、イエ ス様の尊厳を奪い尽くしました。イエス様はどのような思いで、これらの出来事を見つめておられたでしょうか。 私たちもイエス様を傍に置いて、身勝手に歩んでしまうことはないでしょうか。教会という共同体は、イエスキリ ストを証しする群れです。同時に、弱さを持つ人間の群れでもあります。それぞれが不完全でありながらも対話 ができることが教会の豊かさです。しかし、もしもその歩みの中でイエス様が忘れられているとしたら、それはも はや教会とは呼ぶことはできません。キリスト者一人ひとりの生き方においても、イエス様を傍において、自分の 感覚や正しさのみを追求して生きているのならば、それは虚しい事かもしれません。 イエス様は「渇く」と言われました。そして酢いぶどう酒を口にして、「成し遂げられた」と言い、息を引き取られ ました。私たちはこの出来事の中、どこに自分を見るでしょうか。受難週のこの時、共に十字架の出来事に思い を馳せていたいと思います。

 

 

『空を打つような拳闘はしない 』  青野太潮 協力牧師

コリント信徒への手紙への手紙Ⅰ 9章24-27 節(新共同訳、新約聖書 P311

 

(聖 書)

24.あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だ けです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。25.競技をする人は皆、すべてに節制します。 彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制す るのです。26.だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もし ません。27.むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきな がら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

(説 教) 

昨年の7月 26 日の朝日新聞のスポーツ欄に、次のような、私が思うに実に「哲学的なコメント」が 含まれている記事が掲載されておりました。それは、プロボクシングの井上尚哉選手についての記事 でした。スーパーバンタム級4団体統一の世界チャンピオン井上尚哉選手は、現在 2525 勝 (23KO)無敗で、軽量級の選手としては圧倒的に高い KO 率を誇る、日本がこれまでに生み出した 最高のプロボクサーだろうと言われている選手なのですが、新聞記事は、8 か月前に現在の階級に 一階級上げた最初のタイトル戦でやはり無敗の王者フルトンに挑戦する井上選手のトレーニングを 見て、父親である慎吾トレーナーはとても驚いた、と、井上選手がフルトン選手を破った試合直後に 新聞記者に伝えていたのです。 「尚哉のシャドーボクシングを見ていると、フルトンの姿が見えるようになった。仮想敵の解像度(デ ィスプレーの画面上に映し出される画像の鮮明度のこと)が上がり、尚哉のそれに対応する動きにリ アリティーが出てきて、まるでそこにフルトンがいるように見えたんだ」、と、そう父親はコメントした、と いうのです。 つまり、どういうことかと言いますと、井上選手がしているシャドーボクシングは、実体的に何かを実 際に打っているわけではないのですが、しかし決してただ「空」を打っているわけではなくて、そこに 対戦する相手の「リアリティー」つまり「現実の像、実像」が姿を現わしているとしか言えないような、相 手の「現実」を的確に捉えた動作だった、というのです。 では、パウロが「自分はしない」と言っている「空を打つような拳闘」とは、私たちの信仰的な行為と して当てはまるものとしては、いったい何がそうだということになるのでしょうか。びっくりされる方がお られるのではないかと想像いたしますが、私の考えでは、それはまさに原理主義に――その中核に は「聖書の逐語霊感説」がドッカリと置かれているのですが――その原理主義に、英語で言えば「フ ァンダメンタリズム」に、当てはまるのではないか、と思われます。 実際、パウロが批判していた律法主義的なキリスト教徒たちは、まさに一点一画の誤りをも含まな い神の絶対的な律法としての彼らの聖書、すなわち旧約聖書を、文字通り逐語的に解釈をした上で その律法を遵守することによって、彼らは神からの救いを得ることができるのだ、と主張していたので すが、しかしパウロはそれに対して、「文字は人を殺し、霊は人を生かす」と言って、その厳格な律法 遵守主義がまったくの的外れであることに言及します(第二コリント3章6節)。文字に拘泥する者は、 人を殺してしまうというのです。しかし、その文字の文字面ではなくて、そこに込められた「現実」の意 味、つまり「リアリティー」をこそ大切にする者は、結局、霊を重んずることになるのであり、人を生かす 神の霊の自由な働きによって真実に生かされることになるのだ、と言うのです。 いくつかの例を取り上げながら、この点について、しばらく考えてみましょう。

 

 

『ひとりではない 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 16章25-33 節(新共同訳、新約聖書 P201

 

(聖 書)

25.「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父 について知らせる時が来る。26.その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。 わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27.父御自身が、あなたがたを愛 しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信 じたからである。28.わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行 く。」29.弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられませ ん。30.あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これ によって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」31.イエスはお答えにな った。「今ようやく、信じるようになったのか。32.だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰 ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひと りではない。父が、共にいてくださるからだ。33.これらのことを話したのは、あなたがたがわた しによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさ い。わたしは既に世に勝っている。」

(説 教)

今日は、震災をおぼえての礼拝です。2011 3 11 日の東日本大震災から、明日で 13 年の 時が経とうとしています。東日本大震災での死者行方不明者は、震災関連死をあわせて 22,215 人にのぼり、現在も 29,328 人の方々が避難生活を送っています(2/1 現在)。東日本大震災は日 本観測史上最大の地震であり、地震・津波に加えて、原発事故も発生しました。震災当日に出さ れた原子力緊急事態宣言はいまだに解除されていません。多くの方々が亡くなり、多くの方々が 心身ともに痛みを負う中で、当時の東京都知事は「日本人のアイデンティティーは我欲。この津 波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言しまし た。そして、この震災を天罰であると被災者に伝えた牧師や信徒も多くいました。そのような天 罰論を流布することは、被災者をさらに痛めつけ、自分が神の計画を知る預言者であるかのよう にふるまう行為です。被災地で、ある牧師の天罰論で傷ついた被災者が、キリスト教のボランテ ィアに「帰ってくれ」と言われ、その団体が苦労したという話もあります。神様は災害を起こ し、「天罰」として人々を苦しめ、高みからその様子を眺めるようなお方ではありません。 今日の聖書は、十字架に向かうイエス様が弟子たちに語られた告別説教の最後の言葉です。イ エス様が天に上げられた後にも、弟子たちが信仰を持ち続けることができるようにと、イエス様 はひとつひとつの言葉をお伝えになります。弟子たちはこの翌日、十字架の出来事の中でイエス 様をひとりにして、逃げ去ってしまいます。「わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に 来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」(32 )とイ エス様は言われます。弟子たちは私をひとりにするが「わたしはひとりではない」。神様が共に おられるからだと、イエス様は弟子たちに語りかけます。この言葉は、イエス様の予告通りにこ のあとイエス様を裏切ってしまい、自分自身に失望した弟子たちに希望を与えたのだろうと思い ます。神様がおられるから「ひとりではない」のだというイエス様の言葉が、弟子たちの心に 「わたしもひとりではないのだ」という信仰として残り続けたのだと思います。イエス様は最後 に「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝ってい る。」(33 )と言われます。これからきっと「世で苦難がある」が、イエス様は「世に勝って いる」から「勇気を出しなさい」と言われます。 神様は人間に、罰として災害や苦難を与え、遠くからその様子を眺めているようなお方ではあ りません。神様の愛は、イエス・キリストによって世に示されました。「世に勝っている」と言 われたイエス様は翌日、人間の正義感の暴走のゆえに十字架の上で孤独の中、無力にも息絶えま した。ここに人間を滅ぼす神ではなく、徹底的に人間の側に立った神の姿があります。 震災をおぼえる礼拝です。私たちはひとりではありません。「勇気を出しなさい」と言われた イエス様のみことばを心に響かせて、また歩み出したいと思います。

 

 

 

 

 

 

Love each other. 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 151-17 節(新共同訳、新約聖書 P198

(聖 書)

1.「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2.わたしにつながっていながら、実 を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結 ぶように手入れをなさる。3.わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4. わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につな がっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっ ていなければ、実を結ぶことができない。5.わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。 わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6.わたしにつながっていない人がい れば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれて しまう。7.あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもある ならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8.あなたがたが豊かに実を結 び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。9.父がわたし を愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。10.わたし が父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わた しの愛にとどまっていることになる。 11.これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満 たされるためである。12.わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわ たしの掟である。13.友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。14.わたしの 命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15.もはや、わたしはあなたがたを僕 とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼 ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。16.あなたがたがわたしを選ん だのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が 残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしが あなたがたを任命したのである。17.互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

(説 教)

今日の聖書は、13 章の最後から 16 章まで続いている「告別説教」または「訣別説教」と呼ば れるイエス様の説教の一部です。イエス様は十字架に向かわれるその前夜、弟子たちにご自身が 十字架にかけられた後もイエス様の弟子として歩み続けることができるようにと、大切な教えを 語られました。5 節には「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」とあります。イ エス様はご自分をぶどうの木にたとえて、イエス様につながっていれば「その人は豊かに実を結 ぶ。」しかし、イエス様から離れては「何もできない」と語っておられます。ヨハネによる福音 書は「初めに言があった。」(1 1 )から始まっていますが、この「言」はまさにイエス様の ことをあらわしています。そのいのちの源であるイエス様につながっていれば、豊かに実を結ぶ が、離れては何もできないのだということがここで示されています。そして 9 節でイエス様は、 神様がイエス様を愛されたように、イエス様も弟子たちを愛してきたと語った後に「わたしの愛 にとどまりなさい。」と言われます。イエス様につながる枝となり、豊かに実を結ぶこととは、 その愛を繋いでいくことなのかもしれません。私たちはその神様の豊かな出来事にいつも招かれ ています。世界には今、大きな紛争や戦争があります。人々が分断されています。そこに民族や 宗教の背景が影響していることも少なくありません。イエス様は「互いに愛し合いなさい。これ がわたしの命令である。」と言われます。英語では“This is my command: Love each other.” New International Version]と訳されています。イエス様がその生涯をもってお伝えになっ たこと、それは「愛し合いなさい」というこの教えに集約されるかもしれません。イエス様が私 たちを愛してくださったから、そのイエス様につながる時、私たちは互いに愛し合うことができ るのです。いつも自分のことだけを考え、他者とつながろうとしない私たちは、神様の究極的な 愛の形であるその十字架に向かわれたイエス様につながることによって、他者とつながることが できます。分断が広がるこの時にこそ、イエス様の言葉から聴き、歩み出しましょう。

 

 

 

 

『何と言おうか 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 12章27-36 節(新共同訳、新約聖書 P192

 

(聖 書)

27.「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言お うか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。28.父よ、御名の栄光を現してくださ い。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」29. ばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話し かけたのだ」と言った。30.イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためで はなく、あなたがたのためだ。31.今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放され る。32.わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」33.イエス は、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。34.すると、群衆 は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていまし た。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人 の子』とはだれのことですか。」35.イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間 にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分 がどこへ行くのか分からない。36.光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

(説 教)

2 20 日火曜日、敬愛する浦操さんが天に召されました。浦操さんは 42 歳の時に交通事故に 遭い、長く車椅子での生活を送っておられました。その中にあって、平尾教会をはじめ、福岡地 方連合、そして日本バプテスト連盟の諸教会のホームページの作成や、メーリングリストの作 成・配信に尽力されました。浦操さんは早くから教会活動におけるインターネットの必要性に着 目し、多くの方々がインターネットを通して「つながる」ということを実現してくださいまし た。浦操さんのご家族の上に、主の慰めがありますようにお祈りしたいと思います。 今日の聖書は、ヨハネ版「ゲッセマネの園の祈り」と呼ばれます。十字架の出来事に向かう中 で、イエス様が苦しみと葛藤の中で神様との対話をなさいます。そしてその後、群衆との対話を 通してこれから起こる十字架と復活の出来事の意味を明らかにされます。 「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。」(27 )とイエス様は言われます。岩波訳聖書では 「今、私の魂はかき乱されている。何を言おうか。」となっています。十字架の出来事を前に、 ここでイエス様は魂をかき乱され、苦しんでおられます。ここに、限界をもつ私たちと同じ人間 となられたイエス様の苦しみがあります。「『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言 おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」(27 )。イエスさまは、神様に 「助けてください」「救い出してください」というその思いをとどめ、「わたしはまさにこの時 のために来たのだ。」とご自身の使命をここで宣言されます。「父よ、御名の栄光を現してくだ さい。」とイエス様が言われると、神様は「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」 と語られました。その神様の声を群衆は聞きましたが、それを雷や天使の声であると思い違いし てしまいます。神様はイエス様の生涯を通して、すでにご自身の栄光を表され、そしてこれから 起こる十字架と復活の出来事を通して、再び栄光を現してくださると言うことを語られました が、群衆は理解しませんでした。イエス様が目の前におられ、神様の語りかけを耳にしているに もかかわらず、全くその意味を受け止めきれていない群衆の姿がここにあります。そしてこれは 私たちの姿でもあります。35 節でイエス様は「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。 暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」と言われます。 私たちはいつの間にか、イエスさまが共におられ、私たちを救ってくださるお方であるという ことを「あたりまえ」としていないでしょうか。私たちは福音書からみ言葉をいただきながら、 十字架の出来事を自分の出来事として何度でも受け止め、経験していたいと思います。イエス様 の生涯と十字架の出来事のその意味を私たちが知る時、神様が与えてくださった、あたりまえで はない「いのち」に生きることができます。そしてその与えられた命にきちんと向き合うこと で、他者の命とも向き合うことができます。「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じ なさい。」とイエス様は言われます。十字架にはりつけにされたイエス様は、私たちに今日も 「光を信じなさい。」と語りかけてくださいます。私たちはこの言葉にどう聞くでしょうか。

 

 

 

『信仰に生きる 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 1117-27 節(新共同訳、新約聖書 P189

 

(聖 書)

17.さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18.ベタニ アはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19.マルタとマリアのところに は、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20.マルタは、イエスが来られたと 聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21.マルタはイエスに言った。「主よ、 もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22.しかし、あなた が神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」 23.イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24.マルタは、「終わりの日の復活の時 に復活することは存じております」と言った。25.イエスは言われた。「わたしは復活であり、命 である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26.生きていてわたしを信じる者はだれも、決し て死ぬことはない。このことを信じるか。」27.マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来 られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

(説 教)

今日は会堂感謝記念礼拝です。平尾教会は「2つの会堂一つの教会」という、ユニークな特徴 を持った教会です。私たちはこの時に、平尾会堂と大名クロスガーデンという2つの会堂がこの 教会に与えられているというこの恵みを、あらためて神様に感謝したいと思います。プロテスタ ントの多くの教会にとって、会堂自体は「聖なる」ものではありません。礼拝されるべきは神様 であり、物理的な意味での会堂は新しく建てられたその時から古くなり、やがて朽ちていきま す。「教会」はイエスキリストに従う共同体のことを意味しており、会堂自体のことを意味して いません。しかしながら、会堂はその共同体の信仰を証(あかし)します。会堂のひとつひとつの 部分には、教会のそれまでの熱い祈りが染み込んでいます。私たちはそのことをおぼえ、感謝し つつまた新たに歩み出したいと思います。 今日の聖書は、ラザロの死と復活という出来事の中の、マルタとイエス様の対話の場面です。 この対話は、第一幕「ラザロの死」と第三幕「ラザロの復活」の間の、いわば第二幕の出来事で す。マルタとマリアの兄弟ラザロが病気であったため、マルタとマリアはイエス様に助けを求め ます。しかし、6 節には「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」 とあります。そしてラザロは死に、17 節には「イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬 られて既に四日もたっていた。」とあります。イエス様は焦るマルタとマリアとは対照的に、ご 自分の時の中で動き出し、姉妹をなぐさめに来られました。マルタはそのイエス様に思いをぶつ けます。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知 しています。」(21-22)。この言葉には、「イエス様がおられたならば」という強いなげき と、イエス様の祈りの力を信じる信仰が混在しています。家族を亡くし、深い悲しみに包まれた マルタのこの言葉は、胸にせまるものがあります。そしてこのマルタの言葉は、死に向き合った 時の私たち人間の限界を象徴的に表しています。イエス様は「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(25)と言われます。不可逆で、まきもどせない 「死」という出来事を前に、私たち人間はどうすることもできません。しかしイエス様は、死と は全く反対の「復活」、「命」であるとご自身をここで示されました。「このことを信じる か。」(26)というイエス様の問いに「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メ シアであるとわたしは信じております。」(27)とマルタはまっすぐな信仰を告白します。 教会は、十字架のイエスキリストを救い主であると証し続ける共同体です。十字架のイエス様 こそが私たちに本当の命を与えてくださるのだという信仰に立つ時、この会堂は神の宣教の器と なっていきます。「復活」という言葉の原意は「立ち上がること」です。平尾教会という共同体 はこの会堂で礼拝を捧げ、祈りの中でこれからも宣教の歩みを続けます。私たちには今、イエス キリストを証するための二つの器、平尾会堂と大名クロスガーデンが与えられています。悲しみ の中からイエス様への信仰により立ち上がったマルタのように、わたしたちもまた立ち上がり、 そして歩み出したいと思います。

 

 

 

I am he 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 91-17 節(新共同訳、新約聖書 P184

 

(聖 書)

1.さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。2.弟子たちがイエ スに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本 人ですか。それとも、両親ですか。」3.イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからで も、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。4.わたしたちは、わ たしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことので きない夜が来る。5.わたしは、世にいる間、世の光である。」6.こう言ってから、イエスは地面に 唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。7.そして、「シロアム――『遣わされた 者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見え るようになって、帰って来た。8.近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々 が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。9.「その人だ」と言う者もい れば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言 った。10.そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11.彼は答え た。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言 われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」12.人々が「その人はどこ にいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。 13.人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。14.イエスが土 をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。15.そこで、ファリサイ派の人々も、 どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を 塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」16.ファリサイ派の人々の 中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれ ば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。 こうして、彼らの間で意見が分かれた。17.そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を 開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言 者です」と言った。

(説 教)

 

2 11 日は「建国記念の日」という国民の祝日とされています。この祝日の趣旨は「建国を しのび、国を愛する心を養う。」と規定されています。211(旧暦 11)は日本神話の 登場人物で、日本の初代天皇とされている神武天皇の即位日です。つまり神武天皇即位によって 「日本」が作られたという神話を根拠にこの日が国民の祝日定められています。平尾教会や日本 バプテスト連盟の多くの教会では、この日を「信教の自由をおぼえる日」としています。これは 特に第二次世界大戦中に天皇を神とする国家神道が国民に強制され、多くの教会が迎合し、結果 として積極的に戦争に協力していったことへの悔い改めの思いからの取り組みです。 さて、今日の聖書で、イエス様は一人の目の見えない人物と出会います。弟子たちは「ラビ、 この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、 両親ですか。」(2)とイエス様に尋ねます。当時、体の障がいをもった人や、災いなどを受け た人は「本人か両親を含む先祖の罪の結果として苦しみを受けているのだ」と当たり前のように 理解されていました。イエス様は「神の業がこの人に現れるためである。」(3)と、はっきり 弟子たちのその考えを否定します。イエス様はその人の目に泥を塗り、「シロアムの池」に「行 って洗いなさい」と伝えます。その人がその通りにすると目が見えるようになりました。 その人をよく見ていた人々は、「その人だ」「いや違う」と混乱し、当時権力を持っていたフ ァリサイ派の人々のところへ連れて行きます。目が癒された次第の説明を本人から受けると、フ ァリサイ派の人々の中に分裂が起こります。17 節で「お前はあの人をどう思うのか。」と問わ れ、「あの方は預言者です」とその人は答えました。「神の業がこの人に現れる」とは、この人 がこの人らしくあることであり、神様から愛されている尊い存在なのだと自覚する事かもしれま せん。信教の自由をおぼえる日です。キリスト者の信仰が認められているように、私たちもまた 神様から愛されているその人らしさを認め、他宗教と対話をしながら歩んでいたいと思います。

 

 

 

『命を豊かに受けるため 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 107-18 節(新共同訳、新約聖書 P186

 

(聖 書)

7.イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。8.わたしより前に来た者は皆、盗人 であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。9.わたしは門である。わたしを通って入る 者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。10.盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼ したりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためであ る。11.わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。12.羊飼いでなく、自分の羊を持 たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。 ―― 13.彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。14.わたしは良い羊飼いである。わたしは 自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。15.それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知 っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。16.わたしには、この囲いに入っていないほかの 羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊 飼いに導かれ、一つの群れになる。17.わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを 愛してくださる。18.だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは 命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

(説 教)

 1 28()、大名クロスガーデンを会場に「ハラスメント研修会」が行われました。講師 は泉バプテスト教会の協力牧師である村上千代さんでした。教会におけるハラスメントについ て、講話やワークショップ、そしてディスカッションなどを通して皆で理解を深めました。私た ちが普段教会で何気なく交わしている言葉の中にも、人を傷つける「暴力」が潜んでいるのだと いうことをあらためて痛感し、学ばされました。 さて、今日の聖書でイエス様は「わたしは羊の門である。」そして「わたしは良い羊飼いであ る。」と言われます。当時のパレスチナにおける羊飼いの仕事は、大変な重労働でした。朝早く に起きて、羊たちを囲いから連れ出し、緑の牧場で食べさせて運動をさせ、水が流れているとこ ろに連れて行き、羊たちの渇きを潤して、夕方には一匹残らず囲いの中へ連れ帰らなければなり ません。今日の聖書の「羊」は教会の人々の事を指しています。イエス様はまず「わたしは羊の 門である。」と言われます。羊はイエス様という唯一の門を通って、神様のところにたどり着く ことができます。10 節には「盗人(ぬすびと)」について「盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりす るため」に来たのだと記されています。これは当時の教会において、人々から搾取し、人々を苦 しめていたイスラエルの指導者たちへの批判です。しかし、それとは反対にイエス様は「羊が命 を受けるため、しかも豊かに受けるため」に来られたのだとあります。盗人のように自分のため でなく、羊こそが豊かに命を受けるためにこの世に来られました。 私たちの教会生活においても、神様のためにと思っていても、気がつくと自分の立場や保身た めに行動しているということがあります。そのことに気づかずにそのまま過ごしていると、いつ しか教会においても人が人を傷つけ、人から何かを奪うという構造ができてしまいます。 11 節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とイエス様は 言われます。イエス様は十字架の出来事において、私たちに救いの道を示してくださいました。 いろいろな情報や声が飛び交う中、良い羊飼いなるイエス様の声を知ることから、私たちの羊と しての歩みは始まります。自分の保身や利益のために私たちを利用する盗人の声ではなく、命懸 けで羊を守るその羊飼いなるイエス様の声です。 16 節には「この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。そ の羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」 と、教会のこれからの広がりが語られています。教会がイスラエル民族だけでなく、これから他 の民族への広がりをもつ。そしてそれは、それぞれの民族がそれぞれ別の教会をもつのではな く、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」ということに私たちは注目していたいと思 います。良い羊飼いなるイエス様は、人と人との大きな溝を埋め、民族の壁すらも打ち破ってく ださいます。このイエス様の言葉から今日も聞いていきましょう。

 

 

 

 

『無駄にならないように 』  奥村 献牧師

ヨハネによる福音書 61-15 節(新共同訳、新約聖書 P174

 

(聖 書)

1その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。2.大勢の群衆が後を追っ た。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。3.イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお 座りになった。4.ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。5.イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分 の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言 われたが、6.こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておら れたのである。7.フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りない でしょう」と答えた。8.弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。9.「ここに大麦のパ ン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないで しょう。」10.イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに 座ったが、その数はおよそ五千人であった。11.さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座って いる人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。12.人々が満腹したと き、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。13.集 めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。14.そこ で、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。15.イ エスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれ た。

(説 教)

 

今日の聖書は「五千人の給食」として知られる聖書の箇所です。皆さんは「奇跡」と聞いた時に、 どのような出来事を想像するでしょうか。今日の聖書はこの「奇跡」について私たちに深い問いを投 げかけてきます。 イエス様と弟子たちは、今日の聖書でガリラヤ地方へ行かれます。それを「大勢の群衆が後を追っ た。」(2)とあります。イエス様が病人たちを癒やされたのを見て、またはその噂を耳にして、大 勢の群衆がイエス様についてきました。「イエスという人がすごいらしい」「イエスという人につい ていけば、何かいいことがあるかもしれない」。おそらくはそんな思いをもって、多くの人々は日頃 の苦しい生活から抜け出すために、イエス様の後を必死で追いました。人々の心は渇ききっていたの だろうと思います。イエス様はその人々が集まってくるのを見て、弟子であるフィリポに「この人た ちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5)と問われます。この質問はイエス様 がフィリポを試すためであって「御自分では何をしようとしているか知っておられた」(6)とあり ます。ここでのイエス様が「しようとしている」ことは、この後の五千人の給食の出来事を指してい ます。同時に、イエス様の身にこれから起こる事、究極的には十字架の出来事を意味しています。イ エス様に問われたフィリポは資金が足りないことを理由に、人々への給食をあきらめます。別の弟子 のアンデレは、少年が二匹の魚と五つのパンを持っているが、これでは役に立たないと、手元にある ものを見て、同じくあきらめます。これはどうすることもできない困難に直面したときの私たちの姿 でもあります。私たちはすぐに現実的な事に目を向けて、他者に向き合うことをあきらめてしまいま す。しかしイエス様は違っていました。「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座ってい る人々に分け与えられた。」(11)。イエス様は目の前の人々を満たすことを諦めることなく、感謝 の祈りを唱え、人々にそのパンを分け与えられました。人々は「欲しいだけ」(11)のパンをいただ き、満腹しました。イエス様はそこで「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさ い」(12)と弟子たちに言われます。人々はイエス様から、救いに至るいのちのパンをいただきまし た。それは人々を満腹にし、尚も余るほどのめぐみです。余ったパンくずを集めると、「十二の籠が いっぱいに」(13)なりました。この「十二の籠」はイスラエルの十二部族を象徴しており、イエス 様によって始まる新しいイスラエルを意味しています。私たちは今日の聖書から、イエス様こそが命 のパンであり、そのパンをイエス様は私たちに分かち合ってくださったのだということを覚えていた いと思います。そしてその溢れんばかりの恵みは、私たちを飢え乾く人々と命のパンを分かち合って 生きる者へと造り変えていきます。私たちが本当に造り変えられるためには、既に与えられている命 のパンであるイエス様に気がつくことが大切です。今日の聖書から、奇跡ということの本当の意味を 共に分かち合いましょう。

 

 

『賢いものの中の賢いもの 』  小林洋一先生

箴言 3024-28 節(新共同訳、旧約聖書 P1031

 

(聖 書)

(2 テモ 3:16) 16 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を 教え、戒め、誤りを正し、義に導

訓練をするうえに 有益です。

(箴 1:7 7主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵 をも諭しをも侮る。

(箴 1:7)(「主を畏れる」の箴 1:7 と箴 31:30 の囲い込み〔inclusio〕) 7主を畏れることは知恵の初め。 (箴 31:30 30あでやかさは欺き、美しさは空しい。 主を畏れる女こそ、たたえられる。

(箴 30:24-26)(今日のテキスト) 24この地上に小さなものが四つある。それは知恵者中の知恵者だ。 25蟻(複数形)の一族は(アム=民)力はないが 夏の間にパンを備える。 26岩狸(複数形)の一族(アム=民)は強大ではないが その住みかを岸壁に構えている。 27いなご(単数)には王(単数)はないが 隊を組んで一斉に出動する。 28やもり(セマミート)(単数)は手で捕まえられるが 王(単数)の宮殿に住んでいる。

(箴 6:6-8 6 怠け者よ、蟻のところに行って見よ。その道を見て、知恵を得よ。7 蟻には首領もなく、指揮官 も支配者もないが 8夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。

 (レビ 11:5) 5岩狸は反すうするが、ひづめが分かれていないから、汚れたものである。

 (レビ 11:30-31) 30 やもり(アナカー)、大とかげ、とかげ、くすりとかげ、カメレオン。31 以上は爬虫類の中で汚 れたものであり、その死骸に触れる者はすべて夕方まで汚れる。

 (マタ 7:24) (岩の上に家を) 24 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似て いる。

 ( 2:4)(神は権力者を笑う) 4天を王座とする方は笑い 主は彼らを嘲り

( 1:6) (箴言編纂の目的の1つ) 6 箴言と風刺を 知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。

(協会共同訳)

 

 (1 コリ 1:24-25) 24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリス トを宣べ伝えているのです。25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 

 

『失望は喜びへ 』  奥村献牧師

ヨハネによる福音書 21-11 節(新共同訳、新約聖書 P165

 

(聖 書)

1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。2.イエスも、その弟子たちも婚礼に 招かれた。3.ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。4.イエスは 母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」5.しか し、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。6.そこには、 ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものであ る。7.イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満 たした。8.イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使い たちは運んで行った。9.世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、 水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、10.言った。「だれで も初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒 を今まで取って置かれました。」11.イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現さ れた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 

(説 教)

 

今日の聖書は、ガリラヤ地方のカナという町が舞台です。そこでイエス様は最初の奇跡を示さ れました。「カナの婚礼」として知られるイエス様の奇跡です。 カナという町で婚礼があり、そこにイエス様とその弟子たちが招かれました。当時、パレスチ ナにおける婚宴には家族や親戚、知人だけでなく多くの人々が招かれ、より広い共同体の祝祭を 意味していました。そして、その宴は 1 日以上続いたということでした。そこで、なんとぶどう 酒が足りなくなるという一大事が起こります。イエス様の母マリアは、早速イエス様に助けを求 めますが、イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来て いません。」(4)と言われます。イエス様は助けを求めるマリアにここで、イエス様の時はま だ来ていないのだということをお示しになりました。マリアはそのイエス様を信じて、召し使い たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(5)と伝えました。イエ ス様は二つのことを召し使いたちに言われます。それは「水がめに水をいっぱい入れなさい」(7)、そして「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」(8)というこ とでした。召し使いたちが世話役のところへその水がめを持っていくと、水がぶどう酒に変わっ ていました。 これらの出来事はすべてバックヤードで起こった出来事です。おそらく多くの参加者は何も知 らないまま、その後の宴は何の問題もなくつづいたことでしょう。 イエス様は、ご自分の時の中で、最初のしるしをここで示されました。それは、誰かの目の前 で水がぶどう酒にみるみる変わっていくという劇的な出来事ではなく、宴の裏方が、イエス様に 言われた通りにすると、いつの間にか起こっていた奇跡でした。婚宴に招かれていた多くの人々 は、この奇跡の出来事を婚宴が終わってから気づいたことでしょう。 私たちは何かが足りなくなり、不安が強まる時に、マリアのように今すぐに何とかして欲しい と願います。私たちもマリアのように、率直にイエス様に祈りの中で心の内にある求めを言い表 していたいと思います。神様はその祈りを受け止めて、イエス様が私たちと共に歩んでください ます。しかし、それはあくまでイエス様の時の中でなされます。そして今日のこの奇跡の出来事 が示すように、イエス様はイエス様に聞き従う人間を用いて、すべての人々に救いを与えてくだ さいます。イエス様の時、その究極は十字架と復活の出来事です。人々は後になってからその意 味を考え、そこにある救いのわざに気づきました。イエス様は、神様の栄光を見えるようにして くださった方です。イエス様は大失態を大成功に変えてくださいます。失望は喜びと希望に変え られます。それは人間の「満足」という次元を大きく超えた出来事です。 イエス様は人間の求めのままではなく、ご自分の時の中で、すべての人に必要なことを見つめ 続け、すべての人の救いのためになすべきことをなしてくださいました。私たちもマリアのよう に、このイエス様に聞き従っていきたいと思います。

 

 

 『来て、見なさい 』  奥村献牧師

ヨハネによる福音書 1章43‐51 節(新共同訳、新約聖書 P165

 

(聖 書)

43.その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われ た。44.フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。45.フィリポはナタナエルに出会って言 った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人 で、ヨセフの子イエスだ。」46.するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったの で、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。47.イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のこ とをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48.ナタナエルが、「どうし てわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけ られる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49.ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の 子です。あなたはイスラエルの王です。」50.イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるの を見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51.更に言われた。「はっきり 言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

(説 教)

新しい一年が始まりました。今年は能登半島の地震など、心を痛めるニュースから始まりまし た。その混乱は今も続いています。これからの一年がどんな年になるのか、誰にも予想はできま せん。私たちの中にいろいろな気持ちが湧いてきます。しかしどんな時にも、私たちを導いてく ださる主なる神様が共におられることを信じて、なすべきことをなし、主を見上げて歩み出した いと思います。 今日の聖書は、イエス様がフィリポとナタナエルを弟子として召し出す場面です。イエス様は まずフィリポに出会います。そして「わたしに従いなさい」(43 )と伝えると、フィリポはす ぐに従いました。フィリポはすでに弟子となっていたアンデレとペトロと同じ町、ベトサイダの 出身でしたので、アンデレとペトロが従っているイエス様をすぐに信じて受け入れることができ たのかもしれません。その後、フィリポはナタナエルにイエス様を紹介します。しかし、イエス 様が「ナザレの人」であることを聞くとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろう か」と疑い、偏見を示します。ナタナエルはナザレと同じガリラヤ地方のカナという町の出身で したが、そのナザレの人であるイエス様を疑っていました。 フィリポは「来て、見なさい」と彼に言いました。イエス様を近くで見て判断するようにと声 をかけたのでした。疑いをもったナタナエルがイエス様に近づくと、なんとイエス様が先に「見 なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」(47 )とナタナエルのことを見 抜かれたのでした。 私たちは多くの偏見に支配されています。いろいろな情報が飛び交う世の中にあって、まず 「疑う」ということは大切かもしれません。しかし、私たちを支配する偏見は、目の前の大切な 事柄をも見えなくしてしまいます。ナタナエルは、フィリポに言われてイエス様に近づくこと で、自分のことを見抜かれて、イエス様が神の子であるという確信に至りました。 しかしイエス様は、「自分のことを言い当てたイエス様」を信じたナタナエルに、「もっと偉 大なことをあなたは見ることになる。」(50 )と伝えました。 「言い当てた人」「すごい人」だから信じるという信仰を超えて、私に従いなさいというイエ ス様からのメッセージがここにあります。 信仰をもつこととは、イエス様を救い主として信じることです。イエス様がすごい能力をもっ ていて、それを表したから、この目でそれを見たからイエス様を信じるのではありません。イエ ス様は神の子であり、イエス様が指し示された神様を信じることこそ、信仰の始まりではないで しょうか。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、 あなたがたは見ることになる。」(51 )。私たち人間に、イエス様が出会ってくださったとい う奇跡があり、そのイエス様が示してくださる奇跡の先に、イエス様が神の子であるという奇跡 があります。疑い恐れる私たちにイエス様は「来て、見なさい」と言われます。恐れずに歩み出 しましょう。

 

 

 

『主の恵みと慰めの年 』  奥村献牧師

イザヤ書6113 節(新共同訳、旧約聖書 P1162

 

(聖 書)

1.主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良 い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている 人には解放を告知させるために。

 2.主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して/嘆いている人々を慰

3.シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗 い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。彼らは主が輝きを現すために植えられた/正義の樫 の木と呼ばれる。

 

(説 教)

今年最後の日は主日となりました。この最後の日、12 31 日にも礼拝をささげることができ ることを心から感謝いたします。みなさんにとって、この一年はどのような1年間だったでしょ うか?きっといろいろな出来事があり、思い出されること、思い出されないことがあると思いま す。人間の性格はそれぞれですので、同じ出来事を目にしていても、その記憶の残り方はそれぞ れです。その中でも、自分にとって都合のいい記憶というものは、頭に残りやすいものです。都 合の良い部分だけを見つめていると、人間は自分の罪に向き合い、悔い改めるというプロセスに 進むことができません。聖書の中のイスラエルの民も悔い改めを怠り、同じ過ちを何度も繰り返 していました。 今日の聖書は、バビロン捕囚にあったイスラエルの民が、バラバラにされたその捕囚の地から 民族の故郷であるエルサレムに帰ってきた時に語られた言葉です。バラバラにされたイスラエル の民がせっかくエルサレムに帰還しましたが、帰還した者たちは深い失望の中に置かれていまし た。やっとの思いで故郷エルサレムに帰還しましたが、そこには荒廃した土地が広がり、経済的 な困窮や、仲間割れ、敵の妨害など、多くの問題が山積していました。 その中にあってこの「貧しい者への福音」は語られました。神様こそが、「わたし」に油と霊 をそそぎ、「主が恵みをお与えになる年」を与え、嘆いている人々を慰めてくださるのだという 予言がここで語られています。エルサレムに戻れば、そこに希望があると信じて帰ってきた人々 は、大きな期待を抱いていた分、深い嘆きの中に置かれていました。まさに先が見えない真っ暗 闇を歩むようなその人々に、この希望に満ちた言葉が神様から示されました。 神様に何度も悔い改めを求められたイスラエルの民でしたが、これまで聞く耳をもたず、突き 進んだ結果として、幾多の苦難を味わいました。しかしそのイスラエルの民を、神様は接して見 捨てることはなさいませんでした。今日のこの聖書の予言は、イエス様の到来によって完成され ます。ルカによる福音書 4 16-21 節にあるように、イエス様はナザレの会堂でこのイザヤ書の 箇所を読み「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られまし た。 失望したものを励まし、虐げられている者に希望を与える言葉が、当時の苦しむ人々に語られ ました。まさにイエス様こそが「主が恵みをお与えになる年」を告げ、私たちに語りかけ、それ を「実現」させてくださいます。 私たちの生活の中にも、私たちを不安にさせることが多くあります。身近な人間関係で苦しん でおられる方も多くおられるかもしれません。また、世界で起こっている戦争や、日本経済の事 など、私たちを不安にさせ、苦しめる社会的な事柄は多くあると思います。 しかし新しい年を迎えるにあたり私たちも、今日のこのみことばを喜びと希望を持って受け止 めていたいと思います。失意の中にある者をこそ励ます福音です。この虐げられた者の側に立つ 神様の正義、み旨に立ち返りながら、与えられている恵みに感謝をしながら歩み出したいと思い ます。この年も、振り返れば神様によって多くの恵み、守り、導き、そして慰めを受けた一年で した。この神様にすべてを委ねつつ、新しく歩み出しましょう。

 

 

 

『平和の君、イエス・キリスト 』  奥村献牧師

イザヤ書916 節(新共同訳、旧約聖書 P1073

 

(聖 書)

 

1.闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。 2.あなたは深い喜びと/大きな楽しみをお与えになり/人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時 を祝うように/戦利品を分け合って楽しむように。 3.彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を/あなたはミディアンの日のように/折ってくだ さった。 4.地を踏み鳴らした兵士の靴/血にまみれた軍服はことごとく/火に投げ込まれ、焼き尽くされ た。 5.ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられ た。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱 えられる。 6.ダビデの王座とその王国に権威は増し/平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によ って/今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。

 

(説 教)

今日の聖書も先週のイザヤ書 7 章「インマヌエル予言」に引き続き、大変有名な聖書の箇所で す。そして今日の聖書もまた、イエス・キリストの到来を予言しているとされている箇所です。 アッシリア帝国に占領され、多くの土地を奪われたイスラエルの民は、この時絶望のどん底に いました。多くの者が連れ去られ、もとの土地に残された者もアッシリア帝国の支配下にあり、 将来への希望を全く抱くことができない状態に置かれていました。そのようなイスラエルの民に 語られたのが、今日の預言者イザヤの言葉になります。その予言の内容は、その時のイスラエル の民が置かれている状況からは考えられないような、驚くべきものでした。「闇の中を歩む民 は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(1 )。打ちひしがれ、希望 を抱くことができず、闇の中を歩む人々の上に、光が輝いたというのです。多くの物を奪われ、 傷つき、神様から見捨てられた気持ちになって歩んでいる人々。暴力や不義の濁流の中で、流さ れるがままに身をまかせ、諦めてしまっている人々。正しさのために生きて、抗うよりは、黙っ ている方がいいと思っている人々に、光が示されたという予言がここで語られました。 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられ た。」(5 )。その光とは、「わたしたちのために」与えられたみどりごでした。そのみどりご は、闇の中を歩む民の希望そのものでした。創り主である神様は私たち人間、そしてこの世界を 決して諦めませんでした。 この世界を慈しみと目的を持って創造してくださった神様は、すべ ての被造物がその創造の目的にそって生きる世界を諦めないお方です。人間は過ちを繰り返しま すが、神様は被造物が本来の生き方へと立ち返ることをいつも望んでおられます。 私たちはこの救いのしるしであるみどりごにより、平和を示され、平和へと引き戻されるので す。それが私たちにとっての光です。私たちは光をたよりに生きていくことができます。そして 平和を創り出すことへと参与することができます。この「光」は人間が利己的な目的で、「これ が光だ!」と都合よく偏った解釈をしていいものではありません。あくまですべての創造主、神 様の示してくださる光です。力で何かを押さえつけて自分の利益や栄光を得ること。そんなもの は、神様が与える希望の光ではありません。人間はいつまでたっても自分中心に生きて、愚かな 争いを繰り返してしまいます。人間は聖書の言葉すら都合よく解釈し、人の命を軽んじて自分の 栄光を求めてしまうような弱さを持っています。 その罪にまみれた人間の世界にこそ、新しい統治者、インマヌエルなる救い主が与えられまし た。その救い主こそがイエス・キリストです。平和の君 “Prince of peace”なるイエス・キリ ストです。 クリスマスのこの時、私たちは神様の愛の究極の形であるこの救い主、平和の君、 イエス・キリストの存在に感謝をしていたいと思います。 イエスキリストをこの世界にお迎えしてからも、私たち人間のその愚かな歴史は続いていま す。闇に包まれ、諦めてしまいたくなる気持ちになることもあります。しかし、私たちはこの闇 の中にあって、光を見続けるものでありたいと思います。十字架の上で痛みと孤独、悲しみに耐 えながら死んでいったイエス・キリストが真っ暗闇の中を歩む私たちに光を示して下さいます。

 

 

 

『一緒にいる神様 』  奥村献牧師

イザヤ書71014 節(新共同訳、旧約聖書 P1071

 

(聖 書)

10.主は更にアハズに向かって言われた。11.「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方 に、あるいは高く天の方に。」 12.しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」 13.イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に/もどかしい思いをさせるだけでは足 りず/わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。 14.それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、 男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。

(説 教)

 

いよいよアドベントの第二週を迎えました。今日の聖書は「インマヌエル予言」がなされてい る有名な箇所です。これは、旧約聖書の研究者の中で最も議論を巻き起こしている聖書箇所のひ とつでもあります。 今日の聖書には、シリア・エフライム戦争(B.C.736- 732)がまさに始まろうとしていたという 時代の背景があります。当時、巨大な帝国であったアッシリア帝国が、中央集権化し、軍事力を 強め、世界帝国を築こうとしていました。アッシリアが領土を拡大し、侵攻してくるかもしれな いということを受けて、周りの小さな国々は不安を抱き、大きく混乱しました。その混乱の中 で、反アッシリア同盟がつくられ、多くの国々がその同盟に加盟しました。当時イスラエルはす でに「北イスラエル」と「南ユダ王国」に分かれていました(B.C.922 年に分裂)が、北イスラエ ルはその反アッシリア同盟に加盟しました。しかし、南ユダ王国は加盟を拒否しました。 そのことにより、南ユダ王国の王、アハズ王は、アッシリアの勢力拡大に加えて、反アッシリ ア同盟からも攻撃を受けるかもしれないという板挟みの状態にありました。 そのような中で、神様がイザヤを通してアハズ王に語ったのが今日の聖書です。11 節で「主 なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」とイザヤを通 して神様がアハズに語りました。しるしとは、未来への確証です。このしるしを、この世の力に 求めるのではなく、「高く天の方に」つまり神様にこそ求めなさいと言うことが伝えられます。 しかし、アハズ王はこれを拒否します。あたかも神様を尊重するかのように装い「主を試すよう なことはしない。」と断ります。最終的には、アハズ王はアッシリア帝国に助けを求め、その事 が原因で北イスラエル王国は領土を失い、南ユダ王国もアッシリアの属国となってしまいます。 しかしアハズ王はその重大さに気づいていません。板挟み状態の中で、大切な事が見えなくな り、神様の警告すら聞けなくなっているアハズ王の姿がここにあります。 今日の聖書の前に、神様は「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない。」(4 ) とアハズ王に伝えるようにとイザヤに使命を託しました。この言葉は、聖書を貫くメッセージで す。そして、これは今を生きる私たちに響いてくる言葉ではないでしょうか。さまざまな困難を 目の前にして、すぐに弱気になり、神様のことを忘れ、この世の力に頼ろうとしてしまう。それ がどんな結果を生み出すことになるのかという事を立ち止まって考える事ができない。私たちは 不安になると、すぐに目に見えるものにしるしを求めてしまいます。しかし信仰とは、神様を信 頼し、見えなくされたものを、見る力ではないでしょうか。 神様を見失い、自分をも見失いそうになっていた、そのアハズ王にこのインマヌエル予言は語 られました。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」 (14 )。人間の焦りや不安、他者へのあきらめの真ん中に赤ちゃんが与えられるのだという、 そのインマヌエル予言が語られました。インマヌエルとは「神、我らと共にいます」という意味 です。私たちと共にいてくださる救い主が与えられるという希望が、この予言で示されました。 その赤ちゃんこそが、人間の弱さをすべて引き受ける救い主でした。苦難の僕であるそのイエス 様です。不安や混乱の中にある人間に「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはな い。」と語ってくださり、私たちの応答を待ってくださる神様がおられます。それでも、神様に 助けを求めない、聞き従わない私たちに、神様がインマヌエルなる救い主をお送りくださいまし た。そのことに感謝しながら、アドベントのこの時に私たちは心静かに救い主の誕生を待ちたい と思います。神、我らと共にいます.

 

 

 

『闇の中を歩くときも 』  奥村献牧師

イザヤ書50411 節(新共同訳、旧約聖書 P1145

 

(聖 書)

4.主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくだ さる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。 5.主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。 6.打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲り と唾を受けた。 7.主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のように する。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。 8.わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立 とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。 9.見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように 朽ち/しみに食い尽くされるであろう。 10.お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、 光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 11.見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし/松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って/自分 で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわ るであろう。

 

(説 教)

今日の聖書の箇所には新共同訳聖書で「主の僕の忍耐」と記されています。4 節、5 節には、 主なる神様こそが、主の僕の備えをなしてくださるのだとあります。神様が、僕に舌を与え、言 葉を呼び覚まし、そして耳を開いてくださいます。主の僕としての備えを神様がなしてくださる のは「疲れた人を励ます」ためでした。この「疲れた人」とは、バビロニアによって故郷を追わ れたイスラエルの民のことを指していると考えられます。主の僕として立たしめられた者は、嘲 りを受けようとも、揺らぐことがなく「辱められることはない」(7 )とあります。それは「主 なる神が助けてくださる」(7,9 )からです。 主の僕としての歩みは忍耐の連続かもしれません。それは、神様のみ心を追い求め、みことば に立ち歩むからです。その歩みは当然、時に周囲の価値観とぶつかり合います。時に近しい人々 から侮辱を受けることがあるかもしれません。しかし、その歩みを主が備えてくださり「主なる 神が助けてくださる」から、主の僕は忍耐することができます。僕はどれだけ阻害されようと も、主こそが「正しさを認める方」(8 )であることを知っているのです。10-11 節には、主の 声に聞き従わないイスラエルの民への嘆きが綴られています。主の僕のように「闇の中を歩くと きも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が」(10 )いるだろうかと いう嘆きです。闇の中を歩くとき「自分の火の光に頼って」(11 )生きているイスラエルの民 は「苦悩のうちに横たわるであろう。」(11 )という言葉でこの歌は終えられています。 イエス・キリストは、主の僕の究極的存在です。イエス・キリストは疲れ果て、破滅の道を進 もうとする私たちに、救いの道を示してくださいました。このイエス・キリストの十字架を見上 げて歩む時、私たちは主の僕として立たしめられるのです。言われのない罪で理不尽に暴力を受 け、十字架にはりつけられたイエス様。十字架の上で、痛みと孤独に耐えながら疲れ果てて息絶 えたイエス様です。そのインマヌエルなるイエス様が、今日も私たちと共におられます。 イスラエル、パレスチナの地で戦争が起こり、日々多くの命が失われています。ハマスも、イ スラエル軍も残虐な行為や偽りの情報発信を繰り返しています。絶望的な状況をニュースで目に しても、何が正しいのか判別ができないような状況があります。 しかし私たちは、その中にあっても、み心を求めて歩み出したいと思います。神様こそが真理 を示してくださるお方なのだという信仰に立って主の平和を求めて歩んでいたいと思います。 「人は自己の力で自らを救うことはできません。まさしくパウロが『誰が、この死の体から私 を救ってくれるだろうか』(ローマ 7:24)と叫んでいるように、私がどうしたら救われるかでは なく、誰が救ってくれるかが問題なのです。『義人はいない、1 人もいない』(ローマ 3:10)とい う現実からは、ただ神から人へ働きかけなければ、人は救われようがなかったのでした。」 (関田寛雄『われらの信仰』1983,日本キリスト教出版

 

 

 

 

『子どものように 』  奥村献牧師

マルコによる福音書1013-16 節(新共同訳、新約聖書 P.81

 

(聖 書)

13.イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14. しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさ い。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15.はっきり言っておく。子供のよ うに神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16.そして、子供たちを 抱き上げ、手を置いて祝福された。

(説 教)

今日の第一礼拝の中では、子ども祝福式が執り行われます。この時に、すべての造り主なる神 様に子どもたち一人ひとりの成長と命を感謝しながら、心からの礼拝をささげたいと思います。 今日の聖書には、弟子たちの無理解をお叱りになるイエス様の姿が描かれています。まず最初 に、子どもたちがイエス様のもとに連れてこられました。それは「イエスに触れていただくた め」(10 )。つまり、イエス様に祝福をしていただくためでした。子どもたちはおそらく、家 族か兄弟に連れてこられ、イエス様のもとに辿り着きました。おそらくはまっすぐにイエス様を 見つめ、期待と希望に満ち、わくわくしながらイエス様の祝福を待っていたことだろうと思いま す。しかし残念ながら、それを阻止する人たちがいました。他ならぬイエス様の弟子たちでし た。弟子たちが子ども達を「叱った」(13 )理由については明記されていません。しかし、弟 子たちはおそらくはイエス様の活動を邪魔させないため、または子どもたちを蔑視し、イエス様 に近寄る資格がないと判断したために「叱った」のであろうと想像できます。 イエス様はその弟子たちの心を見抜いて憤りました。そして「子供たちをわたしのところに来 させなさい。妨げてはならない。」(14 )と言われました。秩序に目がいって、目の前のなす べきことが見えなくなっている弟子たちの弱さを見抜いて、イエス様はお怒りになられました。 社会秩序やルールを守ることは人間が生きていく上で必要なものです。それらは大人になると自 然に身についてくるものです。人と生きる上で、ある程度のルールを守ることは必要です。しか しそれは時に私たちの目を曇らせます。子どもはルールなどに縛られません。大人は勝手に「い い子」「悪い子」などと子どものことを評価しますが、子どもからすれば関係のないことです。 その自由な存在を、なすがままに私のもとに来させなさいとイエス様は言われます。 人間は大人になっていくたびに「うまく」生きていくことを身につけます。まわりと協調して 生きていこうとするような心がけは人間にとって必要かもしれません。しかし身につけたルール が絶対化され、神様の祝福をすら阻害するのならば、それは虚しい生き方かもしれません。イエ ス様は、イエス様の活動を支えるために一生懸命である弟子たちのことを、一番よく理解してい たに違いありません。それでもなお、怒りをもって大切なことを示されました。「神の国はこの ような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなけれ ば、決してそこに入ることはできない。」。このみことばは、日々いろいろなしがらみに支配さ れている私たちを解放してくれる言葉です。 「神の国」という言葉はギリシャ語で「バシレイア・トゥ・テウー」=「神の王国、神を王と すること」という意味を持ちます。人間の定めた秩序ではなく純粋に神の支配に生きること、純 粋に神様を王として生きることをその意味としてもちます。そしてそれは、子どものように、小 さく弱くされた者を中心に広がっています。マルコによる福音書の 9 37 節で、誰が一番偉い のかと論じ合っている弟子たちの真ん中にイエス様が子どもを立たせ「わたしの名のためにこの ような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、 わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」と言われました。 神の国はすべての人に開かれています。何かのノルマを達成した人、ルールを守りきったひ と、難しい問題を解いた人ではない。神様の一方的なめぐみによって与えられる祝福をまっすぐ に求める子どものような人に開かれ、またそのような人を受け入れる人に開かれています。 戦争が続いています。戦争は神様が祝福してくださった世界の否定です。人のルールが絶対化 された究極のかたちです。ガザ地区では、4000 人以上の子どもたちが亡くなったという報告が あります。この世に神様が与えてくださった命が、毎日人間の手で奪われています。大人の欲望 と都合の押し付けの中で、多くの命が失われています。イエス様は今の世界をどのように見つめ ておられるでしょうか。すべての子ども、すべての人の祝福を心から祈りたいと思います

 

 

 

 

『わたしとシャローム 』  奥村献牧師

イザヤ書272-6 節(新共同訳、旧約聖書 P.1100

(聖 書)

2.その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。

3.主であるわたしはその番人。常に水を注ぎ/害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。

4.わたしは、もはや憤っていない。茨とおどろをもって戦いを挑む者があれば/わたしは進み出て、 彼らを焼き尽くす。

5.そうではなく、わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとするがよい。

6.時が来れば、ヤコブは根を下ろし/イスラエルは芽を出し、花を咲かせ/地上をその実りで満たす。

 

(説 教)

 

神様は今日の聖書で「わたしと和解(シャローム)するがよい」と語ります。 今日の聖書は、イザヤ書の 27 章です。ここでは 5 章と同じように、「ぶどう畑」が登場しま す。5 章のぶどう畑は、農夫がたくさん手をかけたにもかかわらず、酸っぱいぶどうしか実りま せんでした。このぶどう畑には、イスラエルのことを表します。イスラエルの民(特に指導者や 富を持つものたち)がこのまま貪欲に土地のひとりじめを続けるならば「この多くの家、大きな 美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がなくなる。」(5 9 )という警告がなされていました。 一方、今日の聖書 27 章では「その日には、見事なぶどう畑について喜び歌え。」(2 )と、 豊かに実ったぶどう畑を想像させる書き出しになっています。イスラエルの回復の予言です。こ こでは神様ご自身がぶどう畑の番人となり、水をやり、「害する者のないよう、夜も昼もそれを 見守る。」(3 )と宣言されています。そして「わたしは、もはや憤っていない。」(4 )とあ ります。裁きの警告が伝えられた 5 章とは違い、大きな希望が示されています。そして「茨とお どろをもって戦いを挑む者があれば/わたしは進み出て、彼らを焼き尽くす。」と、もしもイス ラエルの民に攻め入る者があれば、神様が復讐してくださるということが示されています。 今のイスラエル国とパレスチナで起こっている出来事をおぼえながらこのみ言葉を読むとき に、なんとも言えない気持ちになってきます。今日の聖書の示すところの小さな民族であった 「イスラエル」と、現在の「イスラエル国」とは全く違う存在です。ましてや、今起こっている 戦争は神様のなさっている復讐行為などではありません。許されてよい戦争や殺戮などはありま せん。なぜならば、聖書は搾取や殺戮を明確に否定しているからです。神様は聖書の中で、弱小 民族であったイスラエル民族、ユダの人々をあわれみ特別に目を置かれました。しかしもしも時 が経ち、「イズラエル民族」の子孫を名乗る者やその富に寄ってくる者が弱い立場の人々、小さ な民族を苦しめるようなことがあれば、神様は「災いだ」と言う言葉を持ってそれを非難される でしょう。報復のために何倍もの空爆をする。民間人を殺す。病院を破壊する。そんなことが許 されるはずがありません。 今日の聖書 5 節には「わたしを砦と頼む者は/わたしと和解するがよい。和解をわたしとする がよい。」とあります。の和解という言葉には、「シャローム」というヘブライ語が使われてい ます。「シャローム」はイスラエル民族の中で交わされた平和の挨拶です。これは祝福の言葉で す。この言葉の原意には「主の平和」という意味があります。イスラエル民族にとって平和は神 様がつくられるものでした。神様との正しい関係にあり続けることが大切であり、それが崩れる と平和が崩れるのだという信仰がありました。 この平和は、人間の力で何かを抑え込んだり、一方が一方を黙らせたりして力や恐怖で成立し ているような平和ではありません。 あくまで神様のつくられる平和です。 人間の罪が神様の秩序を歪めるこの世界にあって、「シャローム」主の平和というのはある時 点で完成したり、完全な状態になったりする事はないかもしれません。それはビジョンであり、 動的な概念でうごめくものです。 「わたしと和解しなさい」と神様が言われます。搾取が当たり前のように行われ、報復の連鎖 が止まらないこの世界です。たくさんの血が流れ、叫びがあり、人間によって人間の命が奪われ ています。私たちはどこに希望を持って歩めば良いのでしょうか。神様は今私たち人間に何を期 待し、何を求めておられるのか、共に考えたいと思います。

 

 

 『 主の正義に生きる 』 奥村献牧師

イザヤ書5章 7-10 節(新共同訳、旧約聖書 p.1067

(聖 書)

 7.イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシ ュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに /見よ、叫喚(ツェアカ)。

8.災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り占め にしている。

 9.万軍の主はわたしの耳に言われた。この多くの家、大きな美しい家は/必ず荒れ果てて住む者がな くなる。

10.十ツェメドのぶどう畑に一バトの収穫/一ホメルの種に一エファの実りしかない。

(説 教)

 

 10 7 日の早朝、多数のロケット弾の攻撃と同時に、ハマスの戦闘員がイスラエルに侵入し て殺害や拉致を繰り返しました。イスラエルはこれに空襲で応戦し、双方の死者は 3000 名近く に達しています。ハマスはガザ地区を実効支配している組織です。イスラエル側は、ハマスの攻 撃を受けて、空爆に加えてガザ地区への水と電気の供給を止めるなどの措置を発表しました。ガ ザ地区は種子島ほどの面積ですが、そこに 220 万人もの人々が住んでいます。高さ8メートルほ どの壁で囲まれ、「天井のない監獄」とも呼ばれています。1948 年のイスラエル建国以来、パ レスチナの人々は徐々に住む場所を奪われ、このガザ地区に追いやられました。中では貧困や失 業が広がり、国際支援に頼らなければ生きていけない人が多くいると言います。このまま水と電 気の供給が止まり続ければ、何万人もの死者が出るのではないかと言われています。今回の事態 が一日も早く収束するようにと祈り続けたいと思います。 今日の聖書は、「ぶどう畑の歌」と呼ばれています。51 節には「わたしは歌おう、わたし の愛する者のために」とあります。この「わたし」は預言者イザヤの事であり、「わたしの愛す る者」は主なる神様です。この「わたしの愛する者」が「ぶどう畑」を管理しています。この 「ぶどう畑」はイスラエルのことを表しています。5 章の前半では、神様はぶどう畑を整えて、 よい葡萄を植えたにもかかわらず、実ったのは酸っぱいぶどうであったと歌われています。7 節 には、神様は裁き(ミシュパト)や正義(ツェダカ)を待っていたにもかかわらず、流血(ミスパ ハ)や叫喚(ツェアカ)があったとあります。神様の期待を裏切ってしまった、イスラエルの民、 特に指導者や富める者への嘆きが表れています。8 節にはその罪が具体的に記されています。 「災いだ、家に家を連ね、畑に畑を加える者は。お前たちは余地を残さぬまでに/この地を独り 占めにしている。」(8)。当時、イスラエルに貨幣経済が入ってきて、貨幣を持たない一般的 な農家が土地を明け渡し、貧富の格差が急速に広がっていったという背景がありました。貨幣を 手にして、家や土地を持っている者、つまり富めるはどんどん家や土地を「独り占め」にしてい き、貨幣を持たない者はどんどん貧しくなっていくような状況がありました。 私たちの生きる社会においても、さまざまなレベルで「独り占め」が起こっています。貧富の 格差は今も広がり続け、とどまるところを知りません。日本においても、貧困が広がっていく一 方で、富を持つ人々の資産は増え続けています。誰もが利益を求め、もはやすべてが商品化、数 値化されているような社会にすら感じられます。人間ですら商品化され、会社にとって低コスト で都合のいい雇い方ができる、不安定な雇用形態が増えています。 神様は今日の聖書で「独り占めするな」と語ります。そしてこんなことを続けていたら「必ず 荒れ果てて住む者がなくなる。」(9)。そしていつか収穫がなくなると警告します。 暴力や富の力が支配するこの世の中にあって、私たちは戸惑う事が多くあります。ひとつの戦 争をとってみても、何が正しいのかわからず、貧困の問題を考える時にも自分自身が矛盾だらけ であることを感じます。しかし私たちはそこで諦めずに、いつも神様の正義を追い求めて歩み出 したいと思います。 私たち人間には限界があるからこそ神様の正義を求め続け、時に悔い改 め、また新しく歩み出していきたいと願います。「だれも、二人の主人に仕えることはできな い。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた がたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ 624)

 

 

「汝、貧るなかれ」 奥村 献牧師

イザヤ書 3 12-15 節(新共同訳、旧約聖書 1065

(聖 書)

12.わたしの民は、幼子に追い使われ/女に支配されている。わたしの民よ/お前たちを導く者は、迷 わせる者で/行くべき道を乱す。 13.主は争うために構え/民を裁くために立たれる。 14.主は裁きに臨まれる/民の長老、支配者らに対して。「お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし /貧しい者から奪って家を満たした。 15.何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」と/主なる万軍 の神は言われる。

(説 教)

これまで私たちは創世記を読み進めてきました。今日からイザヤ書からみ言葉を分かち合って いきます。イザヤ書は 66 章からなる 3 大預言者の 1 つです。旧約聖書の中には、3 大予言書と 12 の小予言書が収められています。その予言書の中でイザヤ書は最初の予言書であり、代表的 な予言書であると言われています。新約聖書での引用回数も多く、ルカによる福音書 4 17 には「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まっ た。」などとあるようにイエス様や弟子たちも手に取って読んでいたのがこのイザヤ書です。 イザヤ書は、イスラエルの民に悔い改めを呼びかけ、神様の裁きと救いを示し、神様が救い主 をお送りくださることを予言しています。特に堕落した指導者たちへの警告として、人間の世界 と歴史を支配する神様をこそ畏れなさいと伝えます。 イザヤという名前は「主は救い」という意味をもっています。イザヤはまさにアッシリアとバ ビロニアという大国の脅威に晒されるイスラエルの民に神様の正義を示し、神様の救いの希望を 示し続けました。この時のイスラエルの民の堕落や混乱は、今を生きる私たちと響き合うところ があります。 10 1 日から 4533 品目の食品が値上げされます。また、電気・ガス料金も国からの補助が半 減し、実質的には 10 月検針分から値上げとなります。そしてインボイス制度がはじまり、中小 零細企業や、フリーランスなど多くの方々の生活は苦しくなることが予想されます。 今日の聖書には「主は争うために構え 民を裁くために立たれる。主は裁きに臨まれる民の長 老、支配者らに対して。」(13-14 節)とあります。神様は、この世界の不正を放っておかれる 方ではありません。また「『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし/貧しい者から奪って家 を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか』 と/主なる万軍の神は言われる。」(14-15 )とあります。非常に厳しい神様の言葉です。「ぶ どう畑」とは、イスラエルの民の事を指しています。「弱い者から取り上げるな!踏みつける な!」という義なる神様の、指導者たちに対する強い怒りが伝わってきます。 私たちは今、取られて当たり前の社会、人から取る事を許容する社会に身を置いています。取 られる方が悪いとされる社会です。今日の聖書は、そんな私たちに鋭く問いかけてきます。貧し い者から奪うな、踏みつけるなという今日のみことば、神様の正義を私たちはこの時に心に響か せていたいと思います。 イエス様もこの神様の正義をお示しになりました。イエス様の宣教の中心には神の国の福音が ありました。その神の国の福音の中にも貧しい者たちのための正義が流れていました。また、イ エス様にバプテスマを授けたバプテスマのヨハネも、権力者たちの不正を批判し、貧しい者たち が満たされる事を宣教のテーマとしていました。人間はどこまでいっても弱さをもち、貪欲さを もっています。人は貪り続けます。そして、他者の苦しみに無関心です。今日の聖書は、そんな 私たちにあなたはどこに立っているのかと鋭く問うてきます。貧しい者の声が無視され、搾取さ れ続ける社会の中にあって私たちは、不正に無関心でいるのではなく、イザヤ書で神様が示して くださった正義、イエス様が示してくださった正義にこそ耳を傾けて、祈りつつ声をあげていき たいと思います。「汝その隣人の家を貧るなかれ」(申命記 5:21)と神様は言われます。

 

 

 

 

 

 

「人の思いは散らされた」 才藤千津子協力牧師

       創世記 11 1-9 節(新共同訳、旧約聖書 13

(聖 書)

1.世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。2.東の方から移動してきた人々は、シンアル の地に平野を見つけ、そこに住み着いた。3.彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合 った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。4.彼らは、「さあ、天ま で届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言 った。5.主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、6.言われた。「彼らは一つの民 で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てて も、妨げることはできない。7.我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞 き分けられぬようにしてしまおう。」8.主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の 建設をやめた。9.こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱 (バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

(説 教)

 

本日の物語は、「バベルの塔」として、聖書に馴染みのない人でも知っている有名な物語で す。この物語は歴史事実を記述するものではなく、「全地が・・・であったころ」で始まる説話 物語です。さまざまな民族と言語の多様性がいかにして生じたかについて説明しようとする物語 (フォン・ラート)だとも言えるでしょう。ヘブライ語聖書において天地創造物語に始まる原初 史の、最後の大きな物語です。 よく読むと、このお話には人間が二つのことをなした挙句、神は言葉を混乱させられ人々を散 らされた、とあります。一つは「塔の建設」、すなわち人々は名声を得ようとして塔を建てたと いうことであります。もう一つは、「都市の建設」、すなわち人々は散り散りにならないように 都市を建設したということです。 皆さんは、ブリューゲル(1525 年〜1569 年)の有名な絵画「バベルの塔」をご存知でしょ う。10 年ほど前に日本でも公開されましたので、ご覧になった方も多いのではないでしょう か。私も大阪の美術館で実際に見ましたが、そびえ立つ塔の中に大勢の人間たちが描かれている その生き生きとした表現に圧倒されました。 この物語に出てくる高い塔は、古代メソポタミア(現在のイラク)の古代都市バビロンに建設 された高いジッグラト(聖なる石の塔)がそのイメージのモデルとなっていると言われます。メ ソポタミア文明とは、チグリス・ユーフラテス川のほとりに紀元前 3300 年ごろに大きく栄えた 人類最古の文明で、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの父祖のルーツです。古代人は、神が人 間と出会う場所は山だと考えていましたが、メソポタミア地方には山がありません。そこで、山 の代わりに塔を建てて、その最上階にある祭壇で神を礼拝したと言われます。この塔はジッグラ トと呼ばれますが、レンガを積み上げて作られ、高さ 91.5メートルにもなるものもあったと いうことです。 NHK の特集番組「メソポタミア文明」には、紀元前 2100 年ごろに古代都市ウル(現在のイラ ク)に建設されたといいうジッグラトの遺跡が出てきます。塔は三層構造になっており、第一層 が底面 62.5m×43m、高さ 11m、第二層が底面 38.2m×26.4m、高さ 5.7m で、最上部に月の神ナン ナを祀る神殿がありました。メソポタミアには質の良い木材がなかったため、ジックラトはレン ガを積み上げて作られました。そして、レンガの隙間には天然のアスファルト(瀝青という)が 接着剤として塗りこめられました。アスファルトには防水効果があります。チグリス・ユーフラ テスという二つの大河に囲まれたメソポタミアの平地は、しばしば大洪水に襲われました。その 時、人々は防水された高いジッグラトに逃げ込んで洪水を逃れたのだそうです。 バベルの塔の物語は、古代イスラエル人がメソポタミア地方の都市バビロンに対して抱いた印 象の反映だとも言われます。古代、ハンムラビ法典で有名なハンムラビ王(在位前 18 世紀)が 最初の黄金時代を築いて以来、バビロンは世界の中心であり、権力中枢だったのです。しかし、 巨大なジックラトも今は廃墟になってしまいました。バベルの塔の物語でも、神は、「自分たち の」町と「自分たちの」塔を作ろうとした人々の言葉を混乱させ、人々を全地に散らされまし た。この物語から、私たちは何を受け取ることができるでしょうか。

 

 

 

「老人は夢を見る」 奥村  献牧師

ヨエル書 3 1 節(新共同訳、旧約聖書 p.1425

(聖 書)

1.その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、

 若者は幻を見る。

 

(説 教)

 

今日は敬老の日主日礼拝です。人生の先達方、信仰の先達方お一人おひとりの命を感謝し、健 康と平安を心からお祈りしたいと思います。人間は年を重ねるごとにさまざまなことを経験し て、知識や知恵が増えていきます。「聖(ひじり)」という言葉の語源について、「日を知る= 日知り」からきたのだという説があります(諸説あり)。この説によると、日を知ること、つまり 種まきや刈り入れの日を知っている者は、農耕社会の中で尊敬されてきたということからこの 「ひじり」という言葉がきているといいます。 これと同じように人生の中で多くの経験を重ねたお一人おひとりは、その経験をもとに多くの 知恵をお持ちです。だから年配者は「敬老」されるのです。 今日の聖書ヨエル書は大変短い書簡ですがイスラエルの民へ警告と励ましがつまっています。 この書簡の執筆年代はバビロン捕囚以降であろうと言われています。おそらくは様々な経験を重 ね、民族的な危機を乗り越えた著者が警告と励ましを語っています。ヨエル書の前半では悔い改 めて神様に立ち帰らなければ神の怒りとして「いなご」が襲来するという警告が記されていま す。そして後半には、悔い改めと神様のあわれみによって「主の日」がもうすぐ来るのだとあり ます。「主の日」とは、神様がその主権をもって人間の歴史に介入してくださる救いの日です。 イスラエルの民は、民族の危機とも言える出来事を何度も経験してきました。その度に自分た ちの歩みを振り返り、悔い改めて新しく歩み出してきました。人間が神様の前に「完全」になる ことはなくとも、イスラエルの民は神様を見上げて悔い改めながら主の日を待ち望み、信仰を大 切に持ち続けてきました。幾多の危機的な経験を重ねる中で人間の罪やそれでも注がれる神様の 愛を知り、すべての出来事は神様の導きの中に置かれているのだという信仰に立ち返りました。 ヨエル書 2 12-14 節には、神様に心から立ち返る時に、あわれみ深い神様は、災いを下すこ とを思い直してくださるのだということが語られています。 そして 3 1 節の前半には神様の言葉で「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」とありま す。また 3 5 節には「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。」とあります。神様に立ち返る時、 すべての人に分け隔てなく注がれる神様の愛を今日の聖書は示しています。 「あなたたちの息子や娘は預言し/老人は夢を見、若者は幻を見る。」(3 1 節後半)。イ スラエルの共同体が悔い改め、主に立ち返ったならばすべてが新しくされ、神様からそれぞれの 役割が与えられるのだということがここに示されています。 教会に属する者は、それぞれに全く違った人生を送っています。それぞれに年齢も見てきたも のも違います。その中で、それぞれが賜物を与えられ、教会における役割が賜物に応じて与えら れています。年代によってできることや、期待されることも違います。 こどもたちは、しばしば大人たちの考えが及ばないような言動で大切なことを気づかせてくれ ます。若者たちは、大胆な発想をもって物事に向き合ったり、柔軟に環境に適応したりします。 そして、老人は夢を見るのだと今日の聖書は語ります。夢を見ることとは、どんなことでしょ うか。人生の中で、幾多の困難を乗り越えて、尚も神様を見上げ続ける人、希望を見失いそうに なるその時にも、「主の日」を待ち望みつつ生きる人、この書簡の著者ヨエルのように、多くの 痛みを知り、さまざまな経験をふまえてもなお主を待ち望む人は、夢を見る人と呼ぶことができ るのではないでしょうか。長く生きる中で、現実にとらわれ、私たちが希望を捨てて、神様に期 待することを諦める時に、夢を見ることはできなくなります。私たちの心や目を満たそうとす る、この世の多くのものは朽ちていきます。しかし、神様の愛は朽ちることはありません。 教会は、キリストの体です。そして神様の愛を伝え、神様の宣教に仕えるのがキリスト者で す。私たち一人ひとりは弱くとも主の日を待ち望み、神様が示してくださることに希望を見出し ながらそれぞれの役割をはたしていきたいと思います。

 

 

  「契約のしるし」 奥村  献牧師

   創世記 9 1-17 節(新共同訳、旧約聖書 p.1

(聖 書)

1神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。2.地のすべての獣 と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおのの き、あなたたちの手にゆだねられる。3.動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするが よい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。4.ただし、肉は命で ある血を含んだまま食べてはならない。 5.また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求 する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。 6.人の血を流す者は/人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。 7.あなたたちは産めよ、増えよ/地に群がり、地に増えよ。」 8.神はノアと彼の息子たちに言われた。 9.「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。10.あなたたちと共にいるすべ ての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもの のみならず、地のすべての獣と契約を立てる。11.わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と 洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決し てない。」 12.更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこし えにわたしが立てる契約のしるしはこれである。13.すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。 これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。14.わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の 中に虹が現れると、15.わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものと の間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。 16.雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの 間に立てた永遠の契約に心を留める。」 17.神はノアに言われた。「これが、わたしと地上のすべて肉なるものとの間に立てた契約のしるし である。」

 

(説 教)

8 24 日から東京電力福島第 1 原発の汚染水を「処理」した水が海洋に流されています。 様々な議論が起こる中で政府は、処理水を海洋に流すことの是非ではなく「風評被害を防ごう」 という発信を続けました。そうなると、処理水は「安全かどうか分からないではないか」と主張 する事すら「悪い事」になってしまいます。政府はもともと汚染水について、「関係者の理解な しに、いかなる処分もしない」と約束していました。しかしその約束は福島の漁業関係者には果 たされませんでした。処理水放出を開始したあと、西村康稔経済産業相は 8 27 日のNHK番 組で「今の時点で国は約束を果たし続けている。破られてはいないと理解している」と述べまし た。海洋放出によって苦しい立場に置かれる方々と対話せず、当事者のいないところで一方的に 「約束」を無効化する発言です。 今日の聖書で神さまは、人間と「約束」をしてくださいました。それは、もう二度と被造

 

 

「希望の知らせ」  奥村 献牧師

創世記 8 10-22 節(新共同訳、旧約聖書 p.10)

(聖 書)

 10.更に七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。11.鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見 よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上からひいたことを知った。12.彼は 更に七日待って、鳩を放した。鳩はもはやノアのもとに帰って来なかった。 13.ノアが六百一歳のとき、最初の月の一日に、地上の水は乾いた。ノアは箱舟の覆いを取り外して 眺めた。見よ、地の面は乾いていた。14.第二の月の二十七日になると、地はすっかり乾いた。 15.神はノアに仰せになった。 16.「さあ、あなたもあなたの妻も、息子も嫁も、皆一緒に箱舟から出なさい。17.すべて肉なるものの うちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群が り、地上で子を産み、増えるようにしなさい。」 18.そこで、ノアは息子や妻や嫁と共に外へ出た。19.獣、這うもの、鳥、地に群がるもの、それぞれす べて箱舟から出た。 20.ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす 献げ物として祭壇の上にささげた。21.主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地 を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したよ うに生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。 22.地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはな い。」

 

(説 教)

 

 1923 9 1 日に発生した関東大震災から一昨日で 100 年が経ちました。190 万人が被災し、 死者・行方不明者は 10 5 千人ほどであったと言われています。多くの人々が混乱し痛みを覚 える中、事実とは異なる「流言」が流布されました。それは「朝鮮人が井戸に毒をまいた」「混 乱に乗じて朝鮮人が暴行や強盗を繰り返している」といった内容でした。新聞や行政機関によっ てもこういった流言が拡散されたため、民衆や自警団、軍や警察によって多くの朝鮮人(または 間違われた日本人、中国人)が犠牲になりました。しかし、この混乱の中にあっても、正しくあ り続けた人もいました。丸山集落(現 千葉県船橋市丸山)では、2 人の朝鮮人を守るために 5-6 人の自警団が「何も悪いことをしないのに殺すことはねえ」と言って、他から来た 40 人の自警 団を追い返しました。 創世記 6:9 に「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩ん だ。」とあります。不義に満ちた世界の中にあっても、神様をしっかりと見上げ、神様に聞き従 うノアは神様に目をとめられました。今日の聖書で、洪水のあと水が減りはじめたのを見て、ノ アが鳩を放つと「鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえて」(11 )帰ってきました。神様が洪 水をおさめ、乾いた地が現れて植物が存在することを知ったノアは、時を見て箱舟から出ると、 まず神様に「焼き尽くす献げ物」(20 )を捧げました。神様はそれを受けて「人に対して大地 を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度し たように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(21 )とおっしゃいます。洪水は 人の悪を根本から変えることはありませんでした。しかし、神様はノアの信仰を見て「二度とす まい」と、ここで人間に対する忍耐を示してくださいました。 変わることのない不義の濁流の中に身を置く私たちに、神様はいつもとことんまでの愛と忍耐 を注いでくださいます。その愛と忍耐の究極的な形がイエス・キリストの十字架です。神様の平 和を意味する「シャローム」は状態を示す言葉です。それは暴力によって何かが押さえ込まれた 状態ではありません。 ノアの洪水の物語には人間に応答して歩み寄ってくださる神様の姿が描かれています。私たち が追い求めるべき本当の希望とはどのようなものでしょうか。聖書から聴いていきましょう。

 

 

 

「共に生き延びるように」 奥村 献牧師

創世記 6 522節(新共同訳、旧約聖書 p.8

(聖 書)

5.主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6.地上 に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。7.主は言われた。 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の 鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」8.しかし、ノアは主の好意を得た。 9.これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩 んだ。10.ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。 11.この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。12.神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、す べて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。13.神はノアに言われた。 「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちてい る。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。 14.あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタ ールを塗りなさい。 15.次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アン マにし、16.箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には 戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。 17.見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。 地上のすべてのものは息絶える。 18.わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。19.また、すべて 命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにし なさい。それらは、雄と雌でなければならない。20.それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を 這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。21.更に、食べられる物は すべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」 22.ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。

 

(説 教)

今日の聖書はノアの方舟物語の冒頭部分です。神様は地上に悪が増していくのをご覧になり、 心を痛めて、人間を含む被造物を創造されたことを後悔します。神様は人間を創造され、その人 間に自由をお与えになりました。しかし人間は神様を見上げることをせず、せっかくいただいた 自由を私利私欲のために使っていました。神様は人間という存在を最初からご自分に従う存在に お造りになることはできたのだろうと思います。しかし神様は人間の行動や選びを完全にコント ロールし、強制的にご自分に従わせるという事をなさいませんでした。今日の聖書ではその自由 を与えられた人間が裏切り続けることに心を痛めた神様によって被造物が地上から拭い去られよ うとしています。 しかし、ノアは無垢な人であって、神様から好意を抱かれていたとあります(9 )。「ノアは 神と共に歩んだ。」と 9 節にあるようにノアは神様に従順でした。ということは、他の人々は神 様に従順ではなかったということがわかります。神様が洪水をもって、この世の多くの命を奪う というこの物語を私たちはどのようにとらえ、何を受け取るのかということは簡単なことではあ りません。しかし私たちはこの物語を通して、神様の望んでおられる事を聴き、私たち人間の罪 にまみれた姿をこそ見つめていたいと思います。神様はノアに方舟を造るように伝え、家族と共 にその方舟に入りなさいと伝えます。そして「すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つ ずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。」(19 )とノアに伝えま す。「あなたと共に生き延びるようにしなさい。」この言葉に、神様が人間に期待し続けている 願いが示されているように思います。人間はこの「共に生きよ」という神様の期待に応えて歩む ことはできているでしょうか。「常に悪いことばかりを心に思い計っている」(5 )、その人間 の姿は今も変わりません。今日も聖書から、神様のことばを聴いていきましょう。

 

 

 

                                                     

                                                           ゆるしのしるし」 奥村 献牧師

創世記 4 1316節(新共同訳、旧約聖書 p.7

(聖 書)

 13.カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。14.今日、あなたがわたしをこの土 地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、わ たしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」 15.主はカインに言われた。「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるで あろう。」主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられ た。16.カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。

 

(説 教)

今日も引き続き創世記を読み進めていきます。今日の聖書を含む創世記のはじめの物語は、神 様と人間との関係について私たちに多くのことを伝えています。神様は全てを良きものとしてお 作りになり、人間を神様の似姿にお作りになりました。しかし人間は神様との約束を破り、完全 なる調和が取れたエデンの園を追われて、さすらうものとなりました。創世記には神様が警告を したにもかかわらず、神様に逆らった人間の姿、そしてその人間に対して神様が再びチャンスを 与えてくださるという出来事が繰り返し記されています。しかし人間は何度もそれを裏切り、せ っかく神様が与えてくださったチャンスをことごとく台無しにしていきます。 今日の聖書には弟アベルを殺してしまった兄カインと神様の対話が描かれています。カインは 「わたしの罪は重すぎて負いきれません。」と嘆きます。そして自分は神様によってこの地から 追い出されること、自分の罪を知った者から自分がいずれ殺されるであろうということを嘆きま す。神様に、罪を支配しなさい(7 )と警告されたにもかかわらず、カインは罪に打ち勝つ事が できませんでした。そして、自分の犯してしまった罪の大きさに今になって気づき、これから自 分に起こることを想像し、この罪を負いきれないと追い込まれているカインの姿がここにありま す。弟を感情にまかせて殺してしまったカインでしたが、自分が殺されるということをここで心 配しています。 愚かで、自分勝手で、救いようがないような人間の姿がここにあります。しかし、神様はその カインを見捨てることはなさいませんでした。神様は嘆くカインに対して「いや、それゆえカイ ンを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」(15 )とおっしゃいました。ご自 分を裏切る罪人にさえも向けられる神様の愛がここに現れています。これは、実際に神様がカイ ンを殺そうとした者への仕返しをするということではありません。神様が、人間による血の復讐 の連鎖を断ち切るための、人間に対する警告です。 そして神様はここでカインを守る言葉だけでなく「しるし」をカインにお与えになります。罪 人の烙印ではなく、守りのしるし、ゆるしのしるしです。 神様は、人間が犯した罪に対して罰をお与えになります。しかし同時に憐れみと愛をお与えに なり、その人間を守りのうちに置かれる方です。神の赦しと守りは、カインが「地上をさまよ い、さすらう」(12 節)その先のエデンの東にまで広げられました。人間はを殺してしまった という罪から、決して逃れることはできません。しかし、神様の愛は殺人を犯してしまった人間 に対しても開かれています。すべての人間はゆるしのしるしをうけた者です。 今日の聖書のあとの 17 節からの箇所には、カインの父アダムからの系図が記されています。 23-24 節では、自分の力に頼るレメクの自慢げな「歌」があります。25-26 節にはさかのぼって アダムの子であるセト、そしてそのセトの子であるエノシュが登場します。26 節の最後には 「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」とあります。「主の御名を呼ぶ」こと は、まさに神様を礼拝することを示しています。 人間は何度も神様を裏切り罪を重ねます。自分が犯してしまった罪の責任を担うこともできま せん。嘆き、これから起こることに怯えることしかできません。しかし神様は自分が罪を犯し、 すべての希望を失ったと思ってしまうような状況に置かれた人間に対しても愛を向けてください ます。今日も聖書から神様が与えてくださる愛と希望を聴いていきましょう。

 

 

 

どこにいるのか」 奥村 献牧師

創世記 4 112節(新共同訳、旧約聖書 p.5

(聖 書)

1.さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得 た」と言った。2.彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す 者となった。3.時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。4.アベルは羊の群 れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが 5.カインとその献 げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。 6.主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。7.もしお前が正しいのな ら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。 お前はそれを支配せねばならない。」 8.カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。 9.主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」カインは答えた。「知りませ ん。わたしは弟の番人でしょうか。」 10.主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んで いる。11.今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもな お、呪われる。12.土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上を さまよい、さすらう者となる。」

(説 教)

 

今日は平和礼拝です。今一度、私たちはこの時に 78 年前の痛みを思い起こしながら、平和へ の思いを新たにしていたいと思います。 今日の聖書は人類最初の殺人の物語とされる箇所です。土からかたち造られたアダムは神様に 命の息吹を吹き入れられ、エバというバートナーを与えられました。二人は人間が生きていく上 での必要がすべて揃っているエデンの園で、生活することとなりました。しかし二人は神様との 約束を破り、食べてはいけないとされていた善悪の知識の木から実をとって食べ、エデンの園を 追放されます。今日の聖書はその続きの物語です。 今日の聖書にはアダムとエバの子、兄であるカインと弟であるアベルが登場します。カインは 「土を耕す者」となり、アベルは「羊を飼う者」となりました。2 15 節で、神様はアダムに エデンの園を「耕し、守る」ことを命じられましたが、カインとアベルはここで「耕す者」と 「飼う者」となりました。ある日二人は神様にささげものをします。カインは「土の実り」を、 そしてアベルは羊の「肥えた初子」をささげました。二人は同じように神様へのささげものをし ました。しかし、神様はアベルのささげものに目を留め、なぜか「カインとその献げ物には目を 留められなかった」(5 )とあります。全く理不尽であると言ってもいいような出来事がカイン を襲いました。カインは怒り、嫉妬に支配されてアベルを殺してしまいます。神様はカインに 「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」(9 )と問います。もちろん神様は、カインが何をし たのか、アベルに何が起こったのかをご存知でした。「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」 とは、カインの心の認識を問いただすことばでした。「お前に兄弟として与えられた、共に生き るはずであった、そのアベルをお前はどうしたのか」という問いを、神様はアベルに投げかけま した。その問いに対してアベルはなんと「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」(9 ) と開き直り、神様に対する嘲笑ともとれる皮肉に満ちた言葉で返答します。すべてをご存知であ った神様は、カインが自白せずとも「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわた しに向かって叫んでいる。」(10 )と、怒りを露わにされます。アベルという名前は「息、は かなさ、空虚さ、無意味、無価値、虚無」という意味を持ちます。まさにカインはアベルを殺し たことを何もなかったかのように振る舞い、神様を嘲笑う態度で応答しました。 創世記の編纂当時、イスラエル民族はアベルのように弱い存在でした。またイスラエルの民は その歩みを振り返る中で自分たちの中にカインのような姿を見出したのかもしれません。平和を 憶える 8 月「アベルは、どこにいるのか」と問われた神様の言葉に聴いていきたいと思います。

 

 

 

関係を見失うときにも」 才藤千津子協力牧師

  創世記 3 113節(新共同訳、旧約聖書 p.3

(聖 書)

1.主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの 木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」2.女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木 の果実を食べてもよいのです。3.でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、 触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」4.蛇は女に言った。「決 して死ぬことはない。5.それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご 存じなのだ。」6.女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆し ていた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。7.二人の目は開け、自分 たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。8.その日、 風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、 園の木の間に隠れると、9.主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」10.彼は答えた。「あ なたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」11. は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたの か。」12.アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与 えたので、食べました。」13.主なる神は女に向かって言われた。「何ということをしたのか。」女は 答えた。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

(説 教)

本日の聖書箇所は、「蛇の誘惑と神への離反」「楽園追放」というテーマで大変有名な箇所です。先週 は、「人が一人で生きるのはよくない」として、アダムとエバが神から創造されたという物語でした。そ のようにかけがえのない伴侶として創造された人間が、神の前にどのような関係を作っていったか、今日 の聖書箇所では、私たちの生の厳しい現実を突きつけるような物語が展開します。創世記2章には、エデ ンの園の中の善悪を知る木についての神ヤハウエの言葉が書かれています。創世記2:16「あなたは園の どの木からも(実を)取って食べてよいが、善悪を知る木、これから(実を)取って食べてはならない。 これから取って食べる日、あなたは必ずや死ぬであろう。」 本日の聖書箇所では、これに対して蛇と妻とが会話を交わします。以下、岩波書店の翻訳(2004 年)か ら抜粋します。 3:1 「園のどの木からも(実を)取って食べてはならない、などとおっしゃったとは。」 323 妻「私たちは園のどの木の実でも食べてよいのです。ただ、園の中央にある木の実からは食べ てはならない、これに触れてもならない、死ぬといけないから、と神は言われました。」 神は、「これに触れてもいけない」とまでは言っていません。あえて誇張してこの言葉を付け加えたエ バに、暗黙の神への不満を感じるのは私だけでしょうか。いずれにせよ、エバに対して蛇はこう誘惑しま す。 345 蛇「けっして死ぬことはないよ。実はね、あなたがたがそれを食べる日、あなたがたの目が開 いて、あなたがたが神のように善悪を知るようになる、と神は知っておいでなのですよ。」 なんと魅力に満ちた誘いの言葉でしょうか。蛇は、「善悪の知識の木」を食べると目が開かれる、つま りそれまで知らなかったことに気づいて、神のように賢くなるのだと唆しているのです。 神の戒めを破って、アダムとエバは、次々に「善と悪を知る木」の木の実を食べました。 キリスト教会では、この箇所は男性の視点から読まれ解釈され、エバの罪が強調されてきました。教会 は、この箇所を、女性は弱くて愚かで危険な存在であるとする性差別の根拠としてきたのです。しかし、 聖書を読む限り、アダムは蛇に誘惑されるエバの傍にいましたが、蛇に対して何か言ったとか、エバを戒 めたとか、一切書いてありません。とすれば、彼の罪も妻と同罪でしょう。無論、神も、夫アダムの弁解 を一切認めませんでした。 〈善悪の知識〉の木の実を食べたことにより、二人の目は開け、彼らは自分たちが裸であることを恥じ ました。人は自意識に目覚め、他者と自分との違いに気づいたのです。かつて、ある学生が、この箇所に ついて、「たかがりんごを食べたくらいで追放とは、神は心が狭い」と書いたのを読んで、思わず笑った ことがあります。(そもそも「りんご」とは書いてありません。)実は、ここではもっと決定的なことが 起こっていたのです。それは何でしょうか、そして、神は何と言われ、私たちはこのことをどう理解すれ ば良いでしょうか。今日はこのことを考えたいと思います。

 

 

 

 

君たちはどう応えるか」 奥村献牧師

創世記 2 18節~25節(新共同訳、旧約聖書 p.3

 

(聖 書)

18.主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 19.主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれ をどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。20.人はあらゆる家畜、空の 鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。 21.主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を 肉でふさがれた。22.そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のとこ ろへ連れて来られると、23.人は言った。 「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男 (イシュ)から取られたものだから。」 24.こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 25.人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。

(説 教)

創世記の創造物語である今日の聖書は、結婚式などでよく分かち合われます。神様により、男 (アダム)のあばら骨の一部から女が造られたという箇所です。ジェンダーに関する様々な議論 があるこの時代の中にあって、私たちは「男」と「女」が登場する今日のみ言葉が伝えようとし ていることを慎重に受け止めていたいと思います。 男女間のジェンダーギャップは、今の社会の中に存在する大きな問題のひとつです。今日の聖 書では男が先に存在し、その男の体の一部から女がつくられ、女が男の助け手となる。この読み 方を間違うと、男女平等が求められるこの社会にあって、男性が優位な社会を積極的に支持する ことに繋がりかねません。そして「男」と「女」にだけ人間の性を区別する時に、私たちは性的 マイノリティ(LGBTQ+)の方々を念頭においていないのだという事をおぼえておきたいと思いま す。先日、あるタレントが亡くなりました。亡くなった直接の原因は分かりませんが、自分自身 のジェンダーについてのアイデンティティで長く悩んでおられた方です。今の日本社会の法制度 は、性の多様な性のあり方を受け止めることができていません。私たちも、この時に立ち止まっ て多数派である異性愛者が性的マイノリティ(LGBTQ+)の方々を「孤独」へと押しやっている現実 を自分の課題として受け止めていたいと思います。 神様は今日の聖書で「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と語られ ます。人間は一人では生きていくことはできません。孤独に耐えられない存在です。人と言葉を 交わし、対話の中で全人格的に受け止められる事で私たちは平安を得ることができます。エデン の園に集められた人間以外の動物の中に「自分に合う助ける者」を見つけることができなかった アダムに、神様は「女」をお与えになります。「人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられ た。」(22 )とあります。ついに必要な助け手がここで人に与えられました。人は「ついに、こ れこそ」と待ちに待った助け手の存在を心から喜びます。人はここで「独りでいる」(18 )孤独 から救われました。人間は自分を理解し、対話をしてくれる存在をいつも求めています。自分と は違う存在である他者との対話を通してはじめて自分を知ることができます。今の社会は自分だ けの世界が強調され、他者と対話し、思いやる気持ちが軽薄になっています。多数派や強い者が 作りだした平等とは程遠い現状があります。「人が独りでいるのは良くない。」と神様は言われ ました。私たちはこのみ言葉にどのように応えていくでしょうか。自分だけ、自分の家族だけ、 自分の教会だけ、キリスト者だけが孤独から救われるということだけでは、「人が独りでいるの は良くない。」と言われた神様に応答することになりません。この世界によきものとして造ら れ、命の息吹を与えられ、自由の中で人生を託された者として、私たちは神様の愛に応える生き 方を選び取っていきたいと思います。イエス様は、社会から虐げられた者の「孤独」を放ってお くことはされませんでした。神の子イエス・キリストに倣って、私たちも生きていきたいと思い ます。この世界には多くの孤独、魂の叫びがあります。最も弱く傷んだ人々と歩まれた、インマ ヌエルなるキリストの平和が、私たちの心のすみずみにまでゆきわたりますように

 

 

 

 

塵(ちり)に命をふき込む 神」 奥村献牧師

創世記 2 章4節b~17節(新共同訳、旧約聖書 p.2

 

(聖 書)

4b.主なる神が地と天を造られたとき、5.地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が 地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。 6.しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。7.主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム) を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。8.主なる神は、東の方のエ デンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。9.主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いも のをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさ せられた。 10.エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。11.第一の川 の名はピションで、金を産出するハビラ地方全域を巡っていた。12.その金は良質であり、そこではまた、琥 珀の類やラピス・ラズリも産出した。13.第二の川の名はギホンで、クシュ地方全域を巡っていた。14.第三の 川の名はチグリスで、アシュルの東の方を流れており、第四の川はユーフラテスであった。 15.主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。16.主なる神 は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。17.ただし、善悪の知識の木からは、決 して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 

(説 教)

 私たちは引き続き、創世記を読み進めています。今日はその創世記の 2 章からみことばをいた だきます。創世記は著者がイスラエルの古くからのさまざまな伝承を集め、紀元前 6 世紀頃に編 纂されたものです。ですから 1 章に続けて 2 章を読むと、もとの伝承(資料)の違いから、1 章 と創造物語の順番や内容に相違が見られます。私たちはそれを、多種多様な伝承をもとに編纂さ れた創世記の豊かさとして受け止めていたいと思います。歴史家が書く歴史書や、その他研究者 が書き記して取りまとめる書簡とは異なります。一つ一つの物語に私たちが向き合うべき信仰の 課題が書き記されています。 今日の箇所では雨が降らず、土を耕す人もおらず、何の植物も生えていない乾いた土地が描か れています。そこに、湧き水が現れて大地が潤います。そこに神様が人間をお造りになります。 7 節に「土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり」とあります。人間は土の塵から形づくられまし た。実際に私たち人間の体を構成する物資はもともと、宇宙で消えてしまった星々が残したかけ ら、ちりで構成されていると言われています。その土の塵で造った人間に、神様は息を吹き入れ られました。そして人間は「生きる者となった。」(7)とあります。私たち人間は、神様によ り「ちり」から形づくられ、神様の息吹により命を与えられ、はじめて生きる者となりました。 8 節からの箇所では、エデンの園がつくられ、神様はそこに人間を置かれます。そこには「見 るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が与えられました。つまりここ で、人間が生きる上での必要を充分に満たすものが、神様から人間に与えられました。そのエデ ンの園の真ん中には、「命の木と善悪の知識の木」が生えいでさせられたとあります。神様は最 後に「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べては ならない。食べると必ず死んでしまう。」(16-17)と人間に命じます。 人間に命を与え、エデンの園に住まわせ、必要な糧を与え、「耕し、守るように」(15)とい う使命を与えられた神様。その上で、神様は「決して食べてはならない。食べると必ず死んでし まう。」という木をお与えになりました。ここに、私たち人間が神様によって与えられた命や自 由が、神様の秩序の中にあってこそのものであるということが示されています。神様の秩序に完 全に依存する人間。神様に命をふきいれられた私たち人間には、徹底的な自由の中で命と滅びの 選択肢が与えられました。もしも私たちが恵みへの感謝を忘れ、自己中心的に歩み、神の秩序を 乱すならば、私たちは自ら滅びの道を選び取ることになります。ちりであった人間は神のいぶき を受け、命を与えられ、生きるものとなりました。神様の与えてくださった命、そして充分な恵 みを思い起こし、神様が人間に期待した本来の生き方に立ち返って歩み出したいと思います。

 

 

 

いったん休みましょう 奥村献牧師

創世記 1 26節~2章4節a(新共同訳、旧約聖書 p.2

 

(聖 書)

26.神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、 地を這うものすべてを支配させよう。」 27.神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 28.神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上 を這う生き物をすべて支配せよ。」 29.神は言われた。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与 えよう。それがあなたたちの食べ物となる。30.地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあ らゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。31.神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見 よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。 2章 1.天地万物は完成された。2.第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕 事を離れ、安息なさった。3.この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神 は祝福し、聖別された。 4.これが天地創造の由来である。 本日も、創世記の創造物語を読み進めていきます。神様は六日間でこの世界をお造りになりま した。

 

(説 教)

今日の聖書にはその六日目の人間の創造と、七日目の安息の出来事が記されています。 「神は御自分にかたどって人を創造された。」と 27 節にあります。神様は私たち人間一人一人 をこの上なく尊いもの、善きものとして、ご自分にかたどってお造りになりました。そして神様 は、私たち人間に大切な使命、役割をお与えになりました。それは「産めよ、増えよ」そして 「すべて支配せよ」というものでした。神様の創造によって、私たち人間の営みに必要なものが すべて与えられました。「支配せよ」とは、「管理せよ」「仕えよ」といった意味を持ちます。 命を大切にしながら、他のすべての被造物にも仕えなさい、管理しなさいという役割が神様から 人間に与えられました。私たちの生きる今の社会は、はたしてその神様の期待に応えることがで きているでしょうか。全ての人間が生きていくために必要な糧は神様から与えられています(29)。 しかしこの社会には、極端な貧富の差が存在し、贅沢な暮らしをしている人々がいる一方で、 今日を生き抜くことで精一杯の人々がたくさんおられます。全ての人間が神様にかたどって、善 きものとして造られた。そして、必要な糧を与えられたにもかかわらず、極端な富の偏りや搾取 が存在している現実があることに、人間の罪深さを感じます。 六日目、全てを創造された神様はそれをご覧になり「見よ、それは極めて良かった。」と言わ れました。神様が完成された世界。そこには完全な被造物の調和、そして平和がありました。

 2 2 節に「第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。」とあります。神様は7日 目に安息され、そしてこの日を聖別されたのです。イスラエルの民はこのことに倣い、アイデン ティティの一つとも言える「安息日」の掟を定め、聖なる日、特別な日として大切におぼえてき ました。出エジプト記には、この安息日に関する記事が 4 回登場します(20:8-1123:1231:13-1734:21)。そのいずれの箇所にも、六日の間仕事をして、七日目にはやめることが記 されています。私たちが休息を得て、憩うためにはまず仕事の手を止めること、やめることが必 要です。 いつも何かにせかされるように生きている私たちがいます。神様のめぐみ、神様が与えてくだ さったものが目の前にあるにもかかわらず、人間はいつの間にか貪りの道を選んでしまいます。 一度ここで手をとめて、造り主をおぼえ、神様が与えてくださった大いなるめぐみに立ち返って みませんか。神様の愛なる創造の出来事を伝えるみことばから、今日も聴いていきましょう。

 

 

 

神は愛なり 奥村献牧師

創世記 1 125 節(新共同訳、旧約聖書 p.1

 

(聖 書)

  1. 初めに、神は天地を創造された。2.地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。 3.神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 4.神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5.光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があっ た。第一の日である。 6.神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」 7.神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。8.神は大空を天と呼ばれた。 夕べがあり、朝があった。第二の日である。 9.神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。 10.神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた。11.神は言われ た。「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。」その ようになった。12.地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさ せた。神はこれを見て、良しとされた。 13.夕べがあり、朝があった。第三の日である。 14.神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。15.天の大 空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。 16.神は二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。17.神はそれ らを天の大空に置いて、地を照らさせ、18.昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた。神はこれを見て、良しとさ れた。19.夕べがあり、朝があった。第四の日である。 20.神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」 21.神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造 された。神はこれを見て、良しとされた。22.神はそれらのものを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、海の水に満 ちよ。鳥は地の上に増えよ。」 23.夕べがあり、朝があった。第五の日である。 24.神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そ のようになった。25.神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを 見て、良しとされた。

 

(説 教)

私たちは、4 月の半ばから長らくローマの信徒への手紙を読んできましたが、今日から創世記を共に 読み進めていきます。創世記は聖書の一番はじめの書簡です。この創世記は「初めに、神は天地を創 造された。」という言葉からはじまります。元のヘブライ語では「ベレシート(はじめに)バーラー( 造された)エロヒーム(神は)」という言葉です。ヘブライ語では、このはじめの言葉をとって、創世記 のことを「ベレシート」と呼びます。創世記には創造の物語の後、ノアの方舟やバベルの塔などの物 語から始まり、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの祖先の話が続きます。そして最後に ヤコブの息子であるヨセフの物語が描かれ、このヤコブの息子たちからイスラエル十二部族がはじま っていきます。 今日の聖書はその創世記の創造物語の箇所です。神様はすべてをお造りになったのだというイスラ エルの信仰が記されています。今日の 25 節までの箇所は人間が想像される前までの出来事です。天 地、昼と夜、大空、植物、季節、水と空の生き物、家畜や地を這うものが、日を追って創造されてい く様子が記されています。神様はその一つ一つを創造された後に「良しとされた」とあります。神様 は人間をお創りになる前、天地や人間以外の動植物をお創りになり「良し」とされたのだということ を私たちは心に留めていたいと思います。神様は私たち人間だけを良しとされたわけではありませ ん。最初の言葉「光あれ」(2 )、この「光」からすべては始まります。闇、混沌の中に光がともり、 すべてが始まります。何もなかったところに形と秩序が生まれ命が創造されました。神様が被造物へ の愛ゆえに創造を決断した、この凄まじい出来事を共に読み進めたいと思います。

 

 

 

「日常性のなかの『主の祈り』」 青野 太潮協力牧師

マタイによる福音書 6913節 (新共同訳、新約聖書 p.9)

 

(聖 書)

9.だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、 御名が崇められますように。

10.御国が来ますように。御心が行われますように、 天におけるように地の上にも。

11.わたしたちに必要な糧を今日与えてください。

12.わたしたちの負い目を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。

13.わたしたちを誘惑に遭わせず、 悪い者から救ってください。』

 

(宣 教)

 今日から来週の日曜日までの一週間は、日本バプテスト連盟の伝道者養成を覚えて祈る神学校週間 となっています。私も、2013 年に退職してもう 10 年以上が経ちましたが、1978 年から 35 年間、西南 学院大学神学部の教師として働かせていただきましたので、今でもこの神学校週間に寄せる思いに は、当時と同じほどに熱いものがあります。その 35 年の間には、一年度に 20 名近くの伝道者志望の学 生が入学してきたこともありましたし、現在とほぼ同様に、ごくわずかの直接献身者しか与えられな かったこともありました。学生がたくさんいて、活気があったほうがいいとは思われますが、ごく少 数の学生と小さなゼミで深く静かに学んでいくというのも、とても有意義であることに変わりはない でしょう。 さて、そこで今日は、いったい神学校ではどんな学びをしているのか、私の専門分野である新約聖 書学を例にとって、その一例をお示しし、それがキリスト教信仰にとってどういう「基礎的な意味」 を持っているのか、ということについて、しばらくの間、ともに考えてみたいと思って準備してまい りました。具体的には、説教題にも掲げましたように、少なくとも私たちの平尾バプテスト教会にお いてはかなりの比重をもって受け止められております「主の祈り」を取り上げて、その「主の祈り」 の存在が私たちに教えてくれていることがらについて、ともに考えてみたいと思っております。 「主の祈り」と言えば、礼拝のなかで私たちは、司会者とともに、皆で一緒に週報に記載されてい ますように文語体で「主の祈り」を唱えるわけですが、文語体で訳されたマタイによる福音書の 6 章が 記しております内容こそが当然のごとくに「主の祈り」そのものだ、と考えている人が圧倒的に多い のではないかと思われます。皆さんはいかがでしょうか。しかし、実は、ことは決してそんなに簡単 ではありません。 しばらくの間、ご一緒に問題点を考えてみることにいたしましょう。

 

 

 

キリストに結ばれて 奥村献牧師

 ローマの信徒への手紙 12 18節(新共同訳、新約聖書 p.291)

 (聖 書)

1.こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生け るいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2.あなたがたはこの世に倣ってはなりま せん。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、ま た完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。 3.わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。む しろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。4.というのは、わたした ちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5.わたしたちも 数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。6.わたしたちは、与え られた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて 預言し、7.奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、8.勧める人は勧めに精を 出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 

(宣 教)

 6 4 日に執り行われた牧師就任・按手式は、神様の守りのもと大変豊かなものとなりました。ご準 備くださった皆様、お祈りくださった皆様に心から感謝をしたいと思います。私たちはこの就任式を 通して、平尾教会がどこに立っているのかということ、そして平尾教会がどこに向かうのかというこ とを公にし、教会の信仰告白や宣教のビジョンを多くの方々と確認しました。ひとつの教会の宣教は その教会だけで成立している出来事ではなく、協力伝道の輪の中で大きな広がりを持った出来事であ るということを強く感じました。また就任式を通して、多くの方々からの祈りと支えの中で、私たち の教会の歩みがあるのだということを痛感し、大きな励ましを受けました。 今日の聖書には、キリスト者がこの世界の中にあって、何をなすべきであるかということが記され ています。まず「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」とあります。パウロはローマのキリ スト者に、キリスト者としてのあり方を伝えますが、それはパウロが権威を持っていて、彼の言葉に 力があるからなせるというものではありませんでした。「神の憐れみによって」つまり、まず神様の 恵みとして、神様の憐れみの中でキリスト者としての勧めが伝えられるのです。まず「自分の体を神 に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」と伝えられます。これは「神様の供え物とな りなさい」と言い換えることができるかもしれません。しかしここで望まれているのは、祭壇で焼か れる供え物とは違い「生ける」供え物です。自分の体を神様のみ心を実現するために用いるというあ り方です。2 節には「この世に倣ってはなりません」とあり、神様のみ心を追い求めるようにというこ とが語られています。私たちの生きる社会には、人間を欲望の赴くままに行動させようとする力が強 くはたらいています。いつのまにか名誉や富や力を求めて生きようとするのが人間です。キリスト者 も人間であり、欲にまみれた「この世」を作り出しています。その只中にあって、流されずに神様の み心を追い求めることがここで勧められています。 神様のみ心を追い求めるということは、簡単な事ではありません。「神様のみ心」という複数の項 目が記されたチェックシートのようなものがあって、多くをクリアした人がより「キリスト者らし い」「優れている」と評価されるわけではありません。むしろ今日の聖書では、私こそが優れた者で あると自認することに気をつけなさいということが警告されています。教会、キリスト者の共同体 は、キリストに結ばれているひとつの体であり、それぞれはその肢体です。ひとりひとりに違いがあ ります。そこに優劣はないのです。バプテスト教会には身分はなく、職分があると言われるのはこの ためです。イエスキリストに結ばれた共同体である教会は、イエスキリストに倣う者として神の国の 宣教の歩みを進めます。その宣教の歩みは、この世で弱く、小さくされた者を中心としながら広がっ ています。今日も聖書から聴いていきましょう。

 

 

 

   

           『愚かな金持ちのたとえ』  肘井 利美

ルカによる福音書 121321

 

1213群衆の一人が言った。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」

1214イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなた方の裁判官や調停人に任命したのか。」

1215そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。あり余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

1216それから、イエスはたとえ話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

1217金持ちは『どうしょう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、

1218やがて言った。『こうしょう。倉を壊して、もっと大きのを建て、そこに穀物や

財産をみなしまい、

1219こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えが

 できたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

1220しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したも

のは、いったいだれのものになるのか』と言われた。

1221自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

 

【メッセージ】

 

 本日の聖書箇所のタイトルには、『愚かな金持ちのたとえ』と表わされています。 このルカによる福音書 12 章では、イエス様が多くの群衆を前に「真理をめぐる問題」について語っ ておられる所に、ひとりの男が出てきて、「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言っ てください」と自分の遺産相続の問題の解決をイエス様に願い出たというのです。 この時イエス様はこの問題に対して、「わたしはあなた方の裁判官や調停人ではない」と答えられ ました。しかし、もっと深いところでこの問題を取り扱ってくださいました。 それは、この問題は人間の奥底に潜んでいる貪欲(どんよく)の問題であるということを教えてくだ さったのです。『貪欲』とは物欲,金銭欲、食欲等と欲が強く、自分で手に入れたものではなかなか満 足せず、さらに、さらにと、とめどなく欲しがることです。 そして「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財 産によってどうすることもできないからである。」と言われました。 そして、その際イエス様が話して下さったのが、「愚かな金持ちのたとえ」の話しであります。 ある金持ちの畑がたいへんな豊作になりました。そこで金持ちは、「倉が小さすぎて作物をしまっ ておく場所がない。どうしよう」と悩み、「そうだ、小さい倉を壊して、大きなものに建て直そう」 と思いついたのでした。彼はこの思いつきに非常に満足をしまして、いい気になってこう言いまし た。「さあ、これですっかり安心だ。これからは何年も先まで食べたり、飲んだり、遊んで暮すこと ができるぞ。」と。ところがその晩神様が現れましてこう言ったのでした。「愚か者。今夜、お前の 命は取り上げられる。そうしたら、お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」。イエス様 のこのお話しは、特別難しい話ではありません。しかし、うっかり読むこともできない話なのです。 たとえば、皆さんはこの譬え話を読んでどんな感想をお持ちになったでしょうか。どんなに金品をも っていても死んでしまえばおしまいだという風にお感じになった方も多いのではないかと思います。 けれども、イエス様はお金持ちが悪いと言っているのではないのです。お金なんか欲しがるのは、愚 か者だと言っているのでもありません。 イエス様がこの譬え話で教えておられることは、金持ちが悪いということではなく、愚かであるこ とが悪いと教えておられるのです。そして、その愚かさのもとは人間の心の奥深くに横たわっている 貪欲であると言っておられるのです。 貪欲とは何でしょうか、決して満たされることのない限りのない欲望、これが貪欲であります。け れども、どうして人間というのはこうも欲深で、貪欲になってしまうのか。人間の貪欲の正体はいっ たい何なのか。それを解決していくためにはどうすればよいのかということを本日は皆さんとご一緒 にもう少し深く掘り下げて考えてみたいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『キリストがなした』  奥村 献牧師

ローマ信徒への手紙 105-13節(新共同訳、新約聖書p.288

【聖 書】

5.モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6.しかし、信仰による義に ついては、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き 降ろすことにほかなりません。7.また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者 の中から引き上げることになります。8.では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あな たの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9.口でイエスは主であ ると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10. 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11.聖書にも、「主を信じる者は、だれも失 望することがない」と書いてあります。12.ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自 分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13.「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」の です。

 

【メッセージ】

 

 

本日 16 時から、祈りに覚えてきた牧師就任・按手式が大名クロスガーデンで執り行われます。多く の方々が祝福を携えて集い、またオンラインでこの就任式に出席してくださいます。就任式は、一人 の牧師が教会に着任したという出来事を教会の中だけでなく、この教会のことをおぼえてくださるた くさんの方々と共に確認する時でもあります。平尾教会の宣教のわざ、そして協力伝道の働きへの思 いを、教会内外の方々と確認しながら、心新たにするそのような時となればと願っています。就任式 のプログラムの冊子には、牧師と教会の信仰告白が記されています。牧師と教会がどのような信仰を 持っているのかということがここで公にされています。あらためて、私たちもこの時に教会の信仰告 白、そして牧師の信仰告白を確認しながら、この平尾教会がどのような信仰に立ち、何を目指して歩 んでいくのかということを共に確認していたいと思います。 今日の聖書でパウロは、「律法による義」と「信仰による義」の違いを示しながら、神の義とはど のようなものであるかということを語っています。パウロはユダヤ人キリスト者たちが律法を守るこ とに対して熱心さを持っていることを認めています。しかしその熱心さが、誤った方向に導かれてい ないかということを警告しています。5 節ではレビ記 18 5 節の「掟を守る人は掟によって生きる」 という律法による義を鋭く述べた言葉を引用しつつ、6 節からの箇所では、信仰による義について述べ ています。6 節からの箇所は、申命記 30 11-14 節からの自由な引用であるとされています。十戒が 示された後に記されているこの申命記の箇所では、神の義が遠く離れたところにあり、人間が自分の 力でその神の義を手に入れなければならないという思い込みが否定されています。最後には「御言葉 はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」( 30:14) とあります。モーセもここで、人間の努力によって得る義が遠くにあるのではなく、神様の真実によ る義があなたの心と口にあるのだということを示しています。人間はすぐに不安に支配されて、自分 の力で確証を得ようとします。律法を大切にしながら生きていこうとする思いや行動の熱心さは尊い ことです。しかし律法を人間がどれだけ守っているかということに応じてのみ、神の義が示されるの だという思い込みは、神の義を人間の力で取りにいくことができるのだという思い上がりにつながり ます。神様のご意志やご計画を、人間の手中に収めてしまっているかのような思い上がりです。今日 の聖書は、イエス・キリストが私たちに新しい命に生きる道を示してくださった。それはすぐ近くに あるのだと言います。10 節に「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるので す。」とあります。イエスキリストが、神様と私たちの間に立ち、救いの道、新しい命に生きる道を すでに示してくださっている。そのことを信じ、神と人の前でそのキリストへの信仰を言い表すこ と。その信仰告白によって、神の義がすべての人に示されるのだということが言われています。信仰 告白は、バプテスト教会が大切にしてきたことです。決まった言葉を唱えるだけではありません。バ プテスト教会のキリスト者は、まずイエス・キリストが救い主であるということを信じ、そしてその 信仰を表明してバプテスマを受けます。バプテストは、形式や血縁よりも、信じて言い表すことを大 切にしてきました。そのことにより、私たちがどこに立ち何を目指すのかということが明らかにされ るのです。すべての人に救いの道を示してくださったイエス・キリストを主と告白しながら、私たち はこれからも歩み出していきたいと思います。 「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」(10 4 )

 

 

 

<説 教> 

 

『うめきをもって執り成す”霊“』  奥村 献牧師

ローマ信徒への手紙 818-30節(新共同訳、新約聖書p.284

【聖 書】

18.現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 19.被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。20.被造物は虚無に服していますが、それは、自 分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。21.つまり、被 造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。22.被造 物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。23.被造 物だけでなく、の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心 の中でうめきながら待ち望んでいます。24.わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるも のに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。25.わたしたちは、目に 見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。 26.同様に、も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、 らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27.人の心を見抜く方は、の思いが何であ るかを知っておられます。は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。28. を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わた したちは知っています。29.神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定め られました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。30.神はあらかじめ定められた者たちを 召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 

 

【メッセージ】

 

 本日は、ペンテコステ礼拝です。新約聖書の使徒言行録 2 章には教会の始まりとも言われる、聖霊降 臨の出来事が記されています。ペンテコステ礼拝はこの「聖霊」についておぼえる礼拝です。 ローマ信徒への手紙では、信仰者はもはや罪の支配の下ではなく、霊の支配の下に生きているのだ ということをパウロがくりかえし記しています。6 22-23 節には「あなたがたは、今は罪から解放さ れて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払 う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なので す。」とあります。また、7 6 節には「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して 死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、 従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」と記されています。パウロは、キリスト者に は霊の支配の下で全く新しい生き方が示されているのだと言います。 しかし 7 章の後半で、罪の法則に仕えて生きてしまう私はなんと惨めな人間なのかとパウロは呟きま (24 )。神様の霊の支配の下にありながらも、私たちの肉の体は罪の法則に従って生きています。 その事実はある面で大きな矛盾です。 今日の聖書、8 20 節には「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものでは なく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。」とあります。それは 「神の子たちの現れるのを切に待ち望んで」(19 )いるからです。つまり、すべての神様によって造 られたものはすべて、終末を待ち望んでいる。すべては虚無に服しているが、希望を持って待ち望ん でいる。「心の中でうめきながら待ち望んで」(23 )いるのです。 霊の支配の下に生きるということは、苦しみや虚しさが取り去られて生きていくということではあ りません。虚無に服し、うめき苦しみながら、しかし希望を持って生きていくことができるのだとい うことが、今日の聖書で示されています。27 節には、霊が神の御心に従って、執り成してくださると いうこと、そして 28 節に、それは「万事が益となるように共に働く」とあります。 私たちの心の中には言葉にならず、うめきとしか言えない思いがあります。祈りの言葉すら出てこ ないことがあります。そして、どこまでもついてくる自分の弱さに虚しさを覚えることがあります。 しかし、それらは失望のうちに終わることはありません。私たちの魂の苦しみ、痛みの只中にこそ、 聖霊の執り成しがあるからです。聖霊が共にうめき、執り成して、私たちに希望を示してくださいま す。だから、私たちの人生から苦しみやむなしさはなくならずとも、「現在の苦しみは、将来わたし たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(18 )のです。

 

  

<説 教> 

 

『誰が私を救うのか』  奥村 献牧師

ローマ信徒への手紙 712-25節(新共同訳、新約聖書p.283

 

【聖 書】

12.こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。

13.それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪が その正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なも のであることが、掟を通して示されたのでした。

14.わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しか し、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

15.わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望 むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

16.もし、望まないことを行っているとすれば、律法を 善いものとして認めているわけになります。

17.そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わた しの中に住んでいる罪なのです。

18.わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを 知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。

19.わたしは自分の望む善は 行わず、望まない悪を行っている。

20.もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もは やわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

21.それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。

22.「内なる人」とし ては神の律法を喜んでいますが、

23.わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体 の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

24.わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定めら れたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

25.わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いた します。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 

【宣 教】

ローマ信徒への手紙でこれまで、大きくは「信仰義認」ということについてパウロの神学が述べら れてきました。そして、今日の聖書の前の 6 章では、イエスキリストと共に死にイエスキリストととも に復活する信仰者、信仰者は罪の支配から解放されたのだということについて述べられています。 今日の聖書 7 章の主題は、律法と人間の罪です。パウロは、律法や掟自体は正しく聖なるものである が、人間は「罪に売り渡されて」(14 節)おり、「わたしの肉には、善が住んでいない」(18 節)と 語ります。そのことにより「善をなそうという意志はありますが、それを実行できない」(18 節)の だと言います。神様から人間に与えられた律法は、私たち人間の中にある罪を照らし出しました。 「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。」と 7 節にある通りです。神様から人間 への励ましである律法があるからこそ、私たちは本来の生き方を自分自身に問いながら歩むことがで きます。しかし、自分自身を問い、自分の罪と向き合うことは、簡単なことではありません。 私たちは日々、自分の欲望に従って生きています。イエス・キリストを信じる信仰者も同じです。 信仰者は神様が示してくださった「律法」を知っているからこそ、自分の中にある「罪」とのはざま で日々葛藤をおぼえます。どうしても自己中心的で、欲望に聞き従おうとする「罪」と、聖書の示す 「善」。私たちは、互いに引っ張り合うふたつの力の狭間で苦しみます。私たちの生きる社会自体 も、そのような引っ張り合いの中にあるのかもしれません。皆、どこかで善い生き方をしようと求め ています。しかし多くの場合、人間は欲望に従って生きています。自分が善いと思った行為も「何の ために?」「それは、何のために?」と問い続けていくと、結局すべては自分のためであることが多 くあります。24 節でパウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体か ら、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と語っています。蜘蛛の巣にからまって抜け出すこ とができなくなっている虫のように、どこまでいっても自分では罪から抜け出せない私たちがいま す。「なんと惨めな人間なのか」「誰が私を救ってくれるのか」というパウロの呟きは、私たち人間 の中に共通して存在する苦しみを表しているように思います。しかしパウロは苦しみに満ちた呟きの 直後、25 節で「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と唐突に宣言しま す。「誰が私を救ってくれるのか」、その答えは主イエス・キリスト、そして神様です。人間の善意 や愛には限界があり、人間の内から出るものにも限界があります。しかし神様の愛は私たちにいつも 注がれています。私たちが神の霊の支配の下に生きているかぎり、私たちは自分の不義を見つめ、正 義のために声をあげることができます。そして私たちはキリストと共に希望のうちに歩み出すことができます。

 

 

<説 教> 

 

『キリストと共に』  奥村 献主任牧師

ローマ信徒への手紙 61-14節(新共同訳、新約聖書p.280

 

【聖 書】

1.では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。2.決してそうではない。罪 に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 

3.それともあなたがたは知ら ないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗 礼を受けたことを。

4.わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それ は、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなの です。

5.もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるで しょう。

6.わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もは や罪の奴隷にならないためであると知っています。

7.死んだ者は、罪から解放されています。

8.わたしたちは、キリ ストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

9.そして、死者の中から復活させられたキリ ストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。

10.キリストが死なれたのは、 ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

11.このように、 あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えな さい。

12.従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。

13. た、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から 生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。

14.なぜなら、罪は、もはや、 あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 

 

 先日、多くの人が行き交う真昼の銀座で高級時計店が襲われる事件がありました。犯人たちはすぐ に捕まりましたが、あまりにも大胆な手口であり、たくさんの映像が残っていたため大きく報道され ました。犯人の多くは 20 歳にも満たない少年で、場当たり的な犯行であったとも言われています。私 たちは少年たちに対して、若いのに愚かなことをしたものだと思ってしまいます。しかし、これは私 たちの社会の弱さや、痛みの現れかもしれません。犯行に及んだ少年たちは、SNS を通して集められ、 お互いのことを知らなかったといいます。あるジャーナリストによると、このような犯罪はこれから 増えていくのではないかと言われています。 日本国憲法 25 条には「第 1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有す る。第 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上 及び増進に努 めなければならない。」とあります。今の日本は、この憲法に則った政策がなされているようには思 えません。政府は、生活保障に予算を割くことに慎重である一方で、防衛費やオリンピックの予算の 莫大な予算は簡単に決まっていきます。銀座で犯行に及んだ少年たちの背景に何があったのかは分か りません。けれども、少年たちが「健康で文化的な最低限度の生活」を最初から送ることができてい たならば、社会がしっかりしていたならば、彼らの人生は変わっていたのかもしれません。 今日の聖書でパウロは「キリストと共に死に、共に生きること」について語っています。5 節には 「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあや かれるでしょう。」とあります。「あやかる」という表現は、聖書協会共同訳聖書では、「同じ状態 に」なると訳されています。信仰者は「キリストと共に死に、共に生きる」のです。それは、キリス トとつぎ木で繋がれる状態であるとも言われます。バプテスマはまさにそのことを象徴的に表してい ます。イエス・キリストこそが、私たちの救い主であり、私たちの人生のどんな場面にも伴ってくだ さる方であると言うこと。そのことに気づき新しく歩み出すこと、そのスタートがバプテスマです。 2000 年前、誰からも弁護されることなく、犯罪者とされて死んでいったそのイエスを見つめると き、私たちの罪が照らし出されます。私たちは、バプテスマを受けてからも、間違いを繰り返しま す。「キリスト・イエスに結ばれて」(11 )いながら、よろめきながら歩む私たちがいます。矛盾を 抱える私たち。その私たちにすらも伴ってくださるのがイエス・キリストです。十字架の出来事は、 私たちを罪の奴隷状態から解放し、すべての人々を神様の平和の出来事の中に引き入れます。今日も みことばから共にきいていきましょう。

 

<説 教> 

 

『鞄と荷はあるけれど』  原田 仰神学生

マタイによる福音書 1125-30節(新共同訳、新約聖書p.20

 

4 月の最後の日であると共に、最後の主日となりました。4 月は受難日とイースターという我々キリスト 教会にとっては欠かせない大切な日々を過ごしました。5 月には早くも「ペンテコステ」を迎えます。この 「ペンテコステ」はイースターとのつながりがとても深いものです。神によって復活を果たしたイエス・キリス トの弟子たち(使徒たち)がキリストの命によって福音を宣べ伝えるようにと聖霊を与えられ、派遣されて いきます。「ペンテコステ」はイエスが復活されてから 50 日後の出来事であり、私たちの礼拝では 5 28 日にそれを覚えることになります。 イエス様が復活されてから、弟子たちが出ていくまでに 1 か月以上の期間を要したことには重要なメッ セージがあります。使徒言行録 1 3 節にありますように、40 日もの間、イエス様は弟子たちに「神の国 とは何か」と教えておられました。「神の国」はイエス様の宣教活動において基本的且つ最終的なテーマ です。そうまさに、この「ペンテコステ」までの時期に弟子たちは、大切な準備の時を過ごしていたのです。 この弟子たちが過ごした期間は私たちの生活にも通ずることがあります。社会生活を少し掘り下げてみる と、今は私たちも一種の準備期間であるということができるでしょう。 4 月という月には入学式や入社を迎える人が多くいます。その直後には大体、オリエンテーション期間 や研修期間があるのではないでしょうか。アルバイトなどで言えば、1 か月ほどの研修期間が設けられて いるケースは良くあります。新しい環境に入る前にも、多くの説明を受けたり、練習をしたりなどして備えを します。しかし多くの準備をしても、いざ流れの中に身を投じると右往左往して沢山の課題や準備不足が 明らかになってきます。それらを知り、整理して、「ここで私は何をするのか」ということに今一度目を向け て、本格的に出発していくのです。45 月という時期は、このような新しい環境下での準備期間ということ ができます。 この期間に弟子たちは、以前から受けてきた多くのイエス様の教えを、宣教の業へと遣わされていく前 に、もう一度受けています。だからこそ、私たちも弟子たちと同じように過ごしていけたらと思います。既に 始まっている新しい年度を神様と聖書と向き合っていくために、神様と共に歩むとはどういうことなのか、 神の国とは何なのか、それを見つめる時を。 そんな大切な時にある私たちに、神様に従っていく道には確かな「安らぎ」があるということを教えてく ださっているのが、本日共に与っていく御言葉です。

 

<説 教> 

 

『みんな何かが欠けている』  奥村 献主任牧師

ローマ信徒への手紙 39-20節(新共同訳、新約聖書p.276

 

 

 

引き続き、ローマ信徒への手紙からみ言葉をいただきます。ローマ信徒への手紙でパウロは、ローマに住むキリス ト者に自身の神学を自己紹介的に述べています。その 3 章でパウロは信仰義認について語っています。3 章のはじ めから、ユダヤ人とはどのような存在なのかということについて論じています。まずユダヤ人は「神の言葉をゆだねら れた」(2 節)存在なのだと言います。確かにユダヤ人は特別な存在であるということをパウロは認めています。しか しそれは、ユダヤ人に優れた点があるからではないということも同時に示しています。神様のみ業は人間の言葉や 行いによって左右されず、その神様のみ業はユダヤ人がいかに不誠実であったとしても、誠実であったとしても神 様の真実があるから変わらないのだと述べています。 9 節で「わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。」「皆、罪の下にあるのです」とパウロは断言 します。ユダヤ人もギリシア人も皆、この普遍的な罪の下にあり、その意味においてユダヤ人に優れた点は全くない のだとパウロはここで断言しています。ここにある「罪」という言葉はギリシャ語でハマルティアという単語です。ハマル ティアは罪という意味の他に原意で「(目標を)逸する」「まとはずれ」といった意味があります。 パウロは 10 節からの 18 節の言葉を紹介します。この言葉は旧約聖書の複数箇所から引用されたのではない かと言われています。冒頭に「正しい者はいない。一人もいない。」とあります。ユダヤ人は神様から言葉を委ねら れた存在だが、そもそも正しい者は一人もいないと断言されています。自分こそが正しい存在で、神に近い者であ ると自負する人々にとっては、この言葉は理解できない受け入れ難い言葉かもしれません。しかし、これはまさに、 自分こそが正しいのだと思い上がっている「まとはずれ」な者に向けられた言葉です。その罪の根本には「彼らの目 には神への畏れがない」(18 )ことがあります。神への畏れをいつの間にかなくしてしまうこと、これは宗教に熱心 である人に起こりやすいことではないかと思います。宗教者が他者を見下し、自分こそが神に近い存在であると思 い上がってしまうことはめずらしいことでありません。キリスト者にもそのようなことは起こってきます。 最後に「律法によっては罪の自覚しか生じない」とあります。聖書に記されている律法を励みとして大切に生き ることが大切です。しかし、それを他者に向け、自分こそが優れているとしてしまうことがあります。その時に人間は 神様ではなく、自分の栄光を追い求めてしまっているのではないでしょうか。聖書に記されている律法の言葉は励 ましです。しかし、「罪の自覚しか生じない」言葉に変えてしまうのは「まとはずれ」な人間です。 皆、罪の中にある。その中で私たちは神様が示してくださった本来の自由の中を歩んでいきたいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『私は福音を恥としない』  奥村 献主任牧師

ローマ信徒への手紙 116-17節(新共同訳、新約聖書p.273

 

 

本日より、ローマ信徒への手紙を読み進めていきます。ローマ信徒への手紙は、新約聖書のパウロの真筆の書 簡の中で、最後に執筆された書簡であると言われています。これはローマにいるキリスト者たちに向けて書かれた 手紙です。当時ローマには、多くのキリスト者が住んでいました。パウロは他の書簡では、自分が設立したキリスト者 の教会や共同体に向けて手紙を書いていますが、このローマ信徒への手紙は唯一、パウロ自身が設立したわけで はない教会に向けて書かれた手紙です。 ローマ信徒への手紙の内容は、これから広がっていく異邦人伝道を念頭に置いて書かれています。パウロ自身 がローマを訪問することを願い、近い将来ローマのキリスト教徒たちと顔を合わせることを前提として、自己紹介的 に自身の神学をこの書簡で述べています。 今日の聖書はそのローマ信徒への手紙の冒頭です。パウロはまず「私は福音を恥としない。」(16 )と述べてい ます。堂々とした告白です。この言葉は、14 節の「私には、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人 にも、果たすべき責任があります。」という、宣教に向かう積極的な言葉と結びついています。 パウロはこれまで、フィリピで投獄され、テサロニケから追い出され、アテネでは嘲笑されました。コリント信徒への 手紙では「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力で す。」と述べています。これまでパウロはキリストの福音を語るたびに、嫌というほどの仕打ちを受け、人々から拒絶さ れてきました。そのパウロがそれでも「私は福音を恥としない。」とここで告白します。福音は、救いをもたらす力であ ると確信を持っています。当時の世界の中心であった大都市ローマ訪問を前に、決して福音を語ることを諦めない パウロの思いがここにあります。 17 節に「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるので す。」とあります。パウロの信仰義認についての中心的な考えが述べられていますが、この 17 節の翻訳は見直され つつあります。この 17 節の言葉を新約聖書学者の田川建三は「何故なら、神の義はその中で信から信へと掲示さ れるからである。」と訳しています。2018 年に出版された聖書協会共同訳聖書では「神の義が、福音の内に、真 実により信仰へと啓示されているからです。」と訳されています。 この 17 節をはじめ、新約聖書の多くの箇所で「信仰」とのみ訳されてきたピスティスというギリシャ語には、「信 仰」という意味のほかに、「真実」、「誠実」といった意味があります。 「信仰義認」とは、これまで律法遵守などの行いによるのではなく、信仰によって神の前で義と理解されてきま した。しかし、本来は人間が神様を信じる信仰の尺度にあわせて人間が義とされるのではなく、神様の真実こそが 福音(キリストの十字架)の内に示されているからこそ、私たちは義とされるのだという解釈が広がっています。 この解釈は 4 5 節の「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認め られます。」という言葉と矛盾しません。 17 節の最後には「「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」とあります。これはハバクク書の 2 4 節の言葉です。ここにもピスティスという言葉が使われています。この言葉は最古の旧約聖書の翻訳のひと つ、70 人訳聖書では「しかし、わが義人は我が真実によって生きるであろう」となっています。 人間の信仰には限界がありますが、 神様は、いつも真実な方であり、私たちに誠実でいてくださいます。その神 様の真実により私たちはイエスキリストの十字架の福音を知り、信仰の歩みに生きることができます。「不信心な者 を義とされる方」(4 5 )である神様の愛が私たちを包んでいます。だから、私たちはどんな場所で、どんな時代 にあろうとも、どんな状況に置かれても、福音を恥じる事は無いのです。今日も共に聖書から聴いていきましょう。

 

<説 教> 

 

『食卓の回復』  奥村 献主任牧師

ルカによる福音書 2436-43節(新共同訳、新約聖書p.161

 

 

教会は、新しい年度の歩みを始めています。私自身も週に二日は平尾会堂の牧師室を離れ、大名クロスガー デンで過ごしています。留守番チームの皆さんと共に二つの会堂管理をしていきます。これまで毎週日曜日に足を 運んでいた大名の街ですが、平日にも多くの人々が行き交っていることに驚かされて生ます。これから益々、両会 堂が主の宣教の器として豊かに用いられる事を願っています。 今日の聖書は、十字架の出来事の後、イエス様が弟子たちの前に現れた出来事が記されています。今日の 聖書の前に、エマオという村への道の途上で、二人の弟子の前にイエス様が現れました。二人は最初「目が遮られ て」(16 )、その存在がイエス様だと気づくことができませんでした。二人が、ずっと話してきたその人がイエス様だ と気づいた時に、その姿は見えなくなりました(31 )。二人は語り合います。「道で話しておられるとき、また聖書を 説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32 )。なんとも不思議な話です。 二人はすぐにエルサレムに戻りました。おそらくは夜がふけたころ、弟子たち 11人が集まっているところへ行き、 イエス様が現れた出来事を話しました。今日の聖書は、そこから始まります。 36 節に「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言 われた。」(36 )とあります。イエス様の話をしていた彼らの、その真ん中にイエス様が現れました。「彼らの真ん中 に立ち」という部分は岩波訳聖書では「彼らの只中に立ち現れ」となっています。おそらく彼らはこの時、十字架の 出来事を受けて悲しみに暮れ、不安と緊張に支配されながら、これからどうしていいのかわからない。そのような状 況であっただろうと思います。その彼らの只中に、イエス様が現れ「あなたがたに平和があるように」と告げられまし た。弟子たちはそれまでまさに、イエス様の話をしていたにも関わらず、「亡霊を見ているのだと思った。」(37 ) あります。目の前に、イエス様が現れても、全く信じることができません。それほどまでに、これまで慕ってきたイエス 様が十字架にかけられた出来事は、弟子たちにとって決定的で揺るぎない悲しみの出来事でした。イエス様は弟 子たちの心を見抜き、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」とご自分の手と足をお 見せになります。十字架にかけられた、イエス様の手と足です。深い傷を負っていたことでしょう。その手と足を、イ エス様は「触ってよく見なさい。」と言われます。 イエス様は単に、体があるということを証明されたのではなかったのだろうと思います。これから宣教を担っていく 弟子たちに、イエス様は十字架を背負って歩み出すように示している気がします。 十字架で死に、その死に勝利されたイエス様が彼らの目の前にいました。そのイエス様は、さらに焼いた魚を彼 らの目の前で食されました。 コロナの影響で、長らく教会は共に食事をするという機会が奪われました。共に食事をするということが、私たちに とってどれほど尊いことであったのかという事を知らされた期間でもありました。共に食卓を囲み、食べる。これまで 当たり前だと思っていた事を失った時、私たちははじめてその尊さを理解しました。 復活なさったイエス様は、ルカによる福音書 14 1-16 節で、ご自身が示された宣教の指針を自ら体現なさい ました。食卓を囲み、人々と共に生きる宣教の歩みです。 イースターのこの日、今日も私たちと共におられる、復活のイエス様と共に歩み出したいと思います。

 

<説 教> 

 

   『十字架の上で』  奥村 献主任牧師

ルカによる福音書 2326-43節(新共同訳、新約聖書p.158

 

教会は受難週を迎えています。4 7 日金曜日には受難日キャンドルサーヴィスが平尾会堂で行われます。受 難週に私たちはイエス様が十字架で苦しみを受け、墓に葬られた出来事、その痛みと悲しみを思い起こします。 今日の聖書は、イエス様が拘束されたのち十字架にかけられる場所、「されこうべ」と呼ばれているエルサレムの 丘に、大勢の群衆や兵士らと向かうところから始まります。そこでキレネ人シモンという人物が、十字架を背負わさ れ、イエスの後から運んだと記されています(26 )。おそらくイエス様は、ムチ打たれ、重い十字架を背負って歩 かされていたため、それ以上十字架を運ぶ力が残っていなかったのだろうと思います。イエス様の弟子たちは、こ の時一人も周りにいませんでした。 嘆き悲しむ女性たちに、イエス様は慰めではなく、大変厳しい言葉を旧約聖書 の言葉を引用しながら語られます(28-31 )。エルサレムが、神の子であるイエス様がどなたであるのかということ を悟らず、受け入れなかったことに対する厳しい言葉です。イエス様の十字架にかけるという事は、それほどまでに 重大な罪であると言うことを私たちは受け止めていたいと思います。32 節からの箇所で、イエス様は「されこうべ」と 呼ばれているその丘で、 犯罪を犯した人物二人と並んで十字架にかけられます。そこでイエス様は「父よ、彼らを お赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34 )と言われます。何の罪も犯していない自分自身 が十字架にかけられ、侮辱を受け、暴力で体がボロボロになっている。今まさに目の前でイエス様を見下し、とこと んまでに傷つけているその人々を、どうか赦してくださいとイエス様は祈られました。はりつけられた犯罪者の一人 も、十字架の上からイエス様を罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(39 )。する ともう一人の犯罪者がたしなめ、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 (42 )とイエス様に伝えます。 十字架の上で、激しい痛みの中、相反する二人の言葉がイエス様に届けられまし た。私たちの中には、イエス様を罵った前者と、イエス様に「私を思い出してください」と言った後者の二人が共存し ているのではないかと思います。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43 )。イエス様はそのように語られ ます。 共におられる神の子イエスキリストを受け入れ、私たちが信仰を言い表す時、「今日」 私たちは楽園に招か れているのだと聖書は伝えます。 十字架の上で、最後の最後にイエス様は、悔い改め、信仰を告白した一人のこ とばに耳を傾けてくださいました。今日、私たちは十字架の上のこのイエス様から聴いていきたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

 

『信仰から信仰へ、信仰によって』  森 崇牧師

ローマ人への手紙 114-17節(新共同訳、新約聖書p.273

 

平尾バプテスト教会の敬愛する皆さん、これまでの親しいお交わりと導きを心から感謝します。本日をもって平尾教会の牧師として委託された説教の務めが終わることになります。本日、皆さんと最後に分かちあいたい聖書の言葉は、ローマの信徒への手紙1章です。パウロは晩年、大都市ローマに行くことを願っていました。ローマの教会はパウロが建てた教会ではありません。ローマ帝国のお膝元ですから、パウロが希望しているこの旅が殉教をも含むことを彼は覚悟していたことでしょう。パウロは自分が信じている福音は、すべての人のためにあること、また全ての人に伝えなければならない責任を感じていました。
福音とはなんでしょうか。福音とは良き知らせ、グッドニュースです。神の子イエスが救い主として私たちのところに来てくださったという出来事、そしてこの物語のことです。パウロは神の約束の実現であるイエスの誕生とその生涯、そしてこのイエスが復活させられた出来事こそは、イエスが力ある神の子とされた福音であると告げています。つまるところ、福音とは救い主イエスなのです。だから聖書を読む時、福音とあれば、イエスと置き換えて読めば良いのです。
新共同訳聖書で置き換えて読むとこのようになります。【わたしはイエスを恥としない。イエスは神の民も、そうでないものにも、信じるもの全てに救いをもたらす神の力だからです。イエスには神の義が啓示されていますが、それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しいものは信仰によって生きる」と書いてある通りです】
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。この神の義というのは、「神の前に全く良い存在とされる」という「神の無条件の受容」と「神の正義と公平」の二つの意味が同時に含まれているように思います。一つはイエスという存在によって人は誰でも神の前に受け入れられている、ということを現します。そしてもう一つは、弱くされ、傷んでいる魂に目を向けて、神の正義と公平を実現させんと現れてくださるイエスです。神の義は、このイエスによって啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる、と。
私たち人間はとにかく不完全なものです。愛も赦しも足りていない欠けだらけの存在です。しかし神は、そんな私たちをも大切にされ、受け入れようと主イエスをこの世に送られました。この方を信じ、この方と共に歩みたいと願って、信仰、ー信じて生きる道に入るのですけれども、とにかく人間の弱さや痛みの中でこれが信仰もまた薄れ、なくなってしまいそうになることがあります。しかし、本日の聖書の言葉、ー神の言葉が語るのは、信を持って始めた人はおしなべて信に至るのだと告げます。私たちの中で起こされた信は私たちの努力や行いによるのでなく、信に至らせると告げます。大変嬉しい言葉です。
「信仰による義人は生きる」とは預言書の引用ですが、強調点は「信仰」です。イエスを信じる信仰があれば、その人はすでに神から義の人だと認められています。それは自分の正しさを求めるのではなくて、常に神がよしとしてくださるという視点に立って生きるもののことです。そして神の国と神の義を求めて生きることです。「信仰による義人は生きる」とは、神によって認められている人が神の国を成し遂げんと生きる人々の生き様です。
本日は計画総会が予定されています。平尾教会は平尾と大名の二つの会堂をもつひとつの教会です。この営みにはさまざまな難しいことも多いかもしれませんが、困難を覚える時、挫けそうになる時には、本日の聖句を思い出して下さい。「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。信仰による義人は生きる」
いろいろと難しく捉える必要はありません。ケセラセラと笑いながら、楽しく主イエスと共に、神の家族の連なる教会と共に、歩んでください。最終的な完成に至らせるのは私たちの主なる神であるからです。皆さん、さようなら。そしてお元気で。わたしを育んでくださった主と主の教会の一人ひとりに心から感謝します。平尾教会に連なる神の家族の主の祝福と栄光を心から祈っています。

 

 

 

 

<説 教> 

 

『隅の親石』  奥村献主任牧師

ルカによる福音書 209-19節(新共同訳、新約聖書p.149

 


本日は、松尾栄樹さんのバプテスマ式が予定されています。礼拝はもちろん、祈祷会や山楽会などを通して教会の方々と親交を深めた松尾栄樹さんが、バプテスマを受け、教会のメンバーとなる決断に至ったということは、教会にとってこの上ない喜びです。これから共に教会生活を送ることができることを、神様に心から感謝いたします。森牧師が松尾栄樹さんのバプテスマ式を執り行ってくださいます。森牧師は来年度より東京の常磐台バプテスト教会に赴任されます。私たちの人生の歩みの中には、出会いや別れがありますが、神様のご計画の中で与えられたひとつひとつの出会いや出来事に感謝をし、その神様のさらなる豊かなご計画に期待していたいと思います。
今日の聖書では、イエス様がたとえ話を用いて語っておられます。この「ぶどう園と農夫」のたとえに登場するぶどう園をもつ主人は神様を表します。農夫はイスラエルの民、ぶどう園の主人の僕は預言者たち、そしてぶどう園の主人の息子はイエス様ご自身を表しています。ぶどう園の主人が長い旅に出ている間、農夫たちは土地を預けられました。ぶどう園の主人は何度も僕を農夫たちのところに送りますが、その度に農夫たちは僕を袋だたきにし、侮辱して追い返します。最後にぶどう園の主人は自分の息子を農夫たちのところに送れば、敬ってくれるだろうと思い息子を送りますが、農夫たちは話し合って相続財産を自分たちのものにするために、その息子をぶどう園の外に放り出して殺してしまいます。なんと、農夫たちは借りている土地に感謝することなく、収穫の一部を収めずに僕たちを痛めつけ、最終的にぶどう園を自分たちのものにするために、ぶどう園の主人の息子をも殺してしまいました。
ここに、旧約聖書に記されている神様と人間との関係性、イスラエルの民の歴史が象徴的に記されています。神様は人間に命を与え、人間が平和に生きるようにと契約を与えてくださいました。神様は契約に忠実であり、何度人間に裏切られても、預言者を通してその時に必要な言葉をお与えになりました。しかし多くの人間は、まったくそのことに耳を貸さず、契約に不誠実に生きていました。今日のたとえ話の農夫たちのように、神様から与えられたものを自分のものであるかのように振る舞っていました。そして『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』(13)。神様がそのような思いをもってこの世界に送ってくださった、イエス・キリストさえも人間は放り出して、十字架につけてしまいました。
 イエス様は『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』(17節)という詩篇11822節の言葉をご自分と重ねて語られます。隅の親石とは、当時のパレスチナ地方で家を建てる際に、家の四隅に据えられた石です。人々に受け入れられず、放り出された石が、新しい信仰の基礎となっていきます。
 バビロン捕囚など、幾多の困難を乗り越えたイスラエルの民は、もともと権力者から捨てられた石のような扱いを受けていました。その後時間をかけて何度も悔い改め、信仰の基礎を築いていったはずのイスラエルの民でさえ、最終的には神の子イエスキリストを十字架にかけてしまいました。
 私たちの信仰の原点、隅の親石であるイエスキリストの十字架の出来事に立ち返りながら、今日のみことばを受け止めていたいと思います。

 

 

 

 

<説 教> 

 

『あなたは災いを思い直される方』  森 崇牧師

ヨナ書/ 31-46節(新共同訳、旧約聖書p.1447

 

東日本大震災が起こったときのことを皆さんそれぞれに鮮明に覚えておられることと思います。災害が起きた日の出来事は各自で忘れられることはありません。わたしはあまりにも悲惨な状況に言葉を失い、また祈る言葉も見つかりませんでした。ただただ、その時の私の気持ちとしては「主よ、憐れみたまえ(キリエ・エレイソン)」と言う他は無かったように思います。この出来事はただただ自分の無力感にさいなまされたひと時でもありました。
時を経て、熊本の大震災が起こった時、わたしは過去自分が東日本大震災時には何もできなかったことを猛烈に反省し、平尾教会に申し出て必要な物資を呼び掛けて集め、教会車に詰め込んで菊池シオン教会へと向かいました。熊本では菊池シオン教会の濱川牧師に会いました。ご自身も被災されながら、またその精神的・肉体的な困難の中で教会が地の塩・世の光となるべく働かれたのでした。その後、同時期に支援物資を届ける働きを担われた那珂川教会の藤牧師と共に、避難所でのカフェ、仮設住宅でのわくわくカフェ、九州北部豪雨が起こった際には福岡地方連合の諸教会の協力を仰ぎながら食器提供ボランティアをなすことが出来ました。災害は確かに多くの苦しみと痛みとを至る所にもたらしましたが、同時に教会の協力と連帯が、または地域の方々の支援を頂きながらその関係性を深められたことは大きな恵みでありました。
さて、本日の聖書個所は天まで届く悪事を働いたニネベに対する預言者ヨナの宣教の話です。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と神の御言葉をヨナは伝えたのですが、ニネベの人々は自分の悪(ヘブライ語ラーアー)を悔い改めました。そこで神は宣告した災い(ラーアー)を下されるのをやめられました。この神の姿は怒りよりも赦しの神であり、宣告された裁きですらも自由に撤回なさる方です。この神の計り知れないほどの自由な姿を見た時、ヨナは不満(ラーアー)を持ちました。ヨナ書におけるラーアーは「悪/災難/悪の道/災い/不満」などの多様な意味がありますが、どれもその根源は「悪い」という意味です。目に見える災害はもちろん「悪い」のですけれども、実は神の自由な働きに触れるとき、あるいは赦しと愛と自由な神の姿と働きを理解できないとき、私たちの心の内に悪(ラーアー)があることに気づかされます。しかし、神は私たちの中に潜むラーアーをも救い出そうとされる方です。災害への助けと救いと共に、私たちの心を救うべく働かれ、問われ、粘り強く対話される主がおられます。

 

 

 

 

 

<説 教> 

 

『言葉をめぐって 』  岡 恭子姉

ヨハネによる福音書 2115-17節(新共同訳、新約聖書p.211
 

ヨハネ福音書に見るagapaōphileōの使い分けと訳し分け
<アガペー(agápē/神の愛、無償の愛  フィリア(philia/友人間の愛>
ヨハネ11:3(phileō
新共同訳、聖書協会共同訳:姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
岩波訳:そこで、姉妹たちは彼のもとに人を遣わして言った「主よ、ご覧下さい。あなたがほれこんで下さっている人が病んでいます」。
ヨハネ115agapaō
新共同訳、聖書協会共同訳:イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
岩波訳:イエスはマルタとその姉妹、そしてラザロを愛していた。
ヨハネ1225phileō
新共同訳、聖書協会共同訳:自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人(者)は、それを保って永遠の命に至る。
岩波訳:自分の命に愛着する者は、それを滅ぼし、この世で自分の命を憎む者は、それを永遠の生命にまで護ることとなる。
ヨハネ1627phileō
新共同訳、聖書協会共同訳:父御(ご)自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
岩波訳:父自らがあなたがたに好意を持っているからである。それはあなたがたが私に
ほれこんでおり、私が神のもとから出たことを信じきっているからである。
ヨハネ2117phileō
新共同訳、聖書協会共同訳:三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたし(私)を愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたし(私)を愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたし(私)があなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたし(私)の羊を飼いなさい。
岩波訳:三度(みたび)彼に言う、「ヨハネの子シモン、あなたは私にほれこんでいるのか」。ペトロは、三度目に「あなたは私にほれこんでいるのか」と彼が自分に言ったので、悲しくなった。そして彼に言う、「主よ、あなたにはすべてがわかっています。私があなたにほれこんでいること〔、それ〕はあなたが知っておられます」。[イエスが]彼に言う、「〔これからも〕私の羊たちの世話をしなさい。

 

 

 

 

<説 教> 

 

知られざる祈りに救われて 』  森 崇牧師

創世記/1915-29節(新共同訳、旧約聖書p.26

 

 

本日の聖書箇所は二人の御使いがソドムという街についたところから始まります(19)。時は夕方、暗い闇が地を覆う前です。ソドムという街はエデンの園のように、またエジプトの国のように見渡す限りよく潤っていた(13:10)土地でした。緑の木々に覆われ、文明も発達し、栄えている街でした。アブラハムの甥であるロトはその街の見目麗しさに心を惹かれてそこに住み着くことになりました。しかしロトやその家族たちは緊迫した街の状況の中で生きました。そこは自分の肉の欲望を満足させるために荒廃していたからです。二人のみ使いが夕方ソドムに着いた時、ロトは彼らを歓迎し、受け入れ、ひれ伏して拝んで自分の家に招き入れました。二人はここでロトに自分たちの身を明かします。「実は、私たちはこの街を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主はこの街を滅ぼすために私達を遣わされたのです」「大きな叫び」(13)とは「彼らの叫び」という意味です。何人もの痛みと苦しみ、叫喚の声を現しています。助けを必要とする人々は見捨てられ、「助けてくれ」という叫びが町中にこだまします。ソドムではよそ者や旅人を欲望のままに扱い、その方々のいのちや人権は見捨てられていました。その街には見知らぬ者、あるいはよそ者、自分と異なる人々への憎悪と、外部の者は排斥しようとする空気がそこにはありました。混乱と暴動の夜の闇が明ける頃(15節)、御使いたちはロトを急き立てて言います。「さぁ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい」ロトが他の親族たちを思ってためらっていると、二人のみ使いはそれぞれロトと妻、二人の娘の手を取って町の外へと避難するようにしました。16節ではロトや家族が助けられたのは「主の憐れみ」によることを告げています。ロトの家族が助けられたのは自らの努力や経験によるものでなく、また自らの信仰深さによるのでもなく、ただただ主の憐れみによるものであったと告げられています。主はロドムとゴモラを滅ぼされましたが、残念ながら「振り返ってはいけない」という主の言葉を破ったロトの妻は、塩の柱となってしまいました。これは、「神の裁きは誰の目にも見ることはかなわない」という現れだと私は思います。29節ではこの出来事をこのように振り返っています。「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅の只中から救い出された」と。今日私達が最も心に留めたいことは、ロトが救われ、助けられたのは「神がアブラハムを御心に留められたから」ということです。これは先程も分かち合われたように、ロトが救われたのはロト自身によるものではありません。御使いに親切にしたとか、御使いを守ろうとしたとか、そのような行いや言葉ではなく、ただただ神がアブラハムを御心に留めたがゆえに、ロトが救われたという事実です。それでは神がアブラハムを御心に留められたとは、どのような出来事だったのでしょうか。本日は創世記よりアブラハムの知られざる祈りの対話について共に聴いていきたいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『あなたの魂こそ大切』  奥村献主任牧師

ルカによる福音書/1213節〜21節(新共同訳、新約聖書p.131)

 

今日の聖書でイエス様は、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15)と人々に語られます。
そして、ある愚かな金持ちのたとえを話されました。ある畑をもつ金持ちが、豊作であったにもかかわらず、満足せずに不安になり、大きな倉をつくり、そこに穀物や財産をしまいます。そして「何年も生きて行くだけの蓄えができた」(19)と満足します。しかしそんな時、その金持ちに神様が「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20節)と言われるというたとえ話です。
私たちは生きていくために、いろいろなものを蓄えます。それはごく自然な事柄です。心身ともに健康であり続けるため、ある程度の財産は必要です。イエス様はこのたとえ話を通して、私たちが生きていくために財産を蓄えること自体を問題とされているのではありません。「注意を払い、用心しなさい。」(15)と言われたのは、必要以上に自分のためだけの財産を蓄えることを第一とする生き方、その貪欲さでした。
すでに十分に神様から豊かな恵を与えられているにもかかわらず、与えられた次の瞬間にはすっかりとその恵を忘れさってしまっている。そしてその与えられたものを、自分に還元するために「どうしよう」と不安で頭がいっぱいになる。自分が生きながらえることだけを考えて必要以上に蓄える。イエス様はそのように自分のためだけのために貪欲に生きる生き方に注意しなさいとおっしゃいました。
今、私たちが生きる社会では、世界規模で貧富の格差が広がっています。昔からそのような事が言われ続けてきましたがここ数年、かつてないほどのスピードでその格差は拡大しています。
925節でイエス様は「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」と言われます。私たちは今一度このみことばに立ち返る時がきているような気がしてなりません。私たちが富や財産を必要以上に追い求め、心が不安に支配されているしまう時「何の得があろうか」と自分の心に問うていたいと思います。

「希望の倫理」という神学者であるモルトマンの本の言葉をご紹介します。
「利害とは関係のない喜びにおいて、事物は被造物としての美を表す。世界が再び愛するに値するものとなるのは、私たちがそれをもう利益や必要性といった価値によって品定めしない時である。
私たちもその時、自分自身の肉体と魂のことを、地上における神の被造物及び神の似姿として意識する。私たちは、その時、全く無益で、何の役にも立たなくなるが、全くここにあって、神の輝く面の光の中で自らを認識する。人生の意味や、私たちの有用性に関する不安に満ちた問いは消え去る。つまり存在、それ自体が善いものであり、ここにあることが素晴らしいのである。」(389)
私たちは神様から、愛に生きるようにと招かれ、創造されました。私たちがこの世の価値観に振り回されることなく、貪欲に支配された心から解放されるとき、私たちは本来の姿を取り戻すことができます。「用心しなさい」と励ましてくださったイエス様に聴きながら、愛に生きる生き方へと共に歩みだしたいと思います

 

 

 

<説 教> 

 

   『慈しみはとこしえに』  森 崇牧師

   詩編/ 136 1-26節(新共同訳、旧約聖書p.976)

 

平尾教会の主に感謝します。私たちの教会に平尾会堂と大名会堂が与えられ、礼拝を行う大切な場所として守られていることを心から主に。思い起こせば、私は20歳の時から平尾教会に転入会し、平尾教会の牧師として2013年に迎え入れられ、2012年に献堂した大名クロスガーデンでの働きに10年間仕えてきました。この二つの会堂で起こる様々な恵みと祝福に預からせて頂いたのは、他ならぬ私であったということに気づかされています(恵み以上に大変なことも多くありましたが)
詩編136編は交唱歌です。前半の言葉を祭司やレビ人が読み、そして後半を会衆が唱えます。「慈しみはとこしえに」とはどんな人でも礼拝に参加できる応答の言葉です。「感謝せよ」とはヘブライ語聖書では13節、26節のみある呼びかけであり、この言葉は「感謝をする」という以上に「認める/(罪を)告白する」という意味があります。これは古代イスラエルの信仰を言い表した詩篇です。13節から神に対する強調表現から始まり、49節までは創造主なる神への賛歌が歌われます。1024節までは救いの御業を行われた神への賛歌が続きます。この詩篇では神の創造の業と歴史的救済の二つの側面が、コインの表と裏の様に両義的に成り立っています。そして創造と救済をなされる主なる神は、25節にあるように肉と霊を持つ全てのものの神であられ、そしてそれゆえにこの方を認め、告白し、天の神に賛美しなさいと告げられるのです。
わたしはこれまでの10年間を振り返りながらこの会堂記念感謝礼拝に備えてきました。大名クロスガーデンでの働きを一言で要約するのであれば、「大名クロスガーデンは恵み(トーブ)であった」と思います。そして平尾会堂での働きを要約するのであれば、「平尾は慈しみ(ヘセド)であった」と言いたいと思います。歴史の中で立ち続けてきた平尾教会の確固たる群れの中に、図らずとも与えられ、起こされてきた創造の数々のわざがありました。しかし、私たちがもっとも大切にしなければならないのは、この導きを与えた主なる神以外の何ものをも大切にしてはならないということです。「平尾会堂と大名会堂」は「慈しみと恵み」。ふたつでひとつとは、この信仰の上に建つのです。平尾教会の主に感謝せよー慈しみはとこしえにー

 

 

 

 <説 教> 

 

『ゆっくりいこう』  奥村 献主任牧師

ルカによる福音書 194148節(新共同訳、新約聖書p.148

 

211日は、日本で「建国記念の日」として国民の祝日とされています。日本が建国された日は明確ではないけれど、日本の建国された日をしのぶ日としてこの日が定められています。もともとは、初代の天皇である神武天皇が即位した日であるという「日本書紀」に記されている神話をもとにこの日が定められています。
本日の礼拝は、信教の自由をおぼえる礼拝です。私たちは何かを信じる自由を有しています。それは誰からも強制されたり、奪われたりしてはなりません。天皇の神話を信じ、天皇が神であるという信仰を持つ事もまた自由ですが、かつて日本を戦争に駆り立てた国家神道のなごりで、国が定める国民の休日にこの天皇の神話が根拠とされていることは望ましくありません。
第二次世界大戦中、多くのキリスト者はイエスキリストを信じているというだけで、弾圧・迫害を受けました。かつて日本は、戦争に向かう中ですべての国民が天皇を崇拝することで、天皇を中心とする完全な国体を作り出そうとしたのでした。そのことのためにどれだけ多くの尊い命が奪われたことでしょうか。
今を生きる私たちは、信仰を持つ自由が与えられているということに感謝しつつ、人間の心を縛り付け、利用しようとする動きには警戒し「否」と声をあげていたいと思います。
今日の聖書でイエス様はロバにまたがり、エルサレムを眺めて「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」(42)と言われました。エルサレムがやがて滅ぼされるということを嘆いて、この都のために泣かれました。実際にこの後エルサレムは70年にローマ軍によって徹底的に破壊されます。
「神の訪れてくださる時をわきまえなかったから」(44)。弟子たちや群衆はエルサレムに入城されるイエス様を賛美して心からほめ称えましたが、救い主であるイエス様を本当の意味で受け入れてはいませんでした。人々はイエス様がなさろうとしていた事を理解していませんでした。目に見える救いを求めていた群衆は自分たちを今すぐ救ってくれる「強い」政治的なリーダーを求めていました。
 イエス様が神殿の境内に入られると、イエス様はそこで商売をしていた人々を追い出されました。「祈りの家」であるべき神殿を「強盗の巣」にしてしまった人々に怒りを表されました。当時は、長い旅をして神殿に参拝に来た巡礼者をターゲットにして、さまざまな詐欺が横行していたということです。神を神として礼拝し祈るべき場所で、人から搾取するということが平然と行われていました。
 イエス様は「平和の道をわきまえ」ない人々がいるために、エルサレムで何が起こるかを見据えて涙をながしました。しかし、決してそこで引き返すことなく、間違った歩みをする民に怒りをぶつけられました。そのことで、宗教の指導者たちはイエス様を殺そうと思いましたが、多くの民衆はイエス様に惹きつけられました。
 イエス様は今の時代をどのように見ておられるでしょうか。私たちは神様を見ているようで、人間的な思惑に支配されていることはないでしょうか。またはいつの間にか為政者に利用され、持ち運ばれてしまっているようなことはないでしょうか。ロバに乗ったイエス様の嘆きに共に聴いていきたいと思います。
  

<説 教> 

 

[心も思いも一つにしてとはどういうことか]  青野太潮協力牧師

使徒言行録/ 4章32~37節(新共同訳、新約聖書p.220

 

 

NHKEテレの「クラシックTV」が面白くて、私はほとんどいつもそれを録画しておいて時間のあるときに見ています。司会の清塚信也さんのすばらしいピアノ演奏と、その清塚さんのさまざまなジャンルの音楽に精通している博識を基にして展開されるゲストとの軽妙なやり取り、またもう一人の司会者でアシスタント的な役割を担っている元アイドル歌手の鈴木愛理さんのコメントも興味深くて、いつも驚嘆しながら番組を楽しんでいます。先日は、3つのオーケストラのコンサートマスター3人がゲストとして招かれておりました。N響の篠崎史紀(ふみのり)さん、神奈川フィルの石田泰尚(やすなお)さん、そして読売交響楽団の長原幸太さんの3人です。
いろいろな話題がありましたが、なかでも興味深かったのは、どこで弾き始めたらいいのかよくわからないような指揮をする指揮者と一緒になったときの話でした。例えば、有名なベートーベンの交響曲第5番「運命」の出だしの「ダ、ダ、ダ、ダーン」のところで、指揮者がいきなり指揮棒を振り下ろしたらどうするか。何人かの指揮者の映像がありましたが、このような場面ではどの指揮者も、「さあ、皆さん、いいですかぁ。始めますよぅ、セイノー!」などと(この「セイノー」とは清塚さんがそこで使った言葉なのですが、そう)いう感じで棒を振ってはくれないそうです。打ち下ろされた指揮棒の、その後に続く動きのどこかで、出だしの「ダ、ダ、ダ、ダーン」は始まるのです。日本の有名な指揮者の朝比奈隆さん(19082001年)の指揮の場合には、指揮棒の3回目の動きのときにオーケストラは初めて音を出していました。それにしても、このわかりにくい指揮に従っているというのに、オーケストラの誰一人として音がズレることもなく、皆が一斉に音楽を奏で始めることができるなんて、さすが厳しい訓練を積み重ねてきたメンバーたちの「一致した思い」というか、「以心伝心」は凄いな、と思わざるを得ませんでした。
ところが、です。実際には、そういう「以心伝心」的な面もまったくないことはないのでしょうが、基本的には、どこで楽器が入るかを決めるのはコンサートマスターの仕事である、そして、演奏者全員がそのコンサートマスターの動きを注意深く見ていて、それに合わせて一斉に演奏を始めるのだ、ということがわかったんですね。
長原幸太さんは言ってました。「コンサートマスター業を始めて約20年になるから、今はそんなに怖くはなくなったけれど、始めたばかりのころは、そういう指揮棒に遭うと、怖くてしょうがなかった。みんなオレのこと見ているし、ここで出なくちゃいけないんだろうなっていう勇気と決断と、周りに対する信頼とを皆から要求されて、むちゃくちゃ怖かった。」
それを受けて、清塚さんはこう続けていました。「だから、指揮者が全部をコントロールしていて、オーケストラの皆さんはただそれに合わせて表現してあげているだけ、という感じに見えるだろうと思うけれど、しかし、コンサートマスターやオーケストラだけでも、実は表現や音を作っているという部分もあるのだ、ということになりますね。」
この最後の清塚さんの言葉の意味するところは、とても重要だと思います。なぜならば、キリスト教信仰の領域においても、指揮者とはまさに神さまご自身のことを指していると考えてもよいだろうと思われますが、その上で、すべてはその指揮者なる神さまの意図どおりのことがらが事実として行なわれていくのだ、と私たちは考えがちだと思うのですが、しかし、実際には、神さまは専制君主ではあられず、人間の自由を大いに尊重される方だと思いますから、その神さまの現実のなかには、人間の意志や願望が入り込んできてしまっている、それも悪い意味においてだけではなくて、よい意味においてもそうだ、ということが言えるように思われるからです。
しかし、人間が神のお導きのなかに挿入させることがらが致命的な欠陥をもつということもあります。現に、今日の聖書箇所に見られる現象は、3世紀初頭の『ぺテロの宣教集』(拙訳、『聖書外典偽典・別巻・補遺』教文館、1982年、113165頁所収)を最後に、この地上から姿を消さざるをえなかった信仰形態だったからです。
こうした問題について、しばらくの間、ご一緒に考えてみましょう。

 

 

<説 教> 

 

『ほっと、ひとやすみしよう』  森 崇牧師

  ルカによる福音書6.1-11節(新共同訳、新約聖書p.111

 

イエス様の時代の礼拝とは、安息日と呼ばれ、これは土曜日でした。エルサレム神殿までは遠くて参れないために、各地に会堂が作られてそこで集会を待っていました。イエス様の時代の礼拝では、神の創造の業と救済を覚える礼拝を行なっていました。神の創造とは六日間かけて天地万物をお造りなった神が七日目に全てのわざを休まれて安息なさったことを記念するものです。救済とは、イスラエルの民がエジプトで奴隷状態にあった時に、神によって贖われ(贖いとはキリスト教の用語で買い戻すの意味です)、神の僕モーセを通してエジプトから脱出させたことによるものです。詩篇の中に「恵みと慈しみ」と言う言葉が連なってあれば、これは創造と救済の神を覚える大切なキーワードです。そのような神を覚えるための安息日、そして礼拝の日だったわけなのですが、人々はこれに多くの厳格なルールを定めて、がんじがらめにしてしまいました。今日の聖書にイエスの弟子たちが咎められた理由は、「安息日にしてはならないことをしていた」と言うことでした。麦の穂を積むことは収穫にあたり、手で揉んで食べると言うのは脱穀と食事の準備にあたりました。「安息日に働いてはならない」という規定の細則に違反したのです。
十戒の中に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」との言葉があります。その中に「いかなる仕事もしてはいけない」とあります。そこで人々はどの程度の働きなら良いのか、あるいは何がダメなのか規定を作って押し付けていくようになってしまいました。ですが、本来の安息日に関する大切な教えは、「みんなで休もう」(出エジ20.10)です。あなたもわたしも、女も男も性的マイノリティを持つ人も、幼子もお年寄りも、娘も息子も、牛もロバも馬も羊も山羊も、犬ちゃんも猫ちゃんも、社長も従業員もパートもアルバイトも、日本人も外国人も、日頃忙しい人も、そうでない人も、一緒に「みんなで休もう」「そして、ほっとしよう」と言うことが本来の安息日の意味でした。主は良いお方であるから、そして主も七日目に休まれたのだから、その神様にならって休み、全ての事柄を主は満たし、導いてくださる主に期待して一休みしようと主なる神様が呼びかけてくださったのです。
今日の聖書の箇所を要約して一言で言えば、「人は大切な安息の本来の意味を取り違えている」と言うことです。ファリサイ派や律法学者たちが安息日に関する規定を大切にするがあまり、本来の意味を取り違えていました。ですから、イエス様は最初のやりとりの中で、「聖書を読んでいますか?そしてそれをどのように受け止めておられますか?」と問われるのです。「ダビデと共のものが空腹だった時に、神の家に入って、司祭しか食べてはいけないパンをとって食べたではないか」この問いに関してはもちろん彼らは聖書を知っていたでしょうし、出来事を知ってはいたでしょう。しかし、規則は人の困難には適用されず、困窮するものの必要が最善になされるべきと言う本質を見落としていたわけです。彼らが命をつなぎ、生きていくための必要を、あるいは「生きていて良かった」と言える心の平安を、お与えになることのできる方が、主イエス・キリストです。ですから主イエスはご自分のことを指して、「人の子は安息日の主である」と宣言をされました。言いかえれば、「わたしがほんとうの意味でひとをほっとさせるまことの主なる神である」とのお言葉です。本日はこのイエスとファリサイ派の問答から共に人が持つべきまことの安息について考えていきたいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『神が赦す』  奥村献主任牧師

ルカによる福音書5. 17-26節(新共同訳、新約聖書p.110

 

 

紀元前400年頃にバビロニア帝国の支配から解放されたイスラエルの民は、荒廃したエルサレムに戻ってきました。彼らはそこから神殿を再建し、信仰共同体としての歩みを整えていきました。その中でイスラエルの民は、特に十戒を基本とする律法を守ることを大切にしました。時が流れ、その律法は生活の細かい部分にあてはめられ、かなり細分化されていきました。結果として、幾千もの決まりができていきました。
今日の聖書に登場する「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」は、この律法を遵守することにこそ宗教的な尊さがあるのだという価値観をもった人々でした。
今日の聖書で、イエス様はある家で病気を癒しておられました。そこに中風(体が不自由になる病)を患っている男性を床に乗せて、数人の男たちが現れました。しかしイエス様がおられた家は人がいっぱいで入ることができなかったため、彼らはなんと屋根の瓦をはがして、イエス様の前に床ごと病の男性を釣り下ろしました。そこまでしてこの中風の男性を癒してもらおうとするその男たちの信仰をみてイエス様は「人よ、あなたの罪は赦された」と宣言されました。岩波訳聖書では「人よ、あなたの罪は、あなたには〔もう〕赦されている」となっています。「赦されている」は現在完了形です。当時、病気は本人や両親、または先祖の罪の結果であると信じられていました。しかしイエス様は中風を患った男に、あなたの罪は赦されているのだと宣言をされました。これを聞いた「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」は神様でもないイエスという男が罪の赦しを宣言していることに納得がいきません。彼らは、罪の結果として病を患っている病人が、神ではなく人の宣言によって赦されるということ自体に納得がいきませんでした。しかし、イエス様は次に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(24)と言うと、その男性の病は癒やされました。ファリサイ派の人々と律法の教師たちは、神様を引き合いに出して「神を冒涜する」(21)イエス様を批判しましたが、イエス様は神様の力を受けて目の前の病人を癒し、彼らの常識を打ち崩されました。彼らは律法を遵守することに重きを置いていましたが、そのことによって目の前の大切な事が見えなくなっていました。彼らの目の前には目の前の病を患った人、必死で担ぎ込んできた男たちがいました。イエス様はその目の前の人々をとらえ、うけとめて、神様のわざを成し遂げられました。
 十戒は、神様がエジプトから解放されたイスラエルの民に与えられた契約でした。十戒の本質は愛であり、励ましです。神と人を愛し、平和に生きるようにと神様は十戒を通して人間を励ましてくださいました。しかし時が経ち、律法自体を神格化し、目の前の困っている人が見えなくなっている宗教家たちがいました。宗教的な敬虔さから始まったことも原点を見失うと、いつの間にか他者や自分自身を苦しめます。私たちももう一度、この神様の愛に立ち返り、神様の与えてくださった自由の中で、歩み出したいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『響きわたれ、希望の歌よ』 森 崇牧師

哀歌/ 3 19-24節(新共同訳、旧約聖書p.1289

 

明けましておめでとうございます。2023年が皆様にとって良い一年となりますように。私たちの暦は西暦で、キリストがお生まれくださったとされる年を基準として考えて、2023年を過ごしています。日本にある暦、昭和、平成、令和などは天皇が時の中心とされていますので、基本的にキリスト者はキリストを覚えるという意味で、西暦を重んじます。キリスト教が生まれる母体となったユダヤ教では、ユダヤ暦を採用しています。ユダヤ暦では何を大切にされているかといえば、「主の世界創造」です。今年は西暦で2023年ですが、ユダヤ暦では5784年となります。ユダヤの人々は主の世界創造、創造のわざから自分たちの歴史を見ており、自分たちの時の大切な基準として「天地創造」を見ていることがわかります。私たちはどこを基準として自分の人生の暦を見ておられるでしょうか。
本日の聖書箇所は旧約聖書の哀歌から選ばせて頂きました。この哀歌はイスラエルの民がバビロン捕囚にあい、非常に激しい迫害と隷属生活を強いられていた時代に、エレミヤによって綴られた歌とされています。ですから哀歌を私たちが読む時には目を覆いたくなるような悲惨な状況が綴られています。エレミヤは当時の状況を信仰を持って見つめ、哀歌を記しました。第一から第五の歌までを記していますが、その内第一の歌から第四の歌はヘブライ語のアルファベット22文字からはじまる歌を綴っています。(参照:詩篇119)
今日読まれた聖句はその中でも預言者エレミヤの希望とも呼ぶべき箇所です。特に皆さんと中心に分かち合いたい箇所は22-23節です。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い」という言葉です。とくに22-24節までの段落はアルファベットでH(ヘブライ語でヘート)から始まる詩が続いています。それぞれの節の初めに来るHの単語は何かというと、22節では「慈しみ」を表すヘセド、23節では「新しさ」を表すハダシーム、24節では「受ける分」を表すヘレキーがそれぞれ先頭の単語として連ねています。
私たちは新年にさまざまな新しい希望や目標を立てたりします。人によって書き初めなどをして自分の目標を字で表す人もおられます。この私たちが持つ「新しさ」と聖書が持つ「新しさ」はまた違った意味を持ちます。私たちの新しさが時節的な「新しさ」なのに対して、聖書が言う「新しさ」とは日常生活の中に常にあることを示されます。「それは朝ごとに新たなり」その言葉は、私たちが夜の闇の中から曙を迎えて朝日が登る、その日毎の新しさは、まさに聖書が言う朝ごとに新たな希望です。私たちは聖書の「新しさ」に触れるとき、そしてその新しさに気づかされるとき、私たちの日常がいつも新鮮で、いつも新しく、いつも爽やかな希望に満ちていることに気づかされます。それが聖書の言う「新しさ」です。そして、この「朝ごと」という「朝(あさ)」は創世記1.5節にある創造の初日における朝と繋がります。「神は言われた。光あれ。こうした光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である」
つまり聖書が語る「朝ごとの新しさ」とは、私たちがいついかなる時にあっても、天地万物を造られた創造の初日、「光あれ」と言われた燦然と輝く神の希望の言葉の実現の初日にいつでもあずかることが出来る、と言うことです。これは大変嬉しい言葉です。本日は哀歌から聖書が語る「新しさ」とは何かについて分かち合っていきたいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『心配ないさ』 奥村 献主任牧師

ルカによる福音書 24152節(新共同訳、新約p.104

 

今日の聖書では、ユダヤの慣習に従い過越祭にあわせてエルサレムへ参拝するために出かけた12才の少年イエス様と、その両親マリアとヨセフが登場します。イエス様がお育ちになったガリラヤとエルサレムは100kmほど離れています。ですから、何日もかけてその長い道のりを大勢の人々が移動するという大変な旅だったのであろうと思います。参拝が終わり帰路について、一日たったところで、マリアとヨセフはイエス様がいない事に気が付きます。二人はイエス様の姿を必死で一行の中に探し回りますがどこにも見当たりません。二人がエルサレムに引き返すと、イエス様は神殿で学者たちの真ん中に座り、教理問答の受け答えをしていました。マリアはイエス様に「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(48節)と言います。「心配して」という言葉の原語は「苦痛を感じる、心を痛める、苦しみもだえる」という非常に強い意味をもっています。それほどまでに不安になり、心配したマリアとヨセフの憤りにも似た気持ちが伝わってきます。
ルカによる福音書には「見つける、見つからない、探す」という動詞が多くみられます(失われた羊、放蕩息子など)。また、復活の朝の「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか」(245節)という箇所にも、「探す」という動詞が使われます。この「見つける、見つからない、探す」の動詞はすべて生と死に関わっています。心を痛めるほどに心配していたのだと伝えるマリアにイエス様は「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(49節)と言われます。この「父の家」という言葉の原文には、「家」という意味はありません。英訳(KJV)では“father’s business”となっています。ですからこれは神殿という意味にとどまらず、「神様のもと」「神様の業」という広い意味を含んでいます。神様のみもとにおられ、神様の業をなすのがイエス様であり、それは「当たり前」のこと、神様のご計画で定められたことであるということを意味しています。両親はその言葉を理解することができませんでした。
少し前の箇所で、神殿でのイエス様の献児式でシメオンはマリアに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」(35節)と伝えます。マリアは受胎告知を信仰をもって受け止め、イエス様の母親となりましたが、完全で持続的な信仰を手に入れたわけではありませんでした。むしろ何度もイエス様と出会い直して、信仰の問い直しを受けました。今日の箇所でもまさに、「心を差し貫かれ」た気持ちになったかもしれません。
家族や民族の絆をも超えて神様の業を担われるイエス様、神様のもとにおられるイエス様。そのイエス様を私たちは信じて歩んでいるでしょうか。人の理解や想定、人間の定めた枠組みを超えて、神様のご計画はイエス様を通して私たちに示されます。神様のもとにおられるイエス様が、いつも私たちを先立って導いてくださいます。新しい年、この時に私たちは祈りつつ恐れずに、そのイエス様を信じて歩み出したいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『難民による福音』 森 崇牧師

マタイによる福音書 54445節(新共同訳、新約p.8

 

救い主イエスさまの誕生を心から喜び祝います。救い主イエスさまは聖霊によって神から、おとめマリアを通して生まれ、肉によればダビデの子孫としてヨセフの下で生まれ、神の約束の実現として生まれました。しかし、この家族は幼少期を難民として生きなければなりませんでした。それは、ヘロデ王のねたみのために、この周辺の 2 歳以下の男の子が虐殺されていったためです(マタイ 2 16 節以下)。ヨセフとマリアと幼子イエスは天使の御使の守りの中で逃避行をし、危機から逃れる日々を重ねました。マタイによる福音書だけが記すこの出来事は、救い主イエスが実は遠い異国の地エジプトに逃れざるを得なかった難民であったと言うことを示しています。主イエスはその失われていった子どもたちのいのちを背負い、その叫びと苦しみを主イエスを通して伝える使命に立たされたということです。

難民として生きられたイエスさまの語られた良き知らせ福音には大きく三つのことが語られていると思います。

ひとつは「ー神我らと共におられるーインマヌエルはどこまでも」と言うことです。イエス様はインマヌエル、神は我々と共におられるという旧約聖書の預言者を通して言われていたことの実現だとそのように言われました。

難民として生きられたイエスさまの語られた大切な言葉の二つ目として、「あなたの敵を愛し、迫害するもののために祈りなさい」という言葉があります。迫害してくる敵をやっつけるのではなく、愛しなさいと教えられた難民として生きたイエス。それは逃げざるを得ないほどの苦しみを受けた人々が、逆に迫害するものを愛していくという道を選び取りなさいとの勧めです。その生き方こそはまさに「平和を実現するものは幸いである」と言われた生き方でした。暴力を連鎖させるのではなく、自分が受けた傷をもって、傷つける相手を愛し、祈る。そのように生きなさいと勧めます。

難民となられたイエスさまの大切な教えの三つ目は、天の父の完全性を追い求めなさい、と言うことでした。主なる神様は善人にも悪人にもあめをふらせ、義なる太陽を登らせて下さる。神様は人を差別されない方です。いのちに優劣をつけず、すべてのいのちは愛されている、その完全性をあなたがたも追い求めなさいと言われます。

救い主イエスさまは、マタイによる福音書の終末における講和の中で、ご自分が最も弱くされたものの中にいることを示されました。「その時、義人たちは彼に答えて言うであろう、主よ、いつ私たちは、あなたが弱っておいでのところを、あるいは獄においでのところを見て、訪れましたか。そして王は答えて彼らに言う。アーメン、あなた方に言う。これらのもっとも小さい者たちの一人に対してなしたのは、私に対してなしたのと同じことである」これらの言葉は、まさにイエスさまがもっとも弱く、小さいものの中にご自身がおられることを指し示したものです。そして小さき者の中にある主イエスの臨在があったのだと顕かになるその時、そのことは神の最終的な来るべき王国の実現の時に顕になる、と言うことを表しています。すなわち、その主の王国とは来るべき時に実現するのではなく、今生きている私たちの只中で実現しつつある、だからこの地において、貧しく、弱くされたいのちと叫びに連帯せよ、と呼びかけられています。

本日は難民として生きられた主イエスの生き方と言葉を、マタイによる福音書からその生涯を解き明かしたいと思います。願わくは、このメッセージを通して全ての苦難の中におられる方々が、主イエスと共に生き、主イエスによって全ての苦しみを担われ、主イエスによって復活の力が備えられて新しい一年を歩まれますように、と願います。平尾教会の愛する神の家族がとこしえに主の愛の中で歩まれますように。

 

 

<説 教> 

 

  『このめぐみと痛みを』 奥村 献主任牧師

   ルカによる福音書 13945節(新共同訳、新約p.100

 

アドベントの第三週を迎えています。クリスマスに向かうこの時期に、京都の清水寺で日本漢字能力検定協会の選ぶ「今年の漢字」が発表されました。2022年の漢字は「戦」であるとのことです。この「今年の漢字」は、公募によって決められるということですが、「戦」という漢字が多く選ばれた背景には、ロシアによるウクライナ侵攻が人々の心に影を落としているということがあるのだろうと思います。この戦争がはじまって、10ヶ月が経とうとしています。日本でも防衛費をめぐるさまざまな議論がなされています。アドベントのこの時、私たちはどこにビジョンを置くのかということを考えながら、主の平和を祈り続けたいと思います。今日の聖書では、み使いから受胎告知を受けたマリアが、同じく受胎告知を受け、妊娠しているエリサベトに会いに行きます。新共同訳聖書で39節からの箇所の小見出しに「マリア、エリサベトを訪ねる」とありますが、本田哲郎訳の聖書ではこの小見出しは「不安いっぱいのマリア、痛みを知るエリサベトを訪ねる」となっています。高齢になるまで子どもが与えられなかったエリサベトは、周りから「不妊の女」とされてきました。また、マリアは若くして婚前に
妊娠をするという、当時の常識では「ありえない」とされるような状況をかかえていました。二人はそれぞれに、男性中心社会の中で傷つき、痛みを知る者として生きていました。み使いの受胎告知によって、神様のご計画に用いられたことを知った二人は、今日の聖書でその喜びを分かち合います。ナザレに住んでいたマリアは100km以上もはなれたエルサレム近郊に住むエリサベトの家を訪ねます。二人が会うと、マリアの挨拶を聞いただけでエリサベトの「胎内の子がおどった」(41節)とあります。
社会から弱い立場に追いやられ、同じ痛みを知った者同士が喜びを持ち寄って分かち合う時、躍り上がるほどの喜びが与えられます。二人は自分たちではどうすることもできない理由で、社会の中で苦しめられていました。しかし二人は神様が自分に目を留めてくださっていることを知りました。
私たちはいろいろなものに縛られて、まわりの目を気にしながら生きています。しかし神様は、その大きなご計画の中で一人ひとりに目を留め、私たちをしめつけるさまざまなものから解放してくださるお方です。
今日の聖書では男性中心社会の中で痛みを覚えてきた二人が出会い、互いに幸いであることを心から喜び、神様を讃えます。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」(45節)とあります。必ず実現する神様のご計画を信じること。すでに始まっている神の国を信じて歩むこと、それは信仰者一人ひとりに与えられた特権です。
今日の聖書には、男性が出てきません。二人を苦しめた原因とる社会を作り出した人々が出てきません。マリアとエリサベトが喜び合う今日の聖書を、私たちは単なるハッピーエンドや喜びのはじまりという読み方だけで終わらせたくないと思います。
私たちの社会にも、様々な偏見で苦しむ方々が多くおられます。その痛みの只中にこそ、イエス・キリストはお生まれになりました。主の公正を信じて歩むこと、それは私たち一人ひとりを平和を作り出す生き方へと招きいれます。アドベントのこの時、希望の源、平和の主であるイエス・キリストのご降誕を心から待ち望みたいと思います。

 

 

<説 教> 

 

『マリアの信仰-汝の言のごとく、我になれかしー』 森 崇牧師

ルカによる福音書 1章26-38節(新共同訳、旧約p.100

 

「主なる神様はあなたに特別な計画を望んでおられます」と私たちが告げられたならば、私たちはどのように答えることが出来るでしょうか。信仰深く、神の前に正しく歩んだ老夫婦であるザカリアは、主の前に道を備える先駆者ヨハネの誕生の知らせを、このように言って退けます。「何によって、わたしはそのことを知ることが出来るのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年を取っています」本日お読み頂いたヨセフのいいなずけであったマリアは、ザカリアとは違い、若く、幼く、そして女性でした。聖書では主なる神やみ使いの顕現が男性に多く現れますが、ここではマリアという女性に天使が現れます。ザカリアとマリアは其々対称の人として書かれているように思われます。「老人×男性×信仰深い」ザカリアに対して、「幼さ(結婚が出来るほどの女性×不信仰」マリアというレッテルが当時の社会にはあったのかもしれません。その証拠にマリアは自分のことを「身分の低く」「はしため(女奴隷)(48)と言っています。マリアのイメージはキリスト教会では「清純/潔白/無原罪(罪がないこと、カトリックの教義)」とされていますが、わたしはそうは思いません。どこにでもいる、普通の女性であり、むしろ社会的な地位は著しく低く、生活の労が絶えない、服も泥で塗れた女性であっただろうと思います。そのマリアにみ使いは現れて告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と。マリアはこの言葉に戸惑い、胸騒ぎを覚えます。天使は言葉を続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」み使いがマリアに告げた恵みとは大きく二つありました。新共同訳聖書では訳出されていませんが、31節と36節に「見よ」という言葉があります。31節では「主は救いたもう」という名を持つイエスが聖霊によって宿り、生まれる子が聖なるもの、神の子と呼ばれることが告げられます。これはダビデ王の子孫から世をとこしえに治める油注がれた王の誕生が神によって約束されていました(サムエル712、詩篇8929)が、その実現でした。36節では高齢であった親族エリサベトの出産が告げられています。「神の救いの約束の実現」と「神にできないことは何一つない」という二つをマリアは示されて、マリアは自分の人生を主にあるものとして主に明け渡していくことになります。それはすなわち、「はしため」から「主のはしため」に変わることでした。当時、女性は汚れを持つ存在とされ、子どもと共に数にも入りませんでした。その女奴隷であったマリアが、「あなたの言葉通り、私になりますように」と言います。これはこの後にザカリアの妻エリサベトが言う「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は何と幸いでしょう」という帰結です。
神様の救いの約束、そして主なる神の特別な計画は、信仰深く正しく生きてきた人々の不信と、またそれとはまったく関わりなく生きてきた純粋な神の言葉への信頼と受容の中で進んでいくことを知らされます。クリスマスは多くの不思議が起される時です。私たちはマリアの信仰、「あなたの御言葉がわたしの人生になりますように」との思いを持って、このクリスマスの時を迎えていきましょう。

 

 

 

 

<説 教> 

 

『あなたを心に留める神』 奥村献主任牧師

ルカによる福音書 1章13-5節(新共同訳、新約p.99)

 

今日の聖書はバプテスマのヨハネの誕生の予告の場面です。バプテスマのヨハネは、イエス様以前にユダの地にいた唯一の預言者でありました。彼はイスラエルの民を救いに導くため人々に説教をして、悔い改めのバプテスマを多くの人々に授けました。彼はまさに、イエス様にバプテスマを授けた人物です。
 今日の聖書で、天使から誕生の予告を受けたのはザカリアという祭司でした。彼にはエリザベトという妻がいました。二人は高齢であり、こどもがいませんでした。

彼らは「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。」(6節)とあります。当時、祭司はエルサレムに二万人ほどいたとされています。ザカリアがくじを引いたところ「主の聖所に入って香をたく」(9節)奉仕を彼が担うことになりました。ここでザカリアは一生に一度あるかないかの役割を与えられ、恐らくは大変な緊張の中で香をたいていたことだろうと思います。そこに天使が突然現れ「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と告げられます。そして天使はその子ヨハネはイスラエルの民を救う者となるといいます。彼は大きく混乱します。これまでこどもが与えられず高齢になり、こどもを持つことを願いつつも、おそらく彼は同時に心のどこかでそのことをあきらめていたのかもしれません。彼は「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と答えます。彼は自分の状況や経験から判断して、天使の予告していることを全く信じることができません。ましてや、そのこどもがイスラエルの民を救う者となるなどということは、容易に理解して信じられるものではありません。私たちが仮にこのザカリアと同じ立場であっても、ここで天使から示されたことを信じ、受け入れることはできないだろうと思います。これから起こることを考える時、私たちは判断基準として、今の状況や経験を考慮するのは当然のことです。たとえ自分が願い求めていたことが叶うという予告であったとしても、目の前の現実が優ります。「いや、そうは言っても」と慎重に考えてしまいます。しかし、神様は私たちの想定や想像をはるかに超えるご計画を示してくださるお方です。ヨハネ誕生の予告。この出来事は、ザカリヤとエリザベトの二人だけ、この家庭だけに起こった喜びの出来事ではありません。神様が民全体に示してくださった出来事です。
天使の言葉を信じることができなかったザカリアはヨハネが生まれるときまで口が利けなくなりました。アドベント第一週のことのき、私たちの心の中にある現実的な不安や恐れなど、様々なつぶやきをしばし静めて沈黙し、クリスマスを待ち望みたいと思います。エリザベトは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(25節)と言いました。人間社会が「恥」としていることから私たちを解放し、恐れや不安を取り除いてくださる神様が今日も私たちに目を留めてくださっています。
その神様に信頼して、今週も歩み出したいと思います。

 

 

 

<説 教> 

 

『御言葉の成る時に生かされて』 森 崇牧師

ルカによる福音書 4章16-22節(新共同訳、新約p.107)

 

 

おはようございます。本日は世界祈祷週間の礼拝を共に捧げています。世界祈祷週間とは、国外伝道を覚えるひと時です。日本バプテスト女性連合が呼びかけを行い、今海外に派遣されている宣教師や国際ミッションボランティアなどの働きを支え、送り出す役割を担っています。現在、ルワンダに佐々木和之国際ミッションボランティア、インドネシアに野口日宇満宣教師、佳奈宣教師、カンボジアに嶋田和幸宣教師、薫宣教師を派遣し、またシンガポールやタイとも宣教の協力関係があります。2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、世界バプテスト連盟の繋がりの中でウクライナへの支援と難民の方々への支援も行われています。
私たちの平尾バプテスト教会では協力宣教師として覚えられている嶋田和幸宣教師、薫宣教師が連盟の宣教師としてカンボジアに派遣されています。連盟の諸事情により、カンボジアへの連盟の宣教師派遣は今年度で終了となりますが、ご本人たちはカンボジアに留まってカンボジアの人々の中で神様がなされる宣教のわざに仕えたいと願っておられます。このことのために、主がすべての面で彼らの必要が備えられるよう、また道が開かれて整えられていくことを心から祈りたいと思います。
本日の聖書の箇所で、「貧困からの解放」として救い主イエスさまが立ち上がって下さったのだと言うことを知ることができます。今日から来年4月までルカ福音書を読み解くことになります。今日の聖書の箇所はイエス様の宣教の始まりの日であり、同時に主イエスによる神の国の宣教の旅立ちの日と言えます。
イエスさまは郷里ナザレで育ちました。この地方のことをガリラヤと呼びますが、ガリラヤは辺境の地と呼ばれていました。ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」とも呼ばれますが、この地は偏見や差別、あるいは社会的・経済的抑圧がありました。イエスさまはそのようなガリラヤの最も低くされた底辺の地ガリラヤから宣教の活動をなされることとなりました。聖書には「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の影の地に住むものに光が差し込んだ」(マタイ4.15-16)とあります。まさにイエスさまは暗闇の光であり、貧しく地に横たわるものの光としてこの世に来られました。イエスさまは貧しい者への福音ー良き知らせを告げ知らせるために、主の霊を受け、主の聖霊に満たされて立ち上がることになります。
18-19節はイザヤ書61章の言葉です。18節にある「主がわたしに油を注がれたからである」とある「油注ぎ」は、もともとは祭司・預言者・王の就任時になされる行為でした。イエスさまはここで自分が長い間人々が待ち望んだ神と人とをとりもつ祭司、神のみことばを余すことなく伝える預言者、貧しいものの声を聞き、神の義を実現する公平と公義を司る王として、主より油注がれたものであることを自覚し、自分こそが油注がれたメシアであることを伝えました。

 

 


「油注がれたもの」とはヘブライ語でメシア、救い主を意味しますが、ギリシア語ではキリストとなります。イエスはキリスト(救い主)である、とは、過去何百年、何千年と待ち望んだ救い主メシアがイエスであると言う告白です。それは人々にとっては遠く思えた神の救いの言葉の、実現の時でもありました。
世界伝道に向けて眼が注がれるこの礼拝のひと時に、宣教師たちが行っている宣教活動のスピリットを、今日の聖書個所から共々に知らされていきたいと願います。

<説 教> 

 

『喜びはかなたまで』 奥村献主任牧師

ネヘミヤ記 12章 43-47節(新共同訳、旧約p.760


 これまでイスラエルの民は、敵の脅迫や妨害にあいながらも、なんとか最後で城壁を完成させました(6章)。そこでまず彼らは、モーセの律法の朗読を皆で聴き、新しい共同体としての歩みをスタートさせました(8章)。モーセの律法の朗読を聴き、その意味を咀嚼しながら律法に向き合うことで、彼らは自分たちの歩みを見つめ直しました。そして、その罪の重さに悲しんで涙を流す者もいました。しかし、エズラとネヘミヤはそこで「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」(7:10)と民に伝えます。この「主を喜び祝うこと」という言葉の原意は、「主にあっての喜び」を意味しています。まさにここで、主にあっての喜びを分かち合うこと、信仰共同体の礼拝が復興されました。そして、
今日の聖書12章は、の城壁の奉献式の場面です。43節には「その日、人々は大いなるいけにえを屠り、喜び祝った。神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。」とあります。この節には「喜び」という意味をもつ語が、動詞・名詞あわせて5回繰り返されます。城壁を神様におささげするこの奉献式で、民の喜びはまさに最高潮に達しています。民はさまざまな楽器を用いて、合唱団を編成し、神様に賛美をささげます。
ここまでの歩みの中で、様々な困難の中にあってもイスラエルの民を守り、イスラエルの民をここまで導いたのは他でもない神様でした。そして「神は大いなる喜びをお与えになり」とあるように、この奉献式における民の喜びも神様がお与えになりました。  この城壁の奉献を境に、以前のようにイスラエルの民は礼拝を捧げることが可能になります。しかし彼らは、以前とは全く違う信仰共同体へと作り変えられていました。祭儀の執行が以前のように行われるようになり、以前のように祭司やレビ人がその祭儀に責任を持つようになりました。それと同時に、民もまたその祭司やレビ人の生活に責任をもっていくという姿勢が確立されたのでした。城壁を物理的に再建し、ただ喜ぶということを越えて、イスラエルの民は全く新しいより強固な信仰共同体へと変えられて、その歩みをはじめました。 私たちの教会も、主にあっての喜びを分かち合い、神様に礼拝を捧げる信仰共同体です。礼拝を捧げるためには多くの皆さんの奉仕が必要です。そして教会という信仰共同体が毎週礼拝を捧げ続けるためには、もっと多くの皆さんの祈りと支えが必要です。私たちが今連なっている教会は、多くの信仰の先達方が整えてくださった信仰共同体であり、私たちはその共同体の命の続きを生きています。その始まりから今まで、神様の守りと導きがあったということを私たちは忘れずにいたいと思います。
クリスマスが近づいています。123日にはJoy to the World -クリスマスの調べ- というクリスマスコンサートが大名クロスガーデンで行われます。神様がこの世界にイエス様を送ってくださいました。それは私たちに救いの道を示すためです。 そのことをこの時に、心からこの時に喜んでいたいと思います。「エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた」(43節)。私たちも主にあるこの喜びを、この世界に告げ知らせる器として、歩んでいきたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

 

 『問いかけはいつも開かれるためにある』 原田仰神学生

          ルカによる福音書1322-30節(新共同訳、新約p.135

 

聖書は時々、厳しい言葉を与えます。とは言え、箇所と読み方によっては自分の敵対する勢力に対する言葉として読み取ることもできます。敵対する相手が厳しく言われている時は何となくスカッとした気分を味わうこともありますし、それを反面教師と捉え、自分たちの道を見出すこともできるでしょう。しかし、厳しい言葉がいざ、自分に向けられているとすればどうでしょうか。それは私たちの、それまでの、そしてこれからの在り方・歩み方に重大な問いを投げかけます。いざ、自分がそちら側に立つと、とてもしんどい思いをすることもあるでしょう。特に、その時の働きが「絶好調」にある中で、問いかけを受けることは、しばしば気が乗らないことでしょう。しかし、私たちはそういう時にこそ、真剣に向き合わねばなりません。なぜなら、聖書が我々に問うてきているとするならば、それはとても重大なことであり、そこから新たに私たちを導き出そうとしているのですから。たとえ目に見える変化は少なくとも、問いに向き合った先、問いに答えた先にある在り方・歩み方はそれ以前より深いものになります。「問い」というのは、それまで自分にはなかった視点からのアプローチだからです。問いを経た時、私たちの目はさらに開かれたものになるのです。そして本日の箇所も厳しい言葉が語られています。今回、イエス様ご自身が対象としているのはユダヤ人たちであると思われます。ただ、このユダヤ人たちへの問いかけが、今の時代を生きる私たちにも向けられるとしたら、それはどのような響きを持つのか。本日は、ご一緒に聖書から問われていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 <説 教> 

 

『再建への召命-わたしをお遣わしください』 森崇牧師

         ネヘミヤ 21節~5節( 新共同訳 新約 p.739

 

おはようございます。先週は特別礼拝で講師に坂東資朗先生をお迎えしました。多くの教会員、そしてまたそこには久しぶりに教会の礼拝に足を向けてくださった方々もおられて、教会の交わりがより豊かになりました。やはり教会に多くの礼拝者が与えられるのは大変な喜びです。坂東先生は「どうする?次の一歩 -ウイズ&アフタ-コロナの歩みを照らす聖書-」という題でお話しされましたが、私が特に印象に残ったのは三つの愛を大事にするというお話でした。「愛をもって相手を察する挨拶」「哀しみの哀にも目を向けていく」「わたし()という存在を大切にして、それをまわりへの視点をもって」ということを話してくださいました。この時代の中にあって、人と人との関係性がどうしても希薄に成りがちですが、それでもこの世にあって、新しいチャレンジをもって生きなければならないという勇気と励ましを与えられたと思います。
さて、本日の聖書の箇所はネヘミヤ記からになります。ネヘミヤ記の内容はエルサレムの城壁の再建とモーセの律法を再び公布し、信仰共同体が再び建て上げられる二つの側面の再建がテーマとなっています。70年間続いたバビロン捕囚から解放された人々がエルサレム神殿を再建したというのが、前のエズラ記ですが、ネヘミヤ記では人々がエルサレムで安心して生活することができるように、その城壁を再建し、また人々の信仰そのものを再び建て上げていく内容となっています。
ネヘミヤという人はどのような人だったのでしょうか。ネヘミヤは「主は慰めてくださる」という意味の名をもっています。長らく続いたバビロン捕囚の中で生まれ、両親が主の慰めと顧みの時を願ってつけられた名であったことでしょう。
ネヘミヤは祖国から遠く離れたところで生活をし、そしてペルシアの支配する国の中で王の献酌官として仕えていました。献酌官とは王に差し出す杯をまず毒見をして、差し出す役割の人ですが、この位は大変高位なものでした。現代では総理大臣の秘書のような人でしょうか。
ネヘミヤはその働きを行うときに、どんな暗い表情もすることはありませんでした。しかし杯を王に差し出していた時に、王がネヘミヤの機微を察することとなります。「あなたは暗い表情をしている。何か心に悩みがあるのか」と。そこでネヘミヤは大いに恐れて王に告げます。「どうぞ王が長生きされますように。私の祖先の街が荒廃し、その門が火で焼かれたままであるのに、どうして暗い表情をせずにはいられましょうか」すると王は「それでは、あなたは何を願うのか」と問います。ネヘミヤは天にいます神に祈って、王に答えます。「もし王がよしとされ、しもべがあなたの前に恵みを得ますならば、どうかわたしを先祖の墳墓の町につかわして、それを再建させてください」
ネヘミヤのこの決意は、大変大きな決意でした。自分が今住んでいる国で、重役としての働きがあり、何不自由ない暮らしができていました。それにもかかわらず、その充実した暮らしを置いて彼を新しい使命と働きに駆り立てたものはなんだったのでしょうか。
本日はこのネヘミヤの召命と献身の物語をともどもに味わっていきたいと思います。

 

<説 教> 

 

『どうする次の一歩-ウイズ&アフターコロナの歩みを照らす聖書』 

坂東資朗師

         マルコによる福音書21節~5節( 新共同訳 新約 p.63

 

 5歳の時、はじめて聖書に出会って、もうすぐ50年-こんなに長いつきあいになろうとはそして現代に必要なことを教えてくれる書であるとは。多くの言葉、物語がある中、床にのせられたままイエスさまの前につり下ろされた病者のいやしの話は、きれいな聖画と共に幼心にしっかりきざまれ、折に触れて思い出してきました。脳内出血の後遺症のため不自由の中にある友を放っておけない-4人の友達は、病気の友を床に寝かせたままイエスさまがみ言葉を語っておられた家を目指します。たどり着いたものの「戸口の辺りまですきまもないほど」の「群衆に阻まれ」(24節)たため、屋根をはがして穴をあけ、つり降ろした!-なんとも非常識で乱暴な話ですが、状況が整っていない、何か障害となる事情がある時でも、あきらめない、大胆さも大切だ、ちがう入口や方法を考えてみよ!と幾度も励ましやヒントを受けました。「イエスはその人たちの信仰を見て」(5節)-イエスさまの歩みと言葉を伝える4つの福音書の内、最初に書かれたマルコ福音書に登場する最初の「信仰」が自分ではないほかの人の幸せを願った人たちの行動を含むものであったことはとても大切なことを教えていると思います。「子よ、」(5節)とは、体の痛みの上に、病者を神から天罰を受けた者として差別する人々の目や言葉という「二重に加えられ、深くされた苦しみ」から彼を解き放ち、ご自分から傷ついた者の居場所となられるイエスの呼びかけです。聖書を読む、信じるとは、このイエスの愛と関わりの中に生かされている自分に気づき、自分のためだけではなく、他者のために祈り・関わる歩みへの招きを生きることを意味します。コロナによってさらに加速された感をぬぐえない、社会を覆う不安に対する解決のヒント・励ましを聖書に聞き、ウイズ&アフターコロナの社会へと踏み出していきたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

 

『主によって整えられる』 才藤千津子協力牧師

         エズラ記815節~20節( 新共同訳 旧約 p.733

 

2019年末に新たに発生し、2020年初頭以降、世界中に広がった新型コロナの流行を、感染予防に携わる人たちは「災害」だと表現します。確かに、日本中いや世界中が「コロナ感染災害という危機」の中にあったと言えるでしょう。コロナ危機は、人と人との対面での繋がりを限りなく不可能にしました。多くの人が、感染予防のために「人と会えない」「触れ合えない」ことで辛く孤独な思いをしました。この間、愛する家族や友人が天に召されても、抱き合って悲しむことは許されませんでした。共に食事をするのが難しい状況の中で、私たちは、まさに魂の食物に飢えていました。
しかし、その3年目も終わろうとしている今、新たな出発の時が少しずつ近づいているように思われます。流行が完全に終息するにはまだ当分かかると思われますが、コロナを経験した世界で今後どう生きるべきかという道が少しずつ見え始めたというところでしょうか。これからも、私たちは、何度も上がり下がりを経験しながら、コロナと共存して生きてゆく道を探ってゆくのでしょう。これは、新しい始まりの時です。
さて、私たちは、10月は旧約聖書の「エズラ記」を読んでいます。イスラエルの人々、いわゆるユダヤ人たちも、何度も大きな民族の危機を経験しましたが、エズラ記では、紀元前6世紀から5世紀にかけて、バビロンからエルサムに帰還した人々が、苦労しながらどのようにエルサレム神殿を再建したかを学んできました。
今朝の聖書箇所の直前、エズラがエズラ記7章で登場した時には、神殿完成の喜びの場面から一転し、時は60年以上たったことになっています。当時エズラは、ペルシア宮廷の顧問として働いており、エルサレムの秩序正常化のために、ペルシア王によってエルサレムに派遣されたのです。ここでは、信仰共同体の再建といった、信仰の新しい出来事の始まりがテーマになります。そして、エズラは、様々な困難の中、「慈しみ深い神の御手がわたしたちを助けてくださり」(エズラ818)という言葉を繰り返します。神の御手によって、礼拝、ひいては信仰共同体を再建するのに必要なものが整えられていくのです。
私たちは、今、コロナ危機後の世界でどのように信仰共同体を再建してゆくかという課題を与えられています。今朝は、エルサレムでの礼拝共同体の再建という使命を与えられたエズラから、主が整えてくださるという感謝と喜びを学びたいと思います。
 

 

 

<説 教> 

 

『つくり変えられて』 奥村献主任牧師

            エズラ記6章13節~22節( 新共同訳 旧約 p.730

 

ユダヤ民族の多くは、バビロニアによってユダの地を追われ、異国の地に住まわされました。バビロン捕囚です。ユダヤ民族は祖国を追われ、神殿を破壊されました。それは民族のアイデンティティを失うに等しいような出来事でした。バビロニアの支配のあと、ペルシャの支配が続きます。そこで神様がペルシャの王キュロスの心を動かして、神殿復興のために帰国せよとの布告が出されます(エズラ記11節)。3章で感激のうちに定礎指式を終え、エルサレム神殿の再建が進み始めるのです。

ユダヤ民族からすると自らの民族性を取り戻す上で、神殿復興の出来事は、この上ない事であったはずでした。しかし、実際のその道のりは大変困難なものでした。そもそもこの時、バビロン捕囚が始まってから70年も経っていたので、捕囚の地での生活がなじんでしまったユダヤ人も多くいました。そのため、キュロス王の呼びかけに答え、神殿再建のためにエルサレムに帰国した者は多くありませんでした。よく考えてみると、ある程度安定した生活を捨てて、荒廃したエルサレムへわざわざ返ろうと思った人が少なかったのも当然かもしれません。そんな中で始まった神殿の再建ですがさらに、ユダヤ人らの帰国をよく思わないサマリヤ人や地元の人々によって上訴文がだされ、神殿再建の工事は中断させられました(4章)。

今日の聖書で、ついに神殿が完成しました。幾多の試練を乗り越えて到達したこのエルサレム神殿の完成の出来事は、ユダヤ人たちにとってこの上なく大きな喜びであったことは言うまでもありません。彼らはここで、神殿の完成を喜び祝うだけに終わりませんでした。16節に「喜び祝いつつその神殿の奉献を行った。」とあるように、神殿の完成を受けて、その事を何よりも神様に感謝しつつ、たくさんの捧げ物をしました。大きな事を成し遂げたという成果を自分たちだけのものにせずに、まず神様に 心を向けて感謝を捧げたのでした。

21節には「捕囚の地から帰って来たイスラエルの人々も、イスラエルの神なる主を尋ね求めて、その地の諸民族の汚れを離れて来た人々も皆、過越のいけにえにあずかった。」とあります。捕囚からの帰還者と、捕囚の間ユダの地に残っていた神様に心を向ける者がひとつとなって、過越祭を祝ったのでした。

イスラエルの民は、バビロン捕囚という出来事を通して、結果として新しい共同体を建てあげました。ユダの地を一度離れ、異国の地で過ごす中で、イスラエル民族の歩みを捉え直し、「土地」や「建物」や「成果」ではなくまず神様に心を向ける事でここから歩み出そうとしたのでした。

22節には「主がアッシリアの王の心を彼らに向け、イスラエルの神の神殿を再建する工事を支援させて、彼らに喜びを与えられたからである。」とあります。すべての出来事は、神様が王の心を動かすことから始まり、神様が神殿再建を支援し、神様が喜びを与えてくださったのです。このことを心にとめ私たちも歩み出したいと思います。

私たちはコロナの状況の中で、様々なことを断念しながら、これまでとは違う教会の歩みを進めています。教会の「これまで」を早く取り戻したいと願う気持ちも強く湧いてきます。しかし私たちはこの時に、教会の本質に立ち返り、ひとつひとつを確認しながら選び取っていきたいと思います。私たちが神様に心を向けるとき、神様が心を動かし、支援し、喜びを与えてくださることでしょう。

 

 

 

<説 教> 

 

『初めに言があった』  奥村献主任牧師

         ヨハネによる福音書 1 1-5節( 新共同訳 旧約 p.163

 

 

今日は召天者記念礼拝です。先に天に召された平尾バプテスト教会に連なる方々、信仰の先達方をおぼえ、記念する礼拝を今年もささげることができることを心から感謝いたします。
召天された方々のご家族をはじめ皆さんの中には、今も近しい方々が天に召されたということに、寂しさや痛みをおぼえておられる方がおられることだろうと思います。
死は、生きている人間にいつか必ずおとずれるものですが、近しい方々とのお別れは実に悲しいものです。そして、人間の心では抱えきれないと思えるほどの心の痛みが伴います。私たちは死という決定的な別れの出来事を間近に経験して、深い悲しみをおぼえます。そのたびに「死とは何か」「なぜこの人がこの時に」といった問いが心に湧いてきます。死とは誰もが経験することであるにもかかわらず、人間にとって実に不可解なものです。
しかしよく考えてみると、そもそも「人間が命を与えられ、今生きている」ということも不思議で不可解な事柄であります。私たちはなぜ命を与えられ、この短い人生を生き、その中で出会うのでしょうか。
教会もまた、とても不思議な存在です。目に見えない神様を信じる人々が、共同体を形成し、教会堂を建て、毎週礼拝を捧げています。教会に連なる人々は、信じることや礼拝することを誰かに強制されるわけではありません。召天者のお一人お一人も、それぞれの人生の中でこの教会に出会い、共に歩みました。そして今日、その先に召されたお一人お一人のことを私たちはこの教会の礼拝でおぼえています。それは実に不思議な出来事であります。それぞれの信仰と、思いがこの共同体を形成しています。この教会には、教会に連なるお一人お一人の思いが隅々までつまっています。そして今日も、何かに突き動かされてこの共同体は存在し続けています。
今日の聖書には「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」(1,2節)とあります。岩波訳聖書では「はじめに、ことばがいた。ことばは、神のもとにいた。ことばは、神であった。」と訳されています。この言(ことば)とはイエス・キリストのことを指しています。この世界、歴史がはじまる前、すべての事柄に先駆けて、イエス・キリストがあったのだと今日の聖書は語っています。2000年前にこの世界で人として生きたイエス・キリスト。すべての初めにはイエス・キリストが「いた」のです。教会はこのイエス・キリストからはじまり、このイエス・キリストに突き動かされる群れです。イエス・キリストからはじまった教会は、今もイエス・キリストの出来事の中に置かれています。
教会という不思議な存在の中心点にはいつもイエス・キリストがいます。14節には「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とあります。イエス・キリストは私たちの間に来られました。世の多くの支配者とは違い、イエス・キリストは圧倒的な力で人々を支配し、従わせるような方ではありませんでした。弱さや限界をもつ人間(肉)の形をとり、イエス・キリストはこの世に来られました。そして、この世で苦しむ人々と共に歩まれました。
私たちが召天者と出会った教会、信仰の先達方が大切にしてきたこの教会という存在は、そのイエス・キリストの徹底的な愛の出来事の中にあります。
5
節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」とあります。すべての歴史の始まりにはイエス・キリストがおられました。しかし、私たちが歩むこの世界は完全ではありません。「暗闇」とも言えるような、胸を痛める出来事が世界中で起こっています。その「暗闇」は私たちの中にも存在するのかもしれません。しかし、まさにその暗闇の只中にこそ、光が輝いているのだと今日の聖書は語ります。
私たちはいつか人生を終えます。そのことに不安や恐怖をおぼえている方も多くおられるかもしれません。誰にとっても死は怖いものです。しかし私たちがどのような暗闇の中を歩もうとも、どのような時代にあろうとも、人間に徹底的な愛を示してくださったイエス・キリストに倣いながら歩んでいきたいと思います。
召天者記念礼拝のこのとき、召天者のお一人お一人が、永遠なる神様のみもとで平安の中に置かれていることを心から願います。

 

 

<説 教> 

 

『神に心を動かされて』 森崇牧師

             エズラ記 1 1-6節( 新共同訳 旧約 p.723

 

 

皆さんの感動体験はなんでしょうか?どんな感動体験があるでしょうか。大小様々な感動体験が皆さんにきっとあると思われますが、時に感動体験は自分の人生を大きく導くこともあるものが少なくありません。
 ペルシャのキュロス王は、ある時に主によって心を動かされ、エルサレム神殿の再建を目指すこととなりました。キュロスの「心を動かされる」体験は口語訳聖書では「主によって感動された」としています。キュロス王の心のうちにどのような感動があったのか、それは明確ではありませんが、私はこの時に異邦人の王であったキュロスの心のうちに、聖霊の導きと満たしがあったのだろうと確信しています。キュロス王の心の内に与えられた思いは、ユダのエルサレムにある神殿の再建への思いでした。神の民は長かったバビロン捕囚から70年の時を経て解放されていました。キュロス王は人々に「奴隷となっていた地より、主の神殿を建て上げるために立ち上がりなさい」と国中に布告を出しました。すると、キュロス王の情熱に心を動かされた人々は立ち上がり、エルサレムに上って行きました。聖書では「人を助け、救い出す神の計画」が人の心の内に与えられ、また神によって心動かされた一人の人の呼びかけによって、それがまた一人ひとりの共感と感動を生み、大きな力となっていくことを示しています。この働きに実際に参加をして身を投じていく人も、また祈りの内に後方支援という形で随意の献げ者をもって支援した人もいました。実に大きな運動体としての神殿再建がそこにはありました。
 私はかつて、この聖書個所から信徒説教をさせて頂いたことがあります。それは大名クロスガーデンが献堂されようとしていた時でした。『主の神殿を建てよう』と題して、平尾教会は平尾と大名の地にあってキリストの体なる教会を共に建て上げていこう、福岡の中心に位置する平尾と大名の地に主の神殿を建て上げるために、礼拝・伝道・交わり・教育・奉仕を柱に掲げ、この基礎の上にバランスの良い教会を建て上げようと語ったと記憶しています。「ふたつで一つの教会」としての宣教の歩みは、厳しく、困難なことも多くありましたが、その時々に支えて下さる信仰者が起されて、多くの宣教の実りもありました。松村裕次郎先生の「福岡の中心にキリストの教会を」という言葉は、今もなお失われることのない福岡への宣教の情熱を注いでくれる言葉です。またその言葉が平尾と大名の様々な宣教活動の力の源として多くの人に行き渡ったことを私たちは知っています。
 昨今、教会の宣教の力が落ちていると言われる状況の中で、新型コロナウイルスの影響によってなかなか教会に集えない状況も多く生まれています。そのような中ですが、教会とは何かというと、やはり第一には「主なる神を覚えて集う礼拝者の群れ」です。信仰者が主の神殿に集まり、心をひとつに声を合わせて讃美を歌うこと、祈りを注ぎ、共に祈ること、神のみ言葉を受け、分かち合い、神のみ言葉に生き、神の栄光を現し、それを喜びとすること、これが教会の姿でしょう。それはつまり、神の言葉によって心動かされた人の生きざまの集合体といえるでしょう。
 キリストを宣べ伝える宣教の歴史には多くの迫害と困難がありました。江戸幕府の禁教下、遠藤周作の『沈黙』の舞台ともなった外海には多くの潜伏キリシタンが存在しました。彼らは迫害の中でも逃れながら外海に住み、大野地区の26戸の信者たちが石を積み上げて建て上げた大野教会堂が現在も建っています。逃れてきた先で、人々は教会を建て上げたのですが、この出来事は建物が建ったというだけではなく、人々の心の内にイエス様が住まわれ、また基本的な姿勢としてキリストを中心として、その生き方を建て上げたというべきでしょう。
 私たちは今確かに神によって心動かされ、主の神殿を建て上げるためにこの場所へ集っています。イエス様が「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われてその福音宣教のわざを始められましたが、イエス様の言葉は私たちの心の内を動かして、神の国の実現のために生きる者とされています。多くの困難や迫害がありますが、最終的な神の国の実現と神殿建設とは主イエスが再び来られる時に完成するのだということを覚えて、日々の宣教にたゆまぬものになりたいと願います。

 

 

<説 教> 

 

『空白の時代に生きた人々を支えた言葉』 森崇牧師

             ダニエル 12 1-4節( 新共同訳 旧約 p.1401

 

皆さんの人生を支えた言葉は一体何でしょうか?誰から、どこで、どんな言葉をかけられてそれが生きる希望や力の源泉となっているでしょうか。

聖書が書かれた歴史の中で、空白の時代があったことを皆さんご存じでしょうか?旧約聖書と、新約聖書が書かれるまでの時代の間には実に430年もの長い時間が横たわっています。非常に長い時間です。バビロン捕囚として捕らえられた人々がペルシャのキュロス王によって助け出されたのち、新約聖書のイエスの時代がすぐに始まったのではなく、様々な国の支配と圧政の中に神の民は生きることになりました(ペルシャギリシャエジプトシリアマカベアローマ)。エズラやネヘミヤといった宗教指導者が人々の生活を再建させましたが、その後数々の国の支配や、宗教弾圧(礼拝禁止、割礼は死罪、聖書の破壊、写本所有者を拷問など)がありました。ですから70年続いたバビロン捕囚が霞むほどの更なる苦難と痛みの時代が神の民にはあったのです。

その聖書が書かれなかった空白の時代、預言者のみ言葉が取り次がれなかった時代にあった人々の人生を支えた言葉、それが本日読まれた聖書の御言葉です。迫害と困難が終わりを見せない厳しいその時に、み使いの長であるミカエルが立って信仰者を守護します。この困難と迫害は主が用意される終わりの時の前兆です。しかし「命の書」に名を記された人々は救われることになります(1節)。そしてダニエル書にて旧約聖書の復活信仰が明言されることとなります。多くの人が地に倒れ伏して死んだとしても、その死という眠りから目覚めて復活の命に預かり、永遠のいのちにあずかります。この「永遠のいのち」もまた、聖書で初めての思想となりました。これは信仰者が復活のいのちにあずかって、永遠のいのちか滅びかに預かったということが主題なのではなく、あくまでもこの地上の生を圧倒的な神のめぐみと祝福を受けていながら、どのように神に向かって、あるいは神と共に歩んだかが問われるということをあらわしているのでしょう。3節の「目覚めた人々」とは賢い者(口語訳)の意味です。「目覚めている人」とは神と人との関係性の中で、謙虚に、感謝と喜びを持って神を愛し、隣人を愛する生き方へと目が開かれている人のことでしょう。そのような関連で、「多くの者の救いとなる」(3)とは人を神様への感謝と信頼とに人々を導くものとして大空の光のように輝いていると、言われるのです。「困難の時代の天使の守護/救いの約束/終わりの日の復活/永遠のいのち/とこしえの星の輝き」がこの終わりの見えない時代の人々の心を支えたことでしょう。

 さて、このダニエルの預言の言葉は、絵空事ではありません。430年を経過し、救い主イエス・キリストが十字架刑に処され、また三日後に復活されたのち、このイエスをキリスト(救い主)と信じるキリスト者が誕生しました。そして、信仰の大迫害を受けたシリアの地で、マタイはイエスの生涯を福音書として再び編むことになりました。マタイによる福音書のイエス様は、ダニエル書に描かれる信仰のもう一歩先を突き進んでいます。「迫害をうけたなら、あなたを迫害する者のために祈りなさい」「敵を愛しなさい」「神様が善人にも悪人にも雨を降り注いでくださるように、そのように天の父なる神様の完全を、あなたがたも追い求めなさい」(5:43-48)ダニエルが迫害と困難の中にあって忍耐と希望と救いをいつの時も指し示し、信仰に生きる者の姿を指し示しましたが、救い主イエスはその信仰の対象である主なる神様の姿を追い求める形で信仰の実践の言葉を説きました。イエス様が語った教えの中でもっとも驚くべき言葉は、「迫害にあったら逃げなさい」でした。これは命を失うほどの忍耐をしてはならないこと、またあなたのいのちこそが最も大切にされるべきなのだというメッセージでした。イエスさまは、そのような視点を持ちつつ、ダニエルが予告した憎むべき破壊者の到来の時には、神は最も困難で生き抜くことの難しい時代を縮めて下さると約束しています(マタイ2422)。神がその期間を縮めて下さらなければ誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人々のためにその期間を縮めて下さるであろうー。

預言者ダニエルが告げた復活信仰は、イエスが十字架につけられたときにその実現を見ました(275153)。「そのとき墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出てきて、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」と。この死者の復活はマタイだけの特別な出来事です。空白の時代に生きた人々の支えとなった言葉は、御子イエス・キリストが十字架にかかり、受難を受けられたその時に実現した。そして、復活のいのちもまたそこに指し示されていると、伝えられています。

 

 

 

<説 教> 

『憐みのゆえに』  奥村献主任牧師

             ダニエル 9 1-19節( 新共同訳 旧約 p.1395

 

ダニエル書7章からの後半部分の様式は「黙示文学」であるとされています。78章でダニエルは幻を見て悩み、苦しみます。続く今日の聖書9章でダニエルは自身が見た幻の意味を知りたいと思い悩む中でエレミヤ書を読み、イスラエル民族がバビロニアの支配下にある今の苦しみが70年(あと数年)で終わることを知ります。神様のご計画を知り、ダニエルは「主なる神に祈り、罪を告白」(4節)します。9章にはそのダニエルの心からの悔い改めの祈りが記されています。「主よ、畏るべき偉大な神よ」という言葉ではじまるこの祈りは、ダニエルの悔い改めと神様への畏敬の念、そして神様への懇願の言葉に満ちています。彼はイスラエルの民が律法に聞き従わず、神に対して罪を犯したことを悔い、その結果として今の苦しみを受けていることを告白します。

祈りとはこのダニエルの祈りのように、心からの悔い改めからはじまります。悔い改めとは、その場しのぎの、表面上とりつくろった謝罪や罪の告白ではありません。心から神を畏れ、自分の罪を知り、神様の深い憐れみを知った者が、心からの悔い改めの祈りを捧げることができます。私たちにとってそのような祈りを捧げることはそう簡単なことではありません。しかし私たちはこのダニエルの祈りの言葉の中に、神様がどのようなお方であるかと言うことを見ることができます。9節に「憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。」とあります。岩波訳聖書では「私たちは神に背いたが、私たちの神、主は憐れみに富み、あくまでも赦して下さる方です。」と訳されています。私たちが神様に背いたにもかかわらず、神様は憐れみに富んだ方であったので、私たちを赦してくださったのだということが、ダニエルの信仰としてここに書き記されています。また、18節には「わたしたちが正しいからではなく、あなたの深い憐れみのゆえに、伏して嘆願の祈りをささげます。」とあります。この言葉は、私たちと神様の関係性を表しています。私たちの祈りや行動の結果が、救いへとつながるのではない。私たちが自由に神様の救いを持ち運ぶことができるのではない。神様が先に自分勝手に生きる私たちを愛し、とことんまでに憐れんでくださるから、私たちはその神様の深い愛への応答として、心からの感謝と信仰をもって祈りを捧げることができるのです。

 

 

 

<説 教> 

『インマヌエルなる羊飼い』  森崇牧師

             詩編 23 1-6節( 新共同訳 旧約 p.854

 

本日は敬老の日礼拝です。平尾バプテスト教会に連なるすべての信仰の先達に心からの祝意と、またこれからの主の守りと支えとを祈ります。

聖書教育の聖書個所では本日も先週に引き続き、ダニエル書6章でした。ダニエルは祖国が滅亡してから捕囚として67年が経過していました。ダニエルは恐らくこの時には80才を迎えていました。異国の地にありながらダニエルはその知識や才能を認められ国の重役となっていました。王から王国全体を任されそうになった時に、彼を陥れようとするものから、彼自身の宗教に関することで攻撃を受けることとなります。彼は「王以外の何物をも拝んではならない」といった国の禁令を破り、彼が幼いころから変わることのなかった忠実さをもって、いつもの通りに二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美とを自分の神にささげたのでした(ダニ6:11)

  日に三度祈ったとは朝、昼、夕に時間を決めて祈っていたということでしょう。「わたしは神を呼ぶ。主はわたしを救って下さる。夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる」(詩篇55:1718)とあるように、ダニエルの信仰はその信仰生活のリズムによって守られ、支えられていました。エルサレムの方に向かって祈ったとは、ソロモン時代に立てられた主の神殿の方を向いてということを指していましたが、ダニエルは異国の地にあり、厳しい状況下に置かれながらもイスラエルの信仰を堅守しようとしていたことでしょう。

 それではダニエルは何を祈っていたのでしょうか。そしてどのように祈っていたのでしょうか。それはおそらく、詩篇23編をベースにした祈りをしていたのではないかと想像します。詩篇23編はその牧歌的な穏やかさと主の守りと導きの確信から多くの人々に愛されてきた詩篇歌です。「主はわが羊飼い」という言葉からは、わたしと主という関係から始まっていきます。この詩篇の丁度中心から「主」を「あなた」と詩人は呼び変えます。「あなたがわたしと共にいてくださる。」 この言葉が詩篇23編の中心にあることは、イスラエルの中心的信仰がインマヌエル「神我らと共にいます」ということを良く表しているのではないかとそのように思います。この中心的言葉に即して前後の詩文を交差的に読むときにより深い詩篇の奥深さを感じさせてくれます。すなわち、死の影の谷を行くときも(あなたが共にいるから)わたしは強められる。あなたの鞭とあなたの杖で私を守って下さるからわたしは災いを恐れない。主はその御名に相応しく、荒野をパンとうずらで食卓を整えられたように、日々の糧を備えて下さる。あなたの正しい道とは、敵対するものがいない状態ではなく、わたしを苦しめるものが目の前にいても、それが神のよしとされる道なのだ。紙面の関係上ここでそのすべては追えませんが、「主は羊飼い」という言葉が「あなたがわたしと共にいる」という言葉によって対置されることばは「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」でしょう。羊飼いである主が、わたしがどこにいたとしても、どのような心理的状況の中にいたとしても、恵みと慈しみをもってわたしを追います。ヘブライ語で「恵み」とはトーブ、「慈しみ」とはヘセドです。トーブは神の創造の業に対する神の「良し」(1:4,10,12,18,21,25,31)です。ヘセドとは主なる神がご自分の神の民に対する契約を覚えられる時、民がどれだけ神を裏切ろうとも、変わることのない主の一方的な愛を現す言葉です。恵みと慈しみは私たち人間が追って求めるものではなく、主である羊飼いなる神が私たちの人生に伴いつつ、恵みと慈しみを持って追って下さいます。

 ダニエルが日に三度の祈りの中でどのように祈ったのか、実際にはわかりません。、しかしダニエルが伏し拝んだ神とは、インマヌエルの主であったことでしょう。詩篇23編に流れるインマヌエル羊飼いなる神への感謝と祈りは、現代を生きる私たちに大きな慰めと励ましを与えます。私たちは朝に夕に昼に、インマヌエルの羊飼いである主を共に最後まで拝したいと願います。

 

 

 

<説 教> 

『私は金の像を拝まない』  奥村献主任牧師

             ダニエル書 3 1-26節( 新共同訳 旧約 p.1384)

 

ネブカドネツァル王は自分の権威を示すために、金の像をバビロン州のドラという平野に金の像を造ります。先週の聖書二章の最後で、ネブカドネツァル王はダニエルの夢の解き明かしを受けてユダヤ人の信じる神様を「あなたたちの神はまことに神々の神」と告白したばかりでした。しかし彼は、自分自身の権威は誇示し続けていたのでした。王はこの金の像を「ひれ伏して拝め」と通達を出します。ところが、バビロン州で高い位にあったユダヤ人シャドラク、メシャク、アベド・ネゴが金の像を拝んでいないようだということを耳にします。王は三人を呼び出して拝まなければ炉に投げ込むということを伝え、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」と問いただします。三人は毅然と次のように答えます。「わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

 この「そうでなくとも」という言葉に表れているように、三人の神様に対する信仰は、自分本位のものではありませんでした。ネブカドネツァル王は「救い出す」ということを本当の神である条件かのように問い詰めますが、三人は「そうでなくとも」他の神々に仕えたり拝んだりしないということを告白します。

 この三人の言葉から私たちは本当の信仰者の姿を学ぶことができるのではないでしょうか。カルト的な宗教は、高額なものを購入しなければ身内が不幸になるとか、幸せになれないなどといった脅し文句をもって人々を騙します。お金で神的な力を買い取らせようとします。不幸を避け、幸せを手に入れたいという人々の心をうまく利用します。自分の益になることが起こったから信じるといった、条件付きで自分本位の信仰は私たちの中にも度々湧き上がるものかもしれません。私たちはいつの間にか心の中に金の像を作り出し、「神様はこうなさるはずだ」「こうしてくれたから神様を信じる」という限定的で条件付きの信仰を身につけてはいないでしょうか。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴは、「そうでなくとも」他の神を拝まないと王様を前に告白しました。自分が炉の中から救い出されるとしても、炉の中で焼けるとしても、これから自分の身に起こるすべてを自分の信じる神様に委ねた信仰者の姿がここにあります。ダニエル書が執筆された紀元前164年、ユダヤ人はシリア帝国のアンティオコス四世の激しい迫害の下に置かれていました。エルサレムの神殿にはゼウス像が建てられ、そこにあえてユダヤ人たちが避けていた豚肉が供えられたとも言われています。ユダヤ人はこの執拗な迫害の中で抵抗し続けたため、多くの殉教者を出しました。殉教や信じる事のために死にゆくこと自体が美しいわけではありません。しかし私たちは、どんな権威の前にも揺らぐ事のない信仰者の姿をここで学びたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

『知恵と力は神のもの』  森崇牧師

          ダニエル書 2 12-24節( 新共同訳 旧約 p.1380

 

ダニエル書2章はバビロンの王ネブカドネツァルがみた巨大な像の夢の話です。王は何度か巨大な像の夢を見て不安になり、眠れなくなりました。バビロン王国は当時世界最強の国でした。圧倒的な武力を持ち、国中からかき集めた財宝がありました。世界の頂点に君臨する王が、たった数度見た夢によって夜も眠れないほどの不安に犯されます。王は自分の見た夢を言い当てさせ、解釈を告げなければ、お前たちを滅ぼす、と告げました。しかし人間がほかの人の夢を言い当てるのは不可能です。ついに知者たちは「そんなことは誰にもできない、それができるのは人間と住まいを共にしない神だけだ」と告げると王は激しく怒り、憤慨してバビロンの知者を皆殺しにするように命じました。この王の姿というのは、人間の弱さをよく表しています。また自分自身が抱えるストレスにより暴力的になり、国中の知者を殺すという大虐殺を正当化してしまいます。

聖書の中には当時の為政者であったヘロデやファラオも大虐殺を起こしたと聖書は記しています。時の権力者というのは自分自身の不安や怖れによって後先を考えず、また暴走をしてしまうということが明らかになっています。この抗いがたい暴力のただ中で、信仰者として祈り、権力の暴走を食い止めた一人の人物がおりました。その人がダニエルです。ダニエルはバビロン王国の捕囚となっていた一人でしたが、知恵と知識とに優れ、どのような夢も幻も解くことができる賜物を神から供えられていました(17節)。14節でダニエルは自分を殺そうとしにきた侍従長アルヨクに思慮深く懸命に対応し、どうしてこのような事態になったのか説明を求めました。アルヨクはダニエルに事情を説明すると、ダニエルは王のもとに出て行って「しばらくの時を頂けるならば、解釈します」と告げました。この「しばらくの時」とは理解できない出来事に対応していくための必要な時間でした。ダニエルはその後仲間の待つ家に帰り、事情を説明します。そしてこの仲間とともにこの大虐殺が止められること、また天の神に向かって憐れみを願い、その夢の秘密を求めて祈りました。ダニエルにはともに祈る仲間がいたこと、これが彼の幸いでした。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ181820)と救い主イエス様はそのように語られましたが、ここでダニエルたちの祈りに伴われたのは天の神でした。その祈りに答えられ、王の夢の秘密が明らかにされます。ダニエルはこの祈りののちに王の前に立ち、夢の言い当てと解き明かしを行います。すなわち王が見た夢(31~)とは大きな一つの像であり、頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土でした。その後、人手によらないで切り出された石が起こされて、その像の足を打ち砕きました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がっていきました。この像は頭が現在のバビロン王国、そして次々と起こってくる国々の支配を表しますが、最後の石とは歴史的にはマカベアによるセレウコス王朝によって撃破されるということを表すものでした。ダニエルはこの夢の言い当てと解き明かしが自分の知恵によるものではなく、秘密を明かす天の神によって、すべての力と知恵とは神によって指示されることを、謙虚さを持って告げました。

 

 

<説 教> 

  『何を食すのか』  奥村献主任牧師

             ダニエル書 1 8-16節( 新共同訳 旧約 p.1379

 

今週からダニエル書を共に読み進めます。ダニエル書は旧約聖書の中でも非常にユニークな書簡です。前半は「殉教物語」、そして後半は「黙示文学」であると言われています。 執筆年代は旧約聖書の中で一番新しく、紀元前164年の終わり頃に書かれたものであろうと、その記事内容から具体な年代が推察されています。

 ダニエル書の前半は、バビロン捕囚後におけるバビロニア帝国支配下のユダヤ人(ダニエルとその友人たち)についての迫害の物語です。ダニエル書の執筆当時にも同じ状況ようにユダヤ民族は迫害のもとにあったのではないかと言われています。著者の生きた時代、シリア帝国の支配のもとで諸民族はヘレニズム文化を強要され、ユダヤ民族はそれを強く拒み、その支配的な力に信仰をもって抗いました。ユダヤ民族は自身の慣習や律法を捨てずに守りぬきましたが、そのことで多くの殉教者を出しながらかなり激しい迫害を受けました。

今日の聖書は、バビロニア帝国の王の支配の下にありながら、自らの信仰を貫き通したダニエルの姿を伝えています。「ダニエル」という言葉は「主は私の裁き人」という意味をもっています。バビロニア帝国は王に仕える備えとしてダニエルとその友人らの名前を変え、彼らの食べ物や飲み物を指定し、自らの文化に同化させようとしました。8節に「ダニエルは宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し、自分を汚すようなことはさせないでほしいと侍従長に願い出た。」とあります。12節では侍従長に「どうかわたしたちを十日間試してください。」としばしの間、野菜と水だけで生活し、その上で様子をみてほしいということを提案します。

支配下にあったユダヤ民族の状況を考えると、権威を持つものから指定された食事を拒むということは、まさに命がけの無謀なことでした。しかしダニエルは、神様への信仰に基づいて毅然とした態度を示しました。結果として彼らは、健康に過ごすことができたため、世話係はその後彼らに野菜だけを与えることとなりました。ダニエルの信仰が、人間の支配的力を跳ね返し、王の定めた事柄を大きく動かしました。

 最近は、政治と新興宗教に関する連日の報道を見ながら「私たちはこれまで、一体何を提供され続けてきたのか?」と強く思わされます。正義らしきもの、民主主義らしきもの、保守らしきものを語る人々がこれまで進めてきた一つ一つの国の歩み。国民に提供され続けてきたこの「平和らしき」社会システムは、一体何を基盤としていたのかと思わされます。正しさを基盤としていたはずの政治や宗教が、実はそれぞれの信念を脇に置いて、互いの利益のためにつながっていたわけです。

 私たちはこの時代にあって、信仰を保ち続けることはできているでしょうか。「正義感」すらも利用される時代です。提供される一つ一つの事柄の中に真実を見抜きながら歩み続けることができているでしょうか。

ダニエルたちは、王に仕えることを拒むことはしませんでした。あくまで、帝国の支配の中にありながらも、しかし信仰を妥協せずに真実を見つめて歩みました。「主は私の裁き人」を意味するダニエル。今私たちが本当に畏れるべきこと、享受すべきことは何か。「何を食すべきなのか」ということを共に考えていきたいと思います。

 

 

<説 教> 

『霊と魂と』  青野太潮協力牧師

     テサロニケ信徒への手紙一52324節( 新共同訳 新約 p.379

 

今日の聖書箇所は、第一テサロニケ5 23節です。
「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」
『講座・キリスト教カウンセリング』の第3巻(監修・平山正実先生他、日本キリスト教団出版局、2002年)のなかで、精神科医でありカウンセラーでもあられた平山正実先生(19382013年)は、「この聖書箇所では日本語訳が誤解を生みやすい」と言って、こう警鐘を鳴らしておられます。
<新共同訳と新改訳は、人間を「からだ」と「魂」と「霊」の三つに分け、口語訳及び、青野太潮訳では、「からだ」と「心」と「霊」というふうに訳している。すなわち、「からだ」と「霊」については、四つの聖書訳とも共通しているが、(二番目に言及される)ギリシア語の「プシュケー」は、新共同訳と新改訳では「魂」、口語訳と青野訳では「心」と訳されている。この辺から、混乱が生じているのではないだろうか。
そもそも聖書では、「魂」「心」「精神」「霊」などと書き分けられているが、それらの区別は必ずしも明確ではない。たしかに「魂」は、ギリシア思想の中に「霊魂不滅説」というのがあるように、神から与えられたものなので、肉体の死と共に滅びるものではないとする考え方もある。
しかし他方、精神障害者を診察する精神科医の側から人間という存在をみた場合、「プシュケーを病む患者」は、「心病む人」であり「精神障害者」として治療する。事実、病院に行くと、精神科、精神神経科、心身内科という看板がかかっている。いずれも治療の対象が「精神」であり、「心」であることがわかる。そうするとどうだろうか。「からだ」と、「心」と訳されたプシュケーは、「肉」に属するもの、やがて死に去るもの、「自然的生命」と考えた方がよいのではないだろうか。
たしかにユダヤ・キリスト教の伝統の中では、「魂」と「心」と「精神」と「霊」とは明確な区別をしていないが、現代の精神医学や精神医療のパラダイム(=認識のための枠組み)の中で「精神障害者に対するカウンセリング」について論じる場合は、言葉の定義や枠組みをしっかり分けておいた方がよいのではないかと思う。つまり、新共同訳や新改訳のように人間を「からだ」「魂」「霊」と訳すのではなく、口語訳や青野訳のように「からだ」「心」「霊」と訳したほうが、現代人にはわかりよいのではないだろうか。とくに青野訳は「あなたがたの霊が全きものとして、そして心とからだとが、責められるところのない仕方で、守られるように」と訳して、霊の次元と、心とからだの次元をはっきりと分けており、もっともわかりよい訳であると思う。こう分類すると、「からだ」をなおすのは、たとえば内科や外科など「身体」を扱う医者、「心」をなおすのは精神科医やカウンセラー、「霊」を救うのは聖職者や信徒、というふうに、はっきりと棲み分けができるのではないかと思う。>(9092頁)
以上の平山先生のコメントをどのように受け止めていったらよいのでしょうか。「霊」と「魂」の関係も含めて、しばらくの間、この問題について考えてみることにいたしましょう。

 

 

 

<説 教> 

『主により頼み、強くなりなさい』  森 崇牧師

     エフェソ信徒への手紙 61020節( 新共同訳 新約 p.359

 

2022年の広島平和記念式典を86日の朝、テレビを通して出席しました。広島市長の平和宣言ではウクライナのロシア侵略に触れて、核兵器の使用を検討しているとのロシアの声に、核抑止力への機運の高まりを懸念されていました。広島、そして長崎に落とされた原爆の痛みと苦しみから、核兵器のボタンは用いてはならないこと、またアメリカからの出席者であったグティエレス官房長官も核兵器廃絶に向けた取り組みを続けていかなければならない、との声がありました。

広島の原爆を漫画で物語った「はだしのゲン」の作者である中沢啓治さんは、自らの身に起きた壮絶な被爆体験を元にその漫画を描いたそうです。中沢さんの没後10年で、中沢さんは当時のインタビューでこのように語っていました。「口でこそ『平和、平和』というのは僕は絶対に信用しない誰だって言えるんだ、『平和』って。だけど平和の本当の本質を知っているとはどういうことかというと、人間の汚さ。僕は原爆を落とされた惨状の地獄もすごい人間の地獄だと思ったけど、もっと戦後を生き抜いたときの方が地獄だと思った。」「なんで怒りをぶちまけて、戦争を起こした奴を追及しねえんだと。戦争がなかったら原爆迄落とすことはなかったじゃないかと。」日本人は戦争責任を追及してこなかった。「日本人を敵に回すかもしれないけど、これは怨念なんで、これを晴らさずにおくものかと」中沢さんのはだしのゲンに込められた思いの中には、本当の平和を希求するための戦いの意志が込められていたことを知らされました。

本日の聖書個所では世の権威と諸霊、悪魔の策略によく抵抗して立っていることが出来るように、キリスト者に三つのことを勧めています。一つは「主に依り頼んでその偉大な力により強くなる」ことです。これは人間が自分自身の力に依り頼むことなく、主に依り頼むことで、主の偉大な力により強く生きなさいとの勧めです。もうひとつは「神の武具を身につけなさい」と勧めています。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の履物を身に着けよと言われます。「真理と正義」とは人間に属するものではなく、神が誠であられるかたという真理と、高ぶる者を低め、卑しめられている人を助けられる神の義が正義です。平和の福音とは、十字架にお架かりになったイエス・キリストこそ、まことの赦しと和解をもたらしてくださる方ということでしょう。身につける者と共に、手に取るものとして、信仰の盾、神の御言葉のつるぎ、救いを兜とせよ、と告げられます。三つ目は「根気強く祈る」ことです。どのような時にも神の聖霊に助けられながら祈り、すべての聖なる者たちのために祈り続けなさいと勧められます。

世の中を見渡すときに、今、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊の影響が色濃く出ている時代の中にあります。政権与党の中に統一協会の問題が根強く残っていたことを知らされていますし、現在安倍元首相の国葬が、大変大きな問題となっていますが、これまで安倍首相の下で行われてきた様々な不正や疑惑が一掃されること、清算されることのないまま、一個人の死を神格化し、国民に強要しようとしています。これをこそ、暗闇の世界の支配と呼ばずして、なんと呼ぶといった気持ちです。しかし、私たちはキリスト者として、イエス様が「剣を取る者は剣で滅びる」「神の国と神の義をまず求めなさい」「平和を実現するものは幸いである」と言われた、その主に依り頼み、その力によってこの世の中で、神の光の武具を身にまといつつ、しっかりと立っていくことが求められているのではないかとそのように思います。

 

 

<説 教> 

『時をよく用いなさい』  奥村献主任牧師

     エフェソ信徒への手紙 5620節( 新共同訳 新約 p.357

 

今日の聖書は「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」と私たちに伝えます。神様に不従順であること、自分の欲望に従いながら生きていく事は、暗闇の中を歩むことであり、何も生み出しません。5章の3節から5節に書かれている人間の弱さを象徴するような様々な事柄は、自分が暗闇の中を歩むだけにとどまらず、人からも光を奪うものであります。
しかし私たちは皆、弱さを持っています。そして私たちは自分の人に見られたくない、隠していたい部分、未熟さを知る時に、いろいろな仕方でそれを覆い隠そうとします。自分のことを大きく見せようとしたり、他者を蹴落としたりします。あるいは自分の弱さに目を向けず、何も問題ないかのように振る舞い、その部分を正当化したりします。
 聖書には「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。」とあります。光は全てを明らかにします。私たちが必死に自分の罪を隠したり、人の目を騙したりすることがたとえできたとしても、神様の前では何も隠すことができません。すべては明らかにされます。これは、弱い人間が晒し者にされたり、そのことで尊厳を奪われたり、社会から排除されたりするということを意味しません。暗闇の業が明らかされることは、神様と自分との関係の中で、神様が望んでおられる本来の自分に立ち返るための一つのプロセスです。
14節に「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」とあります。自分だけでは何もできない私たちに、神様が力を与え、立ち上がらせてくださる。イエス様が、私たちを照らしてくださる。イエス様の十字架と復活の出来事によって、初めて私たちは光の子として歩むことができるのです。

「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。」とあります。 私たちが生きる世界には、目を背けたくなるような出来事がたくさん起こります。ウクライナで起こっていることや、ミャンマーで起こっている事は、私たちの社会が生み出している暗闇です。聖書は、この「悪い時代」から目をそらさずに「時をよく用いなさい。」と私たちに語りかけます。悪い時代だからこそ、神様は私たちに使命を与えてくださいます。目をそらさずに、神様の与えてくださる機会をとらえながら、この時代にあって光の子としてなすべきことを私たちが成すようにと示してくださいます。
私たちは今、混乱の時代を生きています。時に無気力になり、何かに取り組むことを諦めたくなります。しかし、イエス様はどんな時にも私たちを見捨てずに、私たちを愛し、あなたは尊いのだと光を照らしてくださいます。イエス様はこの世界を見捨てる事はなさいませんでした。そのイエス様がおられるから、私たちはあきらめず、開き直らず、光の子としてこの世界を歩むことができるわけです。今週も希望を持って歩み出したいと思いす。

 

 

<説 教> 

『キリストに結ばれて』  奥村献主任牧師

     エフェソ信徒への手紙 41724節( 新共同訳 新約 p.356

 

 

最近では、ある新興宗教のニュースが連日報道されています。「教会」や「牧師」という言葉が出てくるたびに、不安を抱きながらそのニュースを見ています。30年ほど前には、連日のようにその新興宗教のニュースが報道されていました。しかし、その時代を知らない人々や、宗教にあまり関心がない人々は、連日の報道を受けてその新興宗教と伝統的なキリスト教はそんなに違いがないと考えてしまうかもしれません。
多くの新興宗教は、人間の不安や痛みにつけ込んで来ます。ご家族が亡くなったり、大病を経験するなど、人生の中で困難なことに直面して心が弱ったときに多くの新興宗教は「呪い」や「救い」という言葉を巧みに利用した教説をもって近寄ってきます。
現在報道されている新興宗教などは、信者から「献金」という名目で財産を根こそぎ巻き上げ、「目一杯ささげなければ、あなたやあなたの家族にまた不幸が起こる」と、心の弱った人をまたさらにどん底に追いやってしまうわけです。
 今日の聖書は、心をかたくなにすることは、神の命から遠ざかることであると述べています。「かたくな」という単語は、原意では「特別に硬い石」をさしています。
 私たちは、自分では日々淡々とまっすぐに生きているように思っていても、いつの間にか心が「硬い石」なっているようなことがないでしょうか。信仰生活の中においても、「何を基としているのか」ということを間違う時に、いつのまにかそのような心のかたくなさが生まれてくるのだろうと思います。
「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。」。 今日の聖書はそのように私たちに語りかけます。「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。」。
私たちは果たして、キリストについて聞き、キリストに結ばれているでしょうか。この世にくだり、痛んだ者、悲しむ者と共に歩まれたイエス・キリスト。高みからではなく、徹底的な十字架という低みから私たちを救ってくださったイエス・キリスト。そのイエスキリストについて聞き、そのイエスキリストに結ばれることで、私たちは神様の命に立ちかえることができるのではないでしょうか。
今日の聖書の最後に、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」とあります。これは、互いに監視しあって、「あなたは清く正しく生きていないではないか」「あなたの言動は真理に基づいていない」と、自分の理想や考えに基づいて責め合うことを求めているのではありません。「真理に基づいた正しく清い生活を送ること」とはイエス・キリストに結ばれて、イエス・キリストに倣って生きていくことに他なりません。私たちの信仰生活には様々な波が襲ってきます。しかしどのような時にも、不安や恐怖、自分の思惑や人に対する責任感などから解き放たれて、イエス様の先行する救いに感謝をしつつ応答の歩みを進めていきたいと思います。

 

<説 教> 

『神の約束』  嶋田和幸宣教師

     創世記手紙 1213節( 新共同訳 旧約 p.15

 

今日のメッセージのテーマは、「約束」です。私たちの日常生活を振り返ってみると、「約束」は実にたくさんあります。私たちの社会は、約束を守ることによって成り立っています。例えば、待ち合わせをする時、事前に何時に、どこで会うか約束します。仕事の場面では、会社やお客様を訪問する前に、約束を取り付けます。約束とは、まだ起こっていない現実を伝えるための宣言です。約束は、いつも未来に向けられています。

聖書には、約束が散りばめられています。聖書は約束の本、と言ってもいいくらいです。ここで注目するのは、創世記12章にある、アブラハムへの約束です。この約束は、聖書の中で最も大事な約束の1つです。まず、アブラハムに命令が与えられます。あなたの父の家を離れてわたしの示す地に行きなさい、と。その後に、神はアブラハムに約束します。それは、神がアブラハムを祝福すること、そして、地上の氏族がすべて、アブラハムによって祝福に入ることです。言い換えれば、神が、地上の全ての人々を、アブラハムを通して祝福するという約束です。

聖書には、神がなぜアブラハムを選ばれたのか、書かれていません。アブラハムについて書かれているのは、アブラハムがテラと言う父の元に生まれ、サライという名の妻がいたこと、それくらいです。初めアブラハムは、父の故郷、カルデアの地にいました。やがて父と共にカルデアの地を後にし、カナン地方を目指しました。その途中、ハランという地で父テラは生涯を終えました。そこで語られた約束が、あの約束です。

アブラハムは、神の言葉に従って出発しました。故郷を離れて、神が示された地に向かったアブラハムに、神は、その地を与えると約束されました。そして更に、アブラハムの子孫を数えきれないくらい増やすと、約束されたのです。この約束は、アブラハムの子イサク、そしてヤコブへと引き継がれます。そして、確かに、アブラハムの子孫によって完全に実現することになります。その子孫とは、イエス・キリストです。

 

アブラハムに与えられた約束「地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」。この約束は、イエス・キリストによって果たされました。アブラハムの子孫、イエス・キリストによって地上の全ての人々は神の祝福にあずかります。そして、私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫に連なり、そしてアブラハムへの祝福の約束にあずかるのです。

 

 

<説 教> 

『隔ての壁は除かれて』  森 崇牧師

     エフェソの信徒への手紙211-22節( 新共同訳 新約 p.354

 

「隔ての壁」は誰の心にも存在するものだと思います。霊的な関係で言えば私たちは神に背いて生きてしまう性質を持った罪人であり、神との確執があります。神と共に生きることの難しい自分の愚かさを思います。また人との関係においても、家族や友人たちの関りにおいて自ら壁を作ってしまう存在です。時には自分のものさしや定規の中で人を裁いてしまうこともあるでしょう。社会の中では思想や信条の違い、肌の色や国籍、多様な性別によって分け隔てしてしまう人間の現実があります。

イエス様が十字架にお架かりになられ、大声を出して死なれたとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました(マルコ153738)。そのイエス様の十字架の出来事は人間と神とを隔てていた垂れ幕が裂かれ、人と神は何の隔たりもなしに共に生きる存在とされたことを言い表しています。人と神との関係がその様であれば、いわんや人と人との間においても敵意という隔ての壁は取り除けられています。人が本来あるべき姿、神が人間の本当の姿として願っておられる姿というのは、人間の隔ての壁が取り除けられ、一人の新しい人に造り上げられて平和を実現することです。十字架によって獲得される新しい人とは、神に近しいものとされ、父なる神に近づくものです(エフェソ213,18)。神が望まれる平和とは全く波風立たない無風の状態ではありません。関わりの中で時には嵐になり、互いに傷付け合うことになってしまったとしても、互いをあるがままで受け入れ、また対話を通して共に生きていくことこそが、神の望まれる平和なのだと私は信じています。キリストの十字架が私達の敵意という隔ての壁を取り壊されたのであれば、私達にはもはや敵意という壁は存在しません。それはつまりどのようなことを指していくのかというと、19節以降に言われる存在となるということです。「あなたがたはもはや聖なる民に属する神の家族です。あなた方はキリストにおいて主に於ける聖なる神殿とされ、またキリストにおいて、あなた方も共に立てられて霊の働きによって神の住まいとなるのです。」私達がキリストと出会う前には、敵意という隔ての壁が存在していました。それは他者と比べて差別したり、あるいは遠ざけたり、忌み嫌ったりする存在でした。敵意という壁は私達の前にあって高く据えられ、自分自身の存在しか見えさせませんでした。しかし、キリストの十字架によってその敵意という壁が取り除かれた今、様々な考えや思想信条の違う人や、肌の色、人種、性別の違いを目の前に置きながらそれを受け入れる人として一人の新しい人に造り変えられています。波風立たない穏やかな状態が平和ではなく、様々な意見の違いや困難や課題があろうともそれを共に考えて乗り越えていくことができる、それがキリストがお与えくださる平和です。新しい建物が立つときにはそれが一度取り壊されなければいけないように、十字架によって壊された壁の後に立つものは、要石をキリスト・イエスにした建物、聖なる神殿です。そこは様々な人々がそのままで受け入れ会える場所です。あなたの人生は隔ての壁に囲まれた閉塞的なものではなく、神の愛と平和と自由、いのちが尊重される神の住まいとされること、それが聖書の私達に対する祈りと願いです。

 

 

 

<説 教> 

『キリストのもとに一つに』  奥村 献主任牧師

     エフェソの信徒への手紙1 3-10節( 新共同訳 新約 p.352

 

710日は参議院選挙の投票日です。期日前投票を終えられた方も多くおられるかもしれません。今日本では、消費税や物価が上がり、多くの方々が生活苦にあえいでいます。防衛費やワクチンに関する巨額な予算がすんなりと通る一方で、国民の生活に直結する予算の割あては充分ではないような気がします。不平等とも思えるような政策を何度も目の当たりにする中で、なんとも言えない無力感に包まれることがあります。自分一人の力では、何も変わらないのではないかと思ってしまいます。しかし、選挙に参加しなければ何も変わりません。どのような時代にあろうとも、この社会をあきらめずに選挙に参加し、誰かに投票することを通して代表者を選び、主権者としての意思を政治に反映させたいと思います。

 さて、先日の文書による臨時総会で日本バプテスト連盟の多くのメンバーが慣れ親しんできた、天城山荘が一般の企業に売却されることが可決・承認されました。この事により、新しい拠点が定まるまでは、全国の教会の人々がひとつの場所に集まる事は難しくなりました。このこともまた、私たちに無力感や喪失感を与えます。しかし、私たちは引き続き全国の諸教会と祈りによってつながりながら、共に同じ神様を礼拝しながら協力伝道の歩みを進めていきたいと思います。

 今日の聖書には「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」とあります。無力感や喪失感など、いろいろな不安に支配される私たちを、神様が祝福で満たしてくださるというのです。「いや、そんなはずはない。私にそんな資格はない。私は例外だ。」そう思われる方もおられるかもしれません。しかし聖書は、神様は天地造の前にすでに私たちを愛してくださっているのだと語ります。そして神様はわたしたちを、イエス・キリストによって、神の子にしようとしてくださっているのだと、今日の聖書は語ります。そこには何の資格も必要ありません。なぜならばそれは、歴史の始まる前にあらかじめ神様のご計画に定められたことであるからです。神様のご計画の中で、イエス・キリストが十字架と復活の出来事を通して、私たちに救いの道を示してくださいました。

私たちはこの世において、大きな力の前に無力を感じることが多くあり、私たちの信仰や良心も強くありません。私たちは人生を歩む中で、力を持つ者、富める者に支配され、他者とのつながりを諦めてしまうことがあります。人間の力や富の力が支配する世界は、その秩序の中で人々が順序づけられ、分断され、一見平和に見えるかもしれません。しかし、それは本当の平和とは呼べません。神様は、私たちのこの乾いた世界に聖霊をもって祝福を注ぎ、「秘められた計画」をあらかじめ示してくださいました。

だから私たちは、どんな社会の中にあっても、諦めずに神様のその平和を求めて歩むことができるのです。キリストを頭とする教会はこの世界の希望です。かの日には「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とあります。

 私たちはどんな時代にあっても、無条件の救いをすべての人にあらかじめ示してくださった神様と、その救いの道を開いてくださったイエス様に信頼して、希望をもって歩み出したいと思います。

 

 

<説 教> 

『祈りの輪の中で』  森 崇牧師

      コロサイの信徒への手紙 426節( 新共同訳 新約 p.372 

 

おはようございます。本日は神学校週間礼拝です。神学校とは主に伝道者養成機関です。日本バプテスト連盟には三つの神学校があります。西南学院大学神学部、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校です。献身者を志し学ばれている学生と教職員の方々が支えられ、神の国の福音宣教が益々強められることを覚えるひと時です。特にこの時に献身者の学びと必要が満たされることを覚えて、全国壮年会連合が伝道者養成を覚えて、献金を捧げて祈り支えています。

今日は「祈り」をテーマに皆さんと共にみことばを分かち合いたいと思います。みなさんは「祈り」について何を思われるでしょうか。世の中の多くの人々の「祈り」のイメージは、自分の願いごとを大きな存在に聴いてもらう、と言ったものです。「試験や受験に合格しますように」「病気や怪我が早く良くなりますように」「問題が早く解決しますように」時には「いい縁談がありますように」「子どもがあたえられますように」といった人の願いや祈りごとはさまざまあります。しかし、キリスト教の祈りと言うのは、それ以上のものです。キリスト教信仰の祈りとは神との対話であり、それは呼吸でもあります。キリスト教徒は、祈り(聖書に聴きながら、神への呼びかけ・感謝・讃美・願いを内容とする)によって神との対話を生きる道へと招かれています。

本日の聖書の箇所は、「祈る」と言う言葉が短い聖句の中で3回繰り返されています。この祈りの勧めには「目を覚ましていなさい」「ひたすら祈りなさい」とあります。祈るとは目を覚ましていることです。祈りのシーンで思い出されるのはゲッセマネの園の祈りでしょうか。イエスさまは「アッパ父よ、あなたは何でもおできになります。この盃をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」との神の御心を求める祈りをイエスさまは十字架の前になされました。三度の祈りの中で残念ながらイエスさまの祈りに付き合えずに眠りこけてしまう弟子たちがいました。その時にはイエスさまに「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい」と勧められます。三度祈られるイエスさまに対して弟子たちは目を覚まして共に祈り続けることは出来ませんでしたが、人は肉体的にも精神的にも弱さの中にあってもイエスさまは徹底して十字架を前にして祈ってくださっている姿を覚えます。

「目を覚ましてひたすら祈りなさい」とはイエスさまの弛まぬ祈りの姿に学びなさい、そして常に祈られたイエスさまに倣いなさい、との勧めでもあります。「ひたすら祈りなさい」との言葉に押し出されて、私たちが祈る時、それはまずイエスさまが祈りの人であったから、私たちは祈る人となるのだ、と言うことはもっと大切にされてよいことだと思います。イエスさまが祈りの人であった事は、マルコによる福音書135節(p.62)で知らされています。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と。イエスさまは祈りの生活を送っておられました。自ら寂しいところへ行き、静かな場所に行かれて祈られました。

 

それは神との交わりを保つためであり、神と対話をし、父なる神に聞くための時でした。この箇所ではイエスさまの祈りが、普段の慌ただしい日常生活から退いて祈る時を持っていたと言うだけではなく、「祈り」によって神の宣教を計画し、また実践する力ともなっていた事を示しています。祈りの後にイエスさまは言われます。38節「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」39節そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。イエスさまは祈りから神の思いを聞き、計画とされ、行動へと移されました。イエスさまはこの祈りによって、ご自分が神の国の宣教をなさっただけではなく、この後に弟子たちを選ばれ、またその宣教の働きを委ねていくことになります(マルコ21315)。祈りは人を育てていくこととなりました。すべてのキリスト者は、このイエスさまの祈りによって繋がれて、育まれています。

 

 

 

<説 教> 

『赦し合いなさい』  奥村 献主任牧師

      コロサイの信徒への手紙 3517節( 新共同訳 新約 p.371 

 

福岡ではやっと、新型コロナウィルスの感染者数が減少してきました。教会も、基本的な活動が再開できるかどうかという検討に入ろうとしています。このときに、一つ一つの活動をもう一度捉え直しながら、次の一歩に向けて祈りつつ思いを向けていたいと思います。しかし、わたしたちを取りまく環境に不安はつきません。物価が上昇し、生活を圧迫しています。心が騒ぎ、不安になることが多い中にあって、教会のなすべきことは何かという事をこの時に考えていたいと思います。

コロサイ信徒への手紙は、パウロの信仰を受けついだ者によって記された手紙であろうと言われています。コロサイ信徒への手紙は、様々な言葉をもって伝えられた書簡です。豊かな言葉の詰まった書簡だけに、他の書簡と比べて分かりにくい部分が多いかもしれません。しかし、コロサイ信徒への手紙が伝えている事はとてもシンプルです。一言で言い表すと「キリストを見よ」ということです。

当時のヘレニズムの文化の中で、「世を支配する諸霊」(2:20)がさまざまな災害・災難をもたらすのだという考えがありました。この世は諸霊が支配していて、清い魂は天に上げられるが、そうでない者は天に上がる事ができないという極端な二元論が存在していました。キリスト者の中にも、その考えから抜け出すことができず、極端な禁欲主義に陥る者が多くいました。恐らくは、コロサイの信仰共同体のキリスト者同士で、戒律を遵守するような空気が生まれ、互いに責め合ったり、見張りあったりするような事が起こっていたのではないかと思います。

コロサイ信徒への手紙の著者は、その中で人々にキリストに立ち帰るように伝える必要がありました。12節には「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」とあります。

イエス・キリストの救いは、人間が何かを努力して、それを条件に手に入れる事ができるようなものではありません。努力の度合いに応じて、順番があるわけでもありません。すべての人が、同じように救いに招かれています。私たちは愛されているのです。イエス様が、この世に来られ、すべての救いへの道を開いてくださいました。神様が、イエス様を通して和解の道を示してくださいました。私たちはイエス様の愛を知るときに、愛し合い、赦しあう事ができるのです。私たちはイエス・キリストを見ている様で、自分にしがみついている事があります。「○○しなければならない。」「あの人は○○していない。」そんな思いに支配されることがあります。

「愛は、すべてを完成させるきずなです。」(14節)とあります。

私たちの歩む世界は、不安の多い世界です。しかしこの時にこそ、神様が私たちに示してくださった愛に立ち帰り、イエス・キリストを証して歩みたいと願います。

 

 

 

<説 教> 

『あなたにある神の計画』  森 崇牧師

      コロサイの信徒への手紙 1章2429節( 新共同訳 新約 p.368 

 

今日の聖書の箇所はコロサイの信徒への手紙です。この手紙が書かれた背景には、人がどのように生きたら良いかわからないという現状がありました。そのような人々が生きている地域の教会に向かって「秘められた神の計画」が一人ひとりにあることをコロサイの信徒への手紙では力強く語っています。

「秘められた神の計画」とは何か、と言うと、人は無条件に神によって受け入れられ、愛されている。闇ではなく光に、死ではなく、いのちの方に向かって生きるようにされているということです。「秘められた」とはその神の希望の計画は私達の人生のある一定の時まで隠されているということです。

 私たちはこの世の中で誰かと比べたりすることで自分の小ささや無力さを感じることがあります。ある人は自分に起きた困難や痛みの出来事の中で将来に希望を持てなくなることもあります。病気を患うこと、心の重荷を負うこと、また人から傷つけられたりする中で自分の人生は闇の力に支配されているとそのように諦めてしまうこともあるかもしれません。

しかし、あなたにある神の計画はずっと隠されたままにはされていません。あなたを愛するために神は独り子イエス・キリストを通して、ご自分の愛する神の子としての歩みをお与えくださっています。御子イエスの存在によって全ては神によって受け入れられ、また赦され、御子イエスの十字架によって神との前に隔てのないものとされ、ご自分の聖なるもの、傷のないもの、またとがめるところの無いものとしてくださいました(122節)。

 その御子イエスは、どこにおられるのでしょうか。今日の聖書の箇所では御子イエスはわたしたちの内側におられるのだと告げています。27節「その計画とは、あなた方のうちにおられるキリスト、栄光の希望です」と。

実はこのキリストはわたしたちの内側にいて下さるだけではなく、万物の中に御子イエスは存在しているとコロサイ書は告げています。「万物は御子において造られ、御子によって、御子のために造られた」と聖書が語るとき、私たちはある事実を知らされるようになります。それは「神などいない」と思われるような厳しい出来事や、嘆きと痛みが引き起こされたときにすら、万物の中におられるキリストがその中におられるということです。そのことがわかったとき、私達の人生に引き起こされるあらゆる痛みや苦しみの出来事の中にも、これは御子イエスの光の中に招かれるためであったということが私達には分かるのではないでしょうか。

 今日は「秘められた神の計画」を通して、神が私たちに何を望んでおられるのかを聖書から聞いていきたいと思います。あなたにある神の計画は「キリストを宣べ伝えるものとなること」(1:28)、「キリストに根ざして生きるものとなること」(2:6-7)、「キリストに向かって成長していくものになること」(2:19)です。キリストの平和にあずからせるために、信仰を起こすために常に呼びかけ、種を蒔く宣教の働きと、またその信仰を守り、支え育んでいくために、教会という信仰共同体を主が備えていてくださっています。神の計画にあずかる者が一人でも多く起こされるように、共に祈りを深めていきましょう。

 

 

 

<説 教> 

                  『全く自由に』  奥村献主任牧師

      使徒言行録28章 1731節( 新共同訳 新約 p.270 

 

今日はペンテコステ礼拝です。ペンテコステは、もともとは大麦の初穂の収穫から50日が経ったこと(収穫の終わり)を祝うユダヤ教の三大祝日のひとつ五旬節のことを指します。キリスト教では、この五旬節の日に聖霊が使徒たちに降り注いだという出来事を記念して、このペンテコステを聖霊降臨日として覚えています。

イエス・キリストが十字架にかけられて復活し、天に上げられたあと、使徒たちに聖霊が降り注ぎました(使徒言行録21-13節)。使徒言行録は、この聖霊降臨の出来事ののち、エルサレムから始まって、使徒たちが様々な困難を乗り越えながらも福音を広げていく様子が記されています。

先週の礼拝で分かち合った聖書の箇所(2713節〜38節)で、危機を乗り越えてなんとかパウロはローマにたどり着きました。使徒言行録によると、パウロはローマで、ある程度の活動の自由は許されていたようです。そのような中で、パウロは早速、ローマの主だったユダヤ人たちを家に集めます。そして、自分に対する告発を弁明した後、これまでの裁判の経緯を説明し、最終的に皇帝に上訴したのは、ユダヤ人たちの反対によって起こったのだ、ということを手短に要約して伝えます。そして「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」と伝えます。イエスラエルの希望とは旧約聖書の伝えるメシア的希望であり、パウロにとってそれは、イエス・キリストの十字架と復活の希望に他なりませんでした。

23節には「パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」とあります。神の国について、またイエスについての話をパウロから聞いたユダヤ人たちの反応は分かれました。ある者は受け入れ、他の者は信じませんでした。

皆さんにとって聖霊とは一体どのような存在でしょうか。聖霊に導かれて宣教の業に励んだ使徒たちでしたが、その道のりは順風満帆というわけではありませんでした。パウロ自身も様々な迫害を受けながら、命を狙われて命からがらローマにたどり着いているわけです。聖霊は、必ず私たちの思うままの環境を与えてくれるということはありません。私たちの計画通りに何かを遂行できたからといって、その時にだけ働いているのが聖霊ではありません。使徒言行録における使徒たちの歩みが示すように、聖霊の導きに委ねつつ歩んでも、様々な困難な出来事を示されることがあるかもしれません。しかし、聖霊は無力ではありません。神様は聖霊を限界のある人間に注ぎ、人知を遥かに超えた形で、時代を超えて神様の宣教を成し遂げてくださいます。

 

その聖霊の働きがなかったならば、今を生きる私たちは福音を知ることがなかったでしょう。ペンテコステ礼拝のこの日、神様の注いでくださる聖霊に感謝をしつつ歩み出したいと思います。

 

 

<説 教> 

 

      『元気を出しなさい。何か食べてください』  才藤千津子協力牧師

            使徒言行録27章 1338節( 新共同訳 新約 p.268 

 

異邦人伝道に携わっていたパウロは、主イエスの兄弟ヤコブを筆頭とするエルサレム教会の人々に、受け取ってもらえるかどうかわからない献金を持って会いに行きました。死の覚悟さえ持ってエルサレムに赴いたパウロでしたが、予想されたとおり、ユダヤの民衆に襲われ、エルサレムを混乱に陥れたという罪によりローマ官憲に逮捕されてしまいます(21章)。使徒言行録の著者は沈黙していますが、パウロが持参した献金さえ、エルサレム教会には受け取ってもらえなかったのだろうとも言われます。パウロにとっては、大変厳しい旅でした。本日の聖書箇所は、その後、パウロがローマへと船で送られる時に、嵐にあって船が難破しかけた場面です。ローマへと護送される囚人として船に乗っていたパウロは、嵐の中で翻弄される人々に向かって、神に支えられているという励ましと希望を伝えます。

使徒言行録の著者は、「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは一切消え失せようとしていた」(2720)と記述しています。絶望的な状況でした。しかしパウロは、この嵐の中でも神の声にじっと耳を澄ましていました。神のみ言葉を人々に伝えようとしたのです。パウロは希望を失わなかっただけではなく、勇気ある言葉で人々を元気付けました。パウロは言いました。「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」(2722)「だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。」(27:34)

 コロナ危機の中で共に食事をするのが難しい状況の中で、わたしたちは「不安のうちに何も食べずに、今や魂の食物に飢えている」ように思います。そんな中で、わたしたちは、どのようにして互いに励ましあえるでしょうか。今朝は、パウロの言葉に耳を傾けたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

『神の言葉はつながれていない』  森 崇牧師

      テモテへの手紙二  2813節( 新共同訳 新約 p.392 

 

「しかし、神の言葉はつながれていません」とはこの世で不条理に生きざるを得なくさせられているものの、慰めであり、励ましの言葉だと思います。現代に生きる人々は常に何事かに捕らわれているように思います。言いようのない恐れや不安が漠然とあり、果たして自分は大丈夫なのだろうかと思うことがあります。しかし、自分自身が何事かに捕えられ、先行きの見えない状況下の中にあったとしても、神の言葉はつながれておらず、自由にその力と導きを与えることが出来るものです。人は何事かの奴隷状態に置かれてしまうが、真理の御言葉は全く自由である、ということを覚えておくことはキリスト者にとってとても大切なことでしょう。

今日の聖書の箇所はパウロがローマにおいて捕えられ、迫害を受けていた時に、自分自身の信仰の子テモテに宛てた手紙とされています。教会の指導的立場にあって信仰を導き、また守る立場の者へ、パウロが訓戒と励ましを伝えます。パウロはこの手紙の中で囚人の身分となっていることを明かします。かつてはユダヤ人達から不当に訴えられ、殺そうとされる中でローマの皇帝に上訴をし、半ば自発的意思を持って裁判を受けるために捕えられたことがありました(使徒26:32)。しかし、「犯罪人のように鎖につながれている」という状況は、ローマにおいて起きた大火事件の首謀者がキリスト教徒によるものだというネロ皇帝の陰謀によって多くのキリスト者が迫害を受け、投獄をされ、不当な裁判によって殺されていったということをあらわすものでした。聖書には記されていませんが、パウロや他の主だった信仰者も殉教したと伝えられています。

パウロは無実でありながら犯罪者としての囚人(1:16、2:9)として捕らえられましたが。しかし決して腐ることなく、自分は「主の囚人」であることを伝えています。1章7節からパウロはこのように伝えます。「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。だから、主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ神の力に支えられて、福音のために私と共に苦しみを忍んでください。神が私たちを救い、聖なる招きによって呼びだしてくださったのは、私たちの行いによるのではなく、ご自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいて私たちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。キリストは死をほろぼし、福音を通して不滅の命をあらわしてくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました」パウロはただイエス・キリストによってのみ主の招きと計画とにあずかり、またイエスの福音によって自分自身が宣教者、使徒、教師として立てられたことを証しました。

 パウロが信仰の子テモテに宛てた手紙では、「かの日」という言葉が何度か出てきます(1:12、18、4:8)。この「かの日」とは「生きているものと死んだものを裁くために来られるキリスト・イエス」の日です。この世の困難の中で、復活者主イエスの再び来られる時が近いという緊張感の中で、困難を耐え忍ぶこと、またイエスによって現された福音を語り続けなさい(412)、と信仰の子テモテに勧めています。大切なことは「かの日」を思って生きるのではなく、現在生かされている今です。どれだけ現代に苦しみや迫害が満ちあふれようとも、信心深く生きようとする者には迫害があること(4:12)、またその迫害を苦しみ耐え忍ぶ先に義の栄冠があること(2:10)、そしてそれゆえに困難な時代の中で聖書の言葉に触れ、自分自身の生き方を吟味してただしく生きようとし、またその御言葉をおりが良くても悪くても伝えなさいと伝えられています。神の御言葉はしばられていない、その言葉は一人ひとりの口を通して捕らえられている時代の中で全ての人に自由にわたっていくのです。

 

 

 

<説 教> 

『それでも主を証しせよ』  奥村献主任牧師

      使徒言行録  22302311節( 新共同訳 新約 p.259 

 

パウロは第三回伝道旅行の最後にエルサレムに到着すると、間もなくしてユダヤ人たちから拘束されました。2127節によると、パウロの罪は律法の冒涜と神殿の冒涜でした。ユダヤ人たちは興奮し、パウロを殺そうとしましたが、ユダヤ人たちだけではパウロの罪に対して判決を下すことができなかったため、パウロはローマの手に委ねられました。パウロはローマ帝国の千人隊長や民衆の前で弁明をしました。パウロはもともと熱心にキリスト者を迫害していたこと、ダマスコに近づいた時、イエス様からの語りかけを受け、回心したことなどをヘブライ語で語りました。この話を聞いたユダヤ人たちは、やはり激昂しました。しかし、ローマ帝国の千人隊長は、なぜユダヤ人たちが騒ぐのかが理解できません。

次にパウロは今日の聖書の箇所で、最高法院の議員たちに弁明をします。パウロは巧みに、聴衆である議員の中のファリサイ派の人々に響く言葉をもって語りかけます。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」(6節)。この言葉を受けて、騒ぎはさらに大きくなり、議会は分裂しました。多数派であったサドカイ派の議員たちは激昂し、パウロに襲いかかろうとしました。一方で、ファリサイ派の議員たちは「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言うほど、パウロが何の罪でここに連れてこられたのかが分からなくなるわけです。パウロが巧みな言葉をもって最高法院を混乱させたのは、パウロ自身が遂行すべき神様の宣教がまだあると感じていたからに他なりませんでした。混乱の中、パウロは兵士たちに力ずくで救い出されたと記されていますので、おそらくはパウロを殺そうとする人々にもみくちゃにされながら、なんとか救い出されたのではないかと思います。

おそらくは心身ともにボロボロになったパウロに、その夜、主がそばに立って「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」と語られ、励ましを与えられます。神様はパウロがこれまでの伝道旅行の中で復活のイエスキリストを証する姿を、つぶさに見ておられました。至るところで、様々な迫害に遭いながらも、ひるむことなく語り続けたパウロ。今日の聖書で神様がパウロに「勇気を出せ。」と語りかけていることから、いかなる時も勇敢に見えるパウロもさすがにこの時、勇気を失いかけていたのではないかと思います。

キリスト者は日々の生活の中で、神様を証しすることができているでしょうか。キリスト者がイエス様を知らない人々に、ただ「イエス・キリストは私たちの救い主です!」とだけ突然述べても、多くの人には響かないかもしれません。今日のパウロのように、私たちは証しする場と目の前の人々を念頭におきながら、伝わる言葉を持って神様を証しし続けたいと思います。神様はパウロに対して、権力と政治の中心であったローマでも、力強く証ししなさいと伝えました。私たち人間にとっては、「絶対に無理だ、伝わるはずがない。恐ろしい。」と思われるような場所においても、神様を証しなさい、勇気を出しなさいと神様は語っておられます。教会の歩みが極めて困難に思われる時代の中にあっても、神様の宣教を遂行するために、先立つ神様の宣教のご計画にすべてを委ねつつ歩んでいきたいと願います。

 

 

 

<説 教> 

『そして今、“霊”に縛られて』  森 崇牧師

      使徒言行録  2022-38節( 新共同訳 新約 p.254 

 

「そして今、に縛られて」とは22節にある「に促されて」の別の訳語です。パウロはこの箇所においてエフェソのキリスト者たちに宛ててお別れのメッセージをしています。人は一生会えないということがすでに分かっているのであれば、その別れの場面は涙や様々な感情がこみあげてくるものです。パウロはここで、自分がエルサレムにて捕えられ、ローマにて投獄されて自分の人生が終わるということを聖霊によって知っていました。ですから、パウロが言わんとしていることは、もはやこれは自分の意志ではなく、神の意志によって捕らえられて連れていかれてしまうのだ、ということでした。聖書ではこの「促される」という言葉を「バラバが投獄される/死んだラザロに包帯が巻かれる/ペテロが鎖に繋がれる」などと幅広く訳されてきましたが、どれも身体的な拘束を伴う言葉です。一見否定的な言葉ですが、パウロは自分の晩年襲い掛かる試練と苦難は、「『聖霊』による縛り」なのだと告白しています。それはどのような苦難も、神の意図が縒り合されており、最後まで主と共に生きようとするパウロの熱意があります。

聖霊によって縛られる、あるいは聖霊によって繋がれることをパウロは三つのこととして告げています。一つは聖霊によって「使命」に繋がれる(2226)ということです。パウロが繋がれた使命とは「神のめぐみの福音」と「神の御国」をのべ伝える宣教の使命でした。その働きにはひとつの悔いもなく、ひとつの落ち度もなく働いたと告げます。二つ目は「教会」に繋がれる(2831)ということでした。神が御子の血によってご自分のものとされた信仰者たちが、この世の苦難の中で信仰から離れてしまわないように、信仰者の群れである教会という共同体に結び合わせて下さったのだと告げます。パウロはここを離れたのち、群れを荒らすものや邪説を唱える者の存在が出てくることをパウロは知っていました。その様な時が来る前から常に目を覚まして祈り、互いに牧会に励むように勧めています。三つめは「み言葉」に繋がれる(3235)ということでした。パウロは聖霊の縛りを、外に出ていく宣教の使命と、そしてまた信仰者の交わりと守りの核となる教会と、また一人ひとりの魂がみ言葉によって捕らえられ、結ばれるという外の働き、内側の働き、そして魂の守りについて伝えました。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」とは、最終的には御子イエス・キリストがお語り下さった「受けるよりは与える方が幸いである」というみ言葉へと帰結します。それは、イエスご自身が神の身分で在りながらも人となられ、十字架の死に至るまでご自分を与え続けることが出来たからです。主がそのように生きられたのですから、自分自身と周りの人を助ける共助の関係に生きるように招かれ、またそのような主の姿を示し続けることこそ、キリスト者の誉れだとパウロは私たちに告げています。

 

 

 

<説 教> 

   『恐れるな。語り続けよ』  奥村献主任牧師

           使徒言行録  181-11節( 新共同訳 新約 p.249 

 

「使徒言行録」という書簡は、単に使徒たちの行動や言葉の記録というよりも、復活の主の宣教命令によって福音が、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、地の果てローマまで伝えられ、各地に教会が建設されていく様子が描かれています。復活の主の宣教命令は18節に記されています。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

復活のイエス様が天にあげられた後、使徒たちに聖霊が与えられて、エルサレムから福音が大きく広がっていくという様子が記されています。

今日の箇所でパウロは、第二回宣教旅行の中でコリントの街に到着します。コリントは、東西の流通をつなぐ街であり、商業都市として繁栄していました。そこに住む多くの人々は道徳的に堕落し、当時の言葉で「コリンとする」とは「不品行を行う」ということが意味されたほどでした。そのような街で、パウロは同じテント造りの職業アキラとプリスキラに出逢い、共に仕事をしながら、安息日ごとに宣教に励みました。この二人との出会いはパウロにとって大きな励ましであったに違いありません。そして、シラスとテモテがコリントに到着した後、パウロは宣教に専念しました。

商業で繁栄している一方で、多くの人々が堕落していたコリントの街。宣教をするには、最悪の環境とも言えるこの街で、おそらくは協力者と励まし合いながらパウロはなんとか福音を語り続けました。しかし、「メシアはイエスである」という福音は、ユダヤ人には響かず、反抗され、口汚く罵られるわけです。

私たちは日常において、イエス・キリストの福音を人々に語ったとしても、パウロが受けたような直接的な反抗や、罵りを受けることは少ないかもしれません。しかし、世界規模で経済優先の社会が進み、人々の価値観が急速に変化するこの世界にあって、私たちは無意識に語ることを諦めてしまうことが多くあるかもしれません。また、人と人とが対面で言葉を交わすことが困難なコロナの影響下にあって今日、宣教に取り組むことは容易ではありません。

今日の聖書で神様は「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」と語ります。私たちが福音を語る時、たとえ多くの困難が予想されようとも、復活の主が共にいて「語り続けよ」と私たちを励ましてくださるのです。

限界や弱さをもつ私たち人間という器を用いながら、神様ご自身が宣教してくださいます。極めて困難な状況が私たちの目の前に広がっていたとしても「わたしの民が大勢いる」と、その只中に信仰の友を示してくださいます。私たちの常識を遥かに超える、神様の先立つご計画に身を委ねつつ、私たちは恐れずに復活のイエスさまを語り続けたいと願います。

 

 

 

<説 教> 

『知られざる神に 』     森 崇牧師

      使徒言行録  1722-31節( 新共同訳 新約 p.248 

 

キリスト教を世界に広げることになった大きな立役者の一人は、パウロです。エルサレムで十字架刑に会い、復活されたイエス・キリストをパウロはのべ伝えていくことになるのですが、彼は元々厳格なユダヤ教の護教者であり、キリスト教を迫害していた側でした。エルサレムにいるキリスト者がユダヤ・サマリア地方周辺に散らばることになったステファノの殉教においては、パウロもそれを承認していました。しかし彼はついにキリスト者を追い詰めて殺そうとする道の半ばで、強烈な光を受け、歩けなくなる中で神との出会いを果たします。パウロは「あなたは誰ですか?」と問うと、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」との声がありました。パウロは熱心なユダヤ教信者で在り、聖書にも通じていながらも、実はその神を知ってはおらず、自分が迫害しているものの中に復活された救い主は傷つき、痛みを抱えながらも生きておられるとの体験を持つことになりました。「知られなかった神」が「知られる神=イエス・キリスト」としてパウロの前に顕れ、彼をイエスと復活の福音宣教者としたのです。

パウロは第二次宣教旅行の最中にアテネを訪ねました。アテネは芸術や文化の街であり、哲学も栄えた街です。その街の中で至るところにある偶像を見てパウロは憤慨しました。パウロは至る所で人々と論じ合い、イエスと復活について福音を告げ知らせました。町の人々はアレオパゴスという丘にパウロを連れていき、パウロの話を聞きました。彼はアテネの人々の信仰のあつさを認めます。しかしそれは同時に「迷信深い」という意味も含んでいました。かつてアテネで活躍した哲学者がコレラの伝染病の恐怖の中にあったときアレオパゴスの丘より、羊を大量に放って、羊が止まったところに『知られざる神に』という祭壇を築きました。パウロはそのことを引用しつつ、「知られざる神」とは何かを伝えます。それは第一に、世界と万物を造られた唯一の神がおられるということ、そしてこの神こそは天地の主、すべてのものをすべ治める主であることを告げました。この偉大な方は人間が作った神殿などには御住みにならないことを伝えました。第二に、この方は全てのことに不足は無く、また至る所で不足しがちな人間の「命と息と万物」を備えられる方であることを告げました。第三には一人の人アダムから全ての民族は生まれたように、民族と民族の間には、区別や差別、あるいは優劣は存在しないということ、また誰であれ人は神の息を吹き入れられて初めて生きるものとされているので、誰であれ、求める者には見いだすことが出来る神であることを告げました。第四には神の子孫としての尊厳を与えられた人々が、金や銀、石などで造った偶像を拝むことを忌み嫌う神であることを示しました。また人間にはそのような生ける神を離れて偶像崇拝をしてしまう罪から悔い改めることが必要であることを告げられました。第五には、イエス・キリストこそは最後の日の審判者として立てられた復活者であることを語りました。しかし死者の復活についてはアテネの人々には受け入れられませんでした。ですが、パウロがアテネの人々に偶像崇拝から立ち帰るようにと熱意をこめた説教に応答した人々が何人かいたことを聖書は記しています。日本においてもアテネのような偶像の多い場所ではあります。パウロのように神の御言葉を伝えようとするとき、生ける神様へまことの悔い改めが起きることを確信しつつ、イエスと復活について語り伝えていきましょう。

 

 

<説 教> 

『ここにはおられない 』     奥村 献主任牧師

      マルコによる福音書  161-8節( 新共同訳 新約 p.97 

 

イースター、おめでとうございます。

 

今日は、礼拝の中でバプテスマ式が予定されています。教会にとって、これほど喜ばしい事はありません。バプテスマ式では、バプテスマを受けるものがイエス・キリストの十字架の死と復活にあずかり、信仰者として新しい命に生きるものとなったことを教会で告白します。イエス・キリストを主と信じ、受け入れ、キリストに従って生きることを決断した者が、そのことを信仰告白によって教会に公にし、教会の承認のもとに受けるバプテスマ。それは同時に、キリストの身体である教会の群れに加わるという事も意味します。

このイースターの時に与えられたバプテスマの出来事を教会に連なる私たち一人ひとりも心して受け止め、イエス・キリストの十字架の死と復活に共にあずかり、信仰を新たにされる機会となればと願っています。

 今日の聖書で、白い長い衣を着た若者は「イエス様はここにはおられない。」と、イエス様の墓を訪れた女性たちに語りました。

 墓を訪れた女性たちは、十字架で苦しみを受けて息を引き取り、墓に葬られたイエス様の姿を見ていました。おそらくは、十字架で苦しまれたそのイエス様の姿を思い起こしながら、いてもたってもいられなくなったことでしょう。せめて亡くなったイエス様の体に香油を塗ろうと、墓を訪れました。しかし、墓に着くと入り口に置いてあった大きな石は脇へ転がされ、墓の中にイエス様の体はありませんでした。

 マルコによる福音書は、今日の聖書の最後である168節までをもって、本来完結していると言われています。つまり、女性たちが墓を訪れたけれどもそこには何もなく、御使いからイエス様は復活されたのだということを告知され、女性たちが震え上がるというところで、この福音書は終わっているというわけです。

 この唐突な終わり方のゆえに、研究者によってはマルコ福音書にはこの続きがあるのではないかと主張する人もいます。しかし私はこのユニークで謎めいたマルコの終わり方が、とても大きな意味を持ち、わたしたちに大切な事を伝えているように思えてなりません。

 8節には「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とあります。「死」というどうする事もできない出来事に打ちひしがれていた女性たちの前に、想像を超える出来事が起こり、全く理解することができないような告知がなされ、混乱が起こるわけです。

私たちは見えるものに支配され、不安を覚えながら日々を歩むものです。今日の聖書は「ここにはおられない」イエス様を示されます。十字架で苦しみ、確かに死んだはずのイエス様が、墓にはおられないのだという告知。この私たちの想像や理解を遥かに超える出来事を通して聖書は、死に勝利されて復活したイエス様が、今も生きておられる事をのだという福音を伝えます。

 日々聖書からみ言葉をいただきながら、神様の恵みへの応答の歩みを進めることを通して、私たちは「ここにはおられない」復活のイエス様にお目にかかることができます。この希望に与かりながら、共に励まし合いつつ日々を歩んでいきたいと願います。

「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコによる福音書167節)

 

 

 

<説 教> 

 

『一粒の麦の栄光 』     森 崇牧師

      ヨハネによる福音書  1224-28節( 新共同訳 新約 p.192 

 

本日から一週間、私たちは受難週を迎えます。イエス・キリストが十字架に向かわれる受難の道行を覚えるひと時です。

ヨハネによる福音書では「栄光」とは十字架と復活のことを指しています。「人の子が栄光を受けるときが来た」とは十字架を受けられる時が来たという意味です。十字架と復活の栄光とは、イエス様が十字架上で死なれ、また一粒の麦を地に撒けばそこから麦となり、多くの実りが与えられるように、十字架の死と、復活の実りである、と言われています。一粒の麦とは、もう一つの大きな意味もここには含まれています。それは「粒麦」という意味です。これはすべての麦種がそのように生きることができる、ということです。すなわち、聖書が語る一粒の麦とは、いのちが与えられている私達一人ひとりにほかならないのだ、とイエス様は言われています。

イエスさまは主の受難から「助けてほしい」「救ってほしい」と願いますが、同時にイエスさまはこの受難の時のためにこそわたしはきたのだ、と言われます。そしてこのように祈ります。「父よ、御名の栄光を現してください」御名の栄光とは、主なる神様の栄光のことです。「栄光」と言う言葉は元々ヘブライ語で「重い」を意味します。神様によって重くさせられること、それが栄光です。「私の目にあなたは値高く尊い。わたしはあなたを愛している」と聖書にある言葉こそは、神様の栄光を最も良くあらわすものです。

みなさんはご自分のことをどのように考えておられるでしょうか。自分が神によって重くさせられている、大切に思われている、と思われるでしょうか。

この世界に於いては、むしろ自分の軽さだけが際立っているのではないでしょうか。吹けば消えてしまうような人生の儚さ。無力感。自分こそは価値のないものなのではないかと考えしまう時はないでしょうか。イエスさまの「御名の栄光を現してください」という一言こそは、そのような苦しみを受ける人生の悩みと呻きから出たのだと思います。

これに対して父なる神は答えます。「わたしはすでに栄光を現した。再び栄光を現そう。」

この神の言葉は、ヨハネ福音書に置いて際立っている言葉です。それはヨハネ福音書に置いて唯一、イエスさまの言葉に対する応答として、神が受難を受けるイエスさまに直接告げられる言葉です。

それはイエスさまが、「わたしの人生は軽んじられている。重くさせられていない、十字架に向かうために、神さま栄光を現してください」と祈るのに対して、父なる神は、「嫌、そうではない、わたしはすでに栄光を現している。そして再び栄光を現そう」と告げているのです。

それはつまるところ、何なのかというと、「今あなたが生きている命そのものがわたし(神)の栄光なのだ」という事です。あなたが十字架にかかるから主の栄光が表されるのではなく、十字架に向かう道行の中であなたが生きている、そして人々にみ言葉を語って聞かせている、それがすでにわたしの栄光なのだと言われます。

 

 

<説 教> 

『一緒に祈ってください 』     奥村献主任牧師

      ローマの信徒への手紙 1530-33節( 新共同訳 新約 p.278 

 

20203月、平尾教会の主任牧師であった平良憲誠牧師が辞任をされました。時を同じくして、新型コロナウィルスの感染が拡大し、世界中に大きな混乱が広がりました。大変な状況の中で、教会がこれまで二年間の歩みを続けることができたことを神様に心から感謝したいと思います。

 教会が新しく牧師を迎えるということは、大きな決断であり、それは多くの祈りを必要とする出来事です。牧師として立つ者が、どれだけ学んで備えても、どれだけ経験を積んで自信をもっていたとしても、教会の祈りと協力なくしては、立っていくことができません。きっと牧師としての歩みは、想像を超える出来事の連続であり、皆さんの祈りと支えなくしては成り立たないからです。

 先日発行された、バプテスト誌の4月号に、日本バプテスト連盟理事長の加藤誠牧師と宣教研究所所長の朴思郁牧師の対談が掲載されていました。「つながって 共に歩む」と題されたその対談では、これから連盟の機構改革が本格的に進められていく中で、これからは教会も新しいあり方が求められているということが語られていました。これまで多くの教会は、アメリカの南部バプテスト連盟の教会形成をお手本として歩んできたが、これからは教科書も青写真もなく、他の教会とつながりながら祈りあって歩む必要があるのではないかとのことでした。その対談を読みながら、あらためてこの時代にあって教会同士が協力伝道の輪の中でつながっていくことの大きな意味を感じました。同時に、個別の教会の組織においても、祈りあい、支えあうことが、これからより一層必要とされるだろうということも感じました。

 パウロは今日の聖書で「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」とローマの信徒たちに訴えました。これからの働きが、多くの困難に見舞われるということがパウロ自信、予想できていたからでした。「熱心に」という言葉は、ギリシャ語で「συναγωνίσασθαί(シュナゴーニサスサイ)」という言葉が使われています。この言葉は「共に力を尽くして」または「共に戦って」という意味をもっています。

 この混乱する時代にあって、キリストに従って生きるということは、容易なことではありません。正しく生きようとしても、何が正しいことであり、何に抗うべきかわからないことが多くあります。

しかし、私たちは諦めることなく、キリストの平和を求めて歩んでいたいと思います。武力や権力による力の支配が世界を包み、世界が大きく混乱する中にあって、教会はそれでも歩みを進めていきます。

 一人で立っていくには限界があります。み言葉に聞きながら、祈り合い、支えあってこの時代を乗り越えていくことができればと願っています。

 力による支配ではなく、キリストの平和を求め「共に戦って」愛と赦しの支配を求めて歩んでいたいと思います。平尾教会の新しい年度の歩みが、新しい牧師とはじまります。互いにつながり、祈り合いながら歩みを進めていきましょう。

 「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように」(ローマ15:33

 

 

 

<説 教> 

『なぜ「不信心な者」が「義なる者」なのか 』 青野太潮師協力牧師

       ローマの信徒への手紙 41-8節( 新共同訳 新約 p.278 

 

1972年のあの「連合赤軍事件」から、今年の2月でちょうど50年になりますために、マスメディアでも事件のその後がさまざまに取り上げられておりましたが、今日の説教と深く関係する印象的なエピソードがありましたので、それを紹介させていただきたいと思います。

224日のNHK「クローズアップ現代+」でも、無期懲役となって服役している吉野雅邦受刑者(現在73歳)に焦点を当てた番組が放映されておりました。「50年目の『独白』 あさま山荘事件・元連合赤軍幹部の償い」というタイトルでした。「連合赤軍」とは、急進的な武力による革命思想を抱いた若者たちのグループで、栃木県真岡(もおか)市で革命のための猟銃を強奪、追い詰められて長野県軽井沢町の「浅間山荘」に立てこもって、警察官二名を含む3名の死者を出す大事件を起こしました。クレーンで操作された大きな鉄の玉が山荘のコンクリートの壁に穴を開ける映像がテレビで流れたことを今でも憶えている人は多いことでしょう。しかし実は、それよりも前に、彼らは極寒の群馬県の山中をさまよいながら、軍事訓練を行ない、「総括」と称して、何と仲間の12人をリンチで殺害するという凄惨な事件を起こしていたことが、後になって明らかとなりました。吉野受刑者も、我が子をお腹に宿していた恋人の女性を、「総括」に反対すれば自分の身にも危険が及ぶことを見て取って、彼女の処刑に加担して殺害してしまっておりました。

吉野受刑者は、今や、自らの罪を悔い改め、誰もが認める模範囚となって服役しているそうですが、そのかげには、吉野被告の裁判を担当した裁判長・石丸俊介さんの、こうした極悪人とも言うべき若者たちへの温かい眼差しがありました。そして石丸さんは彼らに、「全存在を賭けて罪を償ってほしい」と語り掛けました。

番組では明言されていませんでしたが、この石丸さんは明らかにクリスチャンの方で、これまでに吉野受刑者に書いた40通以上の手紙の一部が大きく画面に映し出されていました。そのなかには、ヨハネ福音書1512節の、イエスの言葉としての「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」や、ローマ書545節の「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを、私たちは知っているのです。希望はわたしたちを欺くことはありません。私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」などの言葉が引用されていました。最後の「神の愛」という文字は、赤い字で大きく書かれていました。

しかし、今日の説教テーマとの関連でより注目すべきだと思われる石丸さんの言葉は、次の言葉であろうと思われます。

「私は吉野くんに自己を見ています。」

「わたしの願いは<平凡な万人の平凡な生です>。そのために、どんな弱者一人たりとも、死んではならない、奪ってはならない、ということです。天皇のウルトラ信奉者だった私の願いです。<革命>は、いかなるイデオロギー、哲学でもってしても、弱者には無用である。このことを私は先の大戦から学びました。」

1944年、19歳だった石丸さんは、陸軍士官学校を卒業後、軍隊に入り、滅私奉公、天皇に命を捧げる、という思想を徹底する天皇のウルトラ信奉者となり、ビルマ戦線に従軍し、しかし、迎えた敗戦と、おびただしい数の犠牲者を前にして、深く自らの生き方を反省するに至りました。石丸さんがいかにして聖書のことばに出会っていかれたのか、それは番組では何も語られてはいませんでしたが、彼は「連合赤軍」の青年たちの「狂気」を、かつての自らの「狂気」と同じだと見て取っておられるのです。それゆえに石丸さんは、「私は吉野くんに自己を見ています」と語られるのです。あの凶悪犯の青年は、実は自分以外の者ではないのです。極悪人は、実は自分自身なのです。

括弧つきの「正義」によって人を断罪し、生命まで奪っても構わないと考える「義人」としてではなくて、「平凡な万人の平凡な生」を生きることが大切なのだ、と石丸さんは言われるのです。「不信心な者の生」としか言いようのない、平平凡々な生かもしれませんが、それこそが、すべての人に与えられている、かけがえのないすばらしい生なのだ、ということではないでしょうか。そして、極悪非道な罪人でも、招詞のマタイ福音書5章4345節に語られていますように、神さまにとっては、大切な「天の父の子たち」なのです。神さまは、すべての者を、ひとしく愛し、救いを約束してくださっているのです。ですから私たちは、その大いなる約束のなかで、「不信心な者をそのままで義としてくださる神さまを受容する、受け入れる、という意味での信仰」へと「悔い改め」ていくべきなのです。決して「悔い改めたから救われる」のではありません。むしろ、神さまによってすべての者に救いが約束され、提供されているからこそ、わたしたちは「悔い改める」のです。そして全存在を賭けて、神さまのその無限の愛に応答していきたい、という願いへと導かれていくのではないでしょうか。

願わくは、そのような生を、わたしたちがご一緒に選びとっていくことがゆるされますように。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

 

 

<説 教> 

   『ゲッセマネの祈り   崇牧師

       マルコによる福音書 1427-42節( 新共同訳 新約 p.92 

 

主イエス・キリストの受難の深まりを覚えて今私たちは時を過ごしています。本日の聖書個所は二つのシーン「ペトロの離反を予告する」「ゲッセマネで祈る」となっています。新共同訳聖書の小見出しはギリシア語本文の聖書にはないもので、そのシーンを分かりやすくするために、翻訳者によってつけられたものです。ある聖書学者はこれを「ゲッセマネへの道」としています。救い主イエスが十字架に向かわれる道は、ひたすら孤独な道であったことを覚えたいと思います。

 イエス様が十字架刑へと捕えられる直前になされたのがゲッセマネでの祈りでした。この祈りの場においてペトロ、ヤコブ、ヨハネといった弟子たちの中でもよりイエス様に近かった弟子たちを引き連れて祈りに行き、弟子たちには自分の心情を吐露して「わたしは死ぬばかりに悲しい、ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。「ひどく苦しみはじめ、死ぬほど苦しい」(聖書協会訳)思いをされたのです。イエス様の精神的痛みは、死を招くほどのものでしたが、それはこの後に弟子たちから裏切られること、またゲッセマネからの道を一人で十字架に向かわなければならなかったからでした。

イエス様はゲッセマネの祈りを恐らく三度くり返されました。その祈りは旧約聖書の詩篇42-43章における三回の祈りを連想させるものでした。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、/わが神なる主をほめたたえるであろう」(口語訳42:542:1143:5)思い悩みや激しい絶望の元に置かれていたとしても、神を待ち望むその信仰において主なる神は助けて下さるとの信仰の祈りです。これをイエス様は覚えておられ、ゲッセマネの祈りとされました。

その祈りはいたってシンプルなものでした。全能者である「神」を「お父ちゃん」、「アッバ、父よ」と親しい名で呼び、神である主に不可能なことはないことをまず祈りました。自分の前に置かれている受難の杯、杯は主の晩餐においてはわたしの血、契約の血を示すものであり、弟子たちとの関係性においては「受難とバプテスマ(死と新生)」マルコ10:38-39を示すものでした。イエス様はこの杯が取りのけられるように、と願いつつも、しかし自分の願う事ではなく、父の御心に叶う事が行われますように、と祈られました。ゲッセマネの祈りは、神の御心のみを第一とする私たちの祈りの基本です。

 

弟子たちに願われた「目覚めていなさい」とは単に肉体的に目覚めていなさいという事ではありません。この言葉は終末的な意味を含む言葉です。すなわち、神の時(41節)が実現しようとしている今、イエスとともに目を覚ましていなさいという事でした。しかし残念ながらイエス様の三度の祈りの時には、弟子たちは三度とも完全に寝てしまいます。ペトロに対しても、「鶏が二度なく前に三度あなたはわたしを否むだろう」とイエス様に言われ、主の晩餐から夜も明けぬうちに、そのイエス様のみ言葉は残念ながら成就してしまいます。これは弟子たちの代表格であった岩というあだ名が付けられるほどのペトロであってもイエス様を裏切ってしまったということが注目されます。しかし、それはすなわち、最も大切なこととしては、十字架に向かわれる前夜には、ただ一人イエスを除いて目覚めていた人はいなかったという事であり、ただ一人、イエス様だけが世の闇の中、勝利された方として祈り続けておられたという事を鮮明に語っているのだと思います

 

 

<説 教> 

 『救いと助けを待ち望む主の食卓   崇牧師

       マルコによる福音書 1422-26節( 新共同訳 新約 p.91 

 

 イエスさまはこの過越の食事をかなり前もって準備されていたようです(14.12-17)。ユダヤ人が自分たちの救いと、自らの神を思い出し、子どもたちに語って聞かせるための物語を含んだ過ぎ越しの食卓でした。当時その食事をする時には限られた人だけではなく、多くの人を招いた共食の食事のひと時でした。鳥一羽食べ切るのに4人が必要なように、残さず食べ切る子羊はどれだけの人数が必要だったでしょうか。

イエスさまが開いたこの過越の食事には12人の弟子がいたと言われています。これにはもちろんイエスさまを裏切ることになるユダも含まれています。聖書で「裏切る」と書いてありますが、むしろここでの意味はイエスを十字架に「引き渡す」という意味です。

 話を戻すと、元々の過越の食事をするというのが自分たちの救いの出来事を女子供老若男女で分かちあうという本質的なことを考える時に、この時の過越の食事に男性しか居なかったとするのは圧倒的な不自然です。5000人の給食時には男が5000人いたとあるように、女性や子どものことは聖書はあえて記さなかったと覚えておくことは大切なことかと思います。屠られた過越のための子羊は、主イエスをかこんでイエスに従って来た全ての女性を含む弟子たちと共に分かち合われた事でしょう。

 イエスさまは食事をしている時にパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取りなさい、これはわたしの体である」また盃も同じようにされて感謝の祈りを唱え、彼らにわたし、ひとつの盃から飲みました。そしてその後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と言われました。

私たちはこの十字架の前夜になされた主イエスの食卓が、その後キリスト教会において固く守られて来ている主の晩餐の原型になったことを知っています。主の晩餐に置いてイエスさまがどのようなことを願いかつ言われたのかを今日のメッセージで分かち合いたいと思います。

 ひとつ目には「裂かれたパン」とは、十字架上でいのちを裂かれるキリストの体そのものでした。かつて過越の食事において裂かれるパンと言うのは自分が奴隷であったことを思い起こさせるパンでした。奴隷はひとつのパンを食べることが許されてはいなく、裂かれたパン、クズになったパンしか食べられませんでしたから。しかし、主イエスさまは、その奴隷の象徴であった裂かれたパンを、ご自分の命そのものを裂いて分け与える、という十字架の恵みへと意味を変えられて人々に伝えました。裂かれたパンを「わたしの体である」とイエスさまが端的に言われたのは、「わたしはあなたと共にいる」「わたしはあなたを導き出す」と言うインマヌエル神は我らと共にいてくださると言う事をいつまでも覚えておけるようにされた言葉でした。

 盃におけるイエスさまの言葉の二つ目は、イエスさまが十字架に磔にされる事を現したものでした。「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われているのは、過去子羊の血をもって神の民とされていた人々が、これからは毎年の犠牲ではなく、キリストが十字架におかかりになられると言うただひとつの犠牲、そしてそこにおいてのみ流される御子イエスさまの血潮によって、罪の奴隷ではなく、神の子として私たちを贖ってくださると言う事を約束したものでした。過去過越の食事においてなされて来た四つの盃の「運び出す」「救い出す」がパンにおける「わたしの体である」において言い表され、また「贖う」「わたしの民となる」という二つの約束が、「わたしの血、契約の血である」ことを表した可能性が大いにあります。

 今日、私たちはユダヤ教の「過越の食卓」が、イエスさまに置いて「主の晩餐」へと変えられていったのかを共にしてきました。それでは、イエスさまがなしてくださった「主の晩餐」が現代のわたしたちにおいてどのような意味を持つかについて分かち合っていきたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

 『生きているものの神    崇牧師

      マルコによる福音書 1218-27節( 新共同訳 新約 p.86 

 

(説 教)

 おはようございます。「死者が生き返る」という思想は、聖書の最初からあったわけではありません。実は聖書を読んでいくと、「死者の復活」という思想の萌芽は、バビロン捕囚というイスラエルの民族の人たちにとっての憂き目の中で生まれて来たものです。それはどうしようもならない、争うことの出来ないほど大きな災害や、戦争、あるいは疫病の中で、大切な人を失い、関係性を失い、失望と絶望、あるいは困難な現実を受け止めきれないような中で、生み出され、また紡がれて来た希望です。「死者の復活の希望」と言うのは、実際に死者が復活して生き返るということももちろん希望のひとつではありますが、もっと大きな根本的なところを言うと、たとえ死人が復活しなくても、悲しみや痛みを抱えている人の内側に、今日も生きていこう、明日も生きていける、という希望が内側に生まれること、そのものが「復活の希望」なのだと思います。

 今日の聖書箇所では「復活はない」と言っているサドカイ派の人々がイエスに質問をする話です。サドカイ派とは聖書(旧約聖書のこと)のモーセが書いたとされるモーセ五書(創世記ー申命記までの書)を重要視していました。ですから知恵文学や預言書などを重視していませんでした。「復活信仰」とは主に預言者イザヤを始めとして、エゼキエル、ダニエル、或いはヨブと言った人たちによって深められていった思想ですから、サドカイ派の人たちにとってしてみたら重要視しなかったのは当然の事だと思います。聖書はモーセ五書だけとしていたのですから。

 彼らがイエス様に問うたのは「7人の男の妻となった女性は、復活の時に復活させられたら誰の妻になるのですか」と言った質問でした。当時は子どもがないままで夫が死ねば、夫の兄弟がその妻を娶り、子どもが生まれたら、亡くなった夫の子として育てていたそうです。家族のため、あるいは故人の名を絶やさないために、生きている人のための法律をモーセは残しました。サドカイ派の人々は「復活はない」としながらも、もしも復活の時に復活したらどのようになるのですか、とイエス様に問いかけました。23節に続いて書いてある復活とは、復活なんてあるわけないけれどももし復活が起きたとしたら、としています。

 それに対して、イエス様は「あなた方は聖書も神の力も知らないので大変な思い違いをしている」とお叱りになられました。聖書も神の力も知らない、とは衝撃的な言葉です。たしかに私たちはどれだけ最初に精通して読んでいようとも、それぞれの考えには深淵があり、捉えたと思っても捉えきることのできないことが多くあります。とりわけ私たち人間の浅はかな知恵では本当の理解に達することは本当に難しいものです。牧師も聖書を完全には理解することが大変難しいと思います。

 イエス様が「聖書も神の力も」と言われている聖書と神の力という平行関係には大変励まされます。聖書のみことばには、神の力をも含まれているのです。パウロは死者の復活において、「私たちの朽ちるべき体が、キリスト・イエスの再臨においてご自分の栄光あるからだと同じように変えてくださる」ことを約束しています。フィリピの信徒への手紙3.20-21「しかし、私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを私たちは待っています。キリストは万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形にかえてくださるのです」再び来てくださるキリストとは復活されたイエス様のことです。先ほど「死者の復活」信仰が、どうしようもない混沌から始まったと告げましたが、その信仰の始まりとして主イエス様の復活が起こされます。それは復活の希望です。死が一人の人アダムから始まっていったように、紛れもなく一人の人イエス様から復活のいのちは始まってすべての人に渡っていくという途方もなく計り知れない神の力であります。

イエス様はそのような意味で、25節「死者の中から復活する時には、娶ることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と告げられました。「天使」とは口語訳の聖書では「天にいる御使」と訳されていますが、イエス様の言葉のより重要性を伝えるには口語訳の「天にいる御使」が良いと思います。それはすなわち、地上において天使のようになるのではなく、天における御使になるのだと告げられている点です。つまり、死者の復活という出来事は地に属するものではなく、天に属する、人間の考えではなく、主なる神の考え、そして天の領域における出来事なのだと告げられます。

 

 

 

 

<説 教> 

 『祈りにおける大切なこと    崇牧師

      マルコによる福音書 1112-25節( 新共同訳 新約 p.84 

<説 教>

 おはようございます。マルコによる福音書からメッセージを届けてきましたが、物語が終盤に差し掛かってきました。マルコ福音書は11章からイエスさまのエルサレム入場を記しています。その際には平和をもたらすために来られた柔和な存在であることを現す子ろばにのって入場をされ、多くの人が自分の服を道に敷いたり、あるいは野原から葉のついた枝を切ってきたりして、イエスさまを迎えたのでした。しかしイエスさまご自身は神殿のあったエルサレムに留まるのではなく、マルタやマリア、ラザロと言った弟子たちの故郷であったベタニアという街へ留まられました(11)。

マルコ福音書においてはエルサレムという場所は神殿があると言うだけではなく、イエスさまを殺そうとする祭司長、律法学者、長老たちがいる拠点です。今日の聖書の話に於いてはいちじくの木の話に挟まれるようにして、神殿から商人を追い出す話があり、マルコ福音書によく見られるサンドイッチ構造を持った話なのですが、エルサレム神殿での話を中心に、その周辺ではエルサレム外の道端で起きたいちじくの木が枯らされる話が展開されていることを少し覚えておいてください。

さて、本日の読まれた聖書の箇所でイエスさまに対する疑問が幾つか出てきていると思います。「なぜイエスさまは実のならなかったいちじくの木を枯らしてしまったのだろう?」「イエスさまがいくら空腹でもそれはちょっとやりすぎなのではないか?」「そもそも実がなる時期でなかったと言われているのに、非常識なイエスさまの態度だな」と。

この話に関する質問は、多くあって良いし、綺麗さっぱりした解決はあまり求めるべきではないと思います。私たちの率直で素直な疑問は、当然それはそれで大切にされる必要があります。

この話を現実の私たちの世界の中に当てはめて読むのではなく、エルサレム神殿という場所の実態を合わせて読む時に、このいちじくの木が枯らされた理由が少し分かってきます。それは、エルサレムを代表するいちじくの木でした。本来豊かな実りを実らせても良いエルサレム神殿やそこに住む人々は、本当の意味で神様に対して悔い改めの実りを生み出すことが無く、人々に対して不寛容であり、弱いものから搾取をするための場所としてエルサレム神殿が機能していました。本当はエルサレム神殿においては誰でも集って良いし、心から礼拝をささげる場所としてあり続ける必要があったのですが、その本懐が果たされていませんでした。街で買えば安く手に入る鳩ですら、外から持ち込まれたものはキズモノだとして神殿の中では捧げさせず、神殿内で売られている鳩のみ、しかもそれは法外に高い鳩を買わせていました。富裕民は礼拝をささげることが出来ましたが、その他お金のない人や貧しい人々、外国の人々は神殿で礼拝を捧げることすら出来なかったのです。

このことを重く受け止めたイエスさまは売り買いしていた人々を追い出し、その腰掛けをひっくり返し、物の出し入れさえも禁じて、人々に預言者イザヤのみことばを引用して解きました。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。と。「群衆が皆その教えに打たれた」(18)とはすべての人の祈りの家という教えが人々の間で忘れられていたからです。

これはイザヤ書567節です。「わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉には、「祈りの家」よりも、「すべての国民」が大切なポイントだと思います。「すべての国の人」という言葉の意味を預言者イザヤは三つの人々として紹介しています。

一つ目は、異邦人(外国人)という意味です。主はイスラエル人をもそうでない人をも差別するお方ではない。主を愛し、主に仕え、安息日を大切にし、契約を固く守るなら誰であっても聖なるわたしの山(エルサレム神殿)に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに集わせると主は約束されています

すべての民の二つ目の意味は「全く希望を持てない人、絶望している人」です。イザヤはこれを宦官としています。宦官とはエジプト王国に仕える役職ですが、生殖器を切り取られた神職でした。この宦官は子どもが持てないために、将来の希望がない物、枯れ木のような存在として認識されていました。「全く希望を持てない人」あるいは「絶望している人」「悲しみと痛みに暮れている人」こそわたしの元に来なさい、と主から呼びかけられています。

すべての民の三つ目の意味は、「散らされた人々」です。「追い散らされたイスラエルを集める方。主なる神は言われる。すでに集められた者に、さらに加えて集めよう、と。」散らされた人々が再び集うことができる場所として、すべての人々のための祈りの家はあり続けると言われています。主イエスがそのようなイザヤの神の家に関する教えを知っていて、またその実現を彼の生涯で追い求めていたからこそ、エルサレム神殿がそのような状態であったのを許容することは出来なかった、ということだと思います。本日はそのような祈りの家の祈りの大切な事柄を共に聖書から聞いていきたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

 『信じるものにはなんでもできる    崇牧師

      マルコによる福音書 914-29節( 新共同訳 新約 p.78 

<説 教>

おはようございます。人間には、すべての事柄の整合性が整えられ、矛盾していることがないことなどは人間の中にあり得ないのだという事を最近私は覚えています。愛を説きながら、愛することができない人間の愚かさも、また自由を謳いながら、人を縛る戒律などを押し込めさせようとすることも、赦しを説きながら、赦せない事柄がある、それが人間のいわゆる愚かさで在り、すべての人が持っている罪なのだ、とそのように感じています。しかし私たちがどのような罪人であったとしても、その罪を自分の前に置き、私は罪人です、と主に告白するとき、主はすべてを赦しの中へと導いて下さることを信じています。

 今日の聖書の箇所では「信じる者にはなんでもできる」とイエス様は言われます。「イエス様を信じるものはその人はなんでもできるのだ」という意味と、「イエス様を信じる者には、イエス様はすべてが可能なのだ」と受け取ることが出来る言葉です。過去イエス様は同じマルコ福音書の中でご自分を信じられなかった同郷の人たちの中では奇跡を行うことが出来ませんでした(64-5)。イエス様でも人からの信頼/信仰がないところでは奇跡を行うことができないというこの驚愕の事実を知らされます。しかし、もしも、神の子であるイエス様を信じる信仰に立つのであれば、それはどんな事柄も可能になっていくのだと知らされる時、私たちの心は不信仰から信仰へと変えられていくのではないでしょうか。

 今日の聖書個所では悪霊に取りつかれた子供と父親が弟子たちのところに行き、癒してもらおうとしたのですが、弟子たちにはこれが出来ませんでした。弟子たちは汚れた霊に対する権能をイエスによって授けられ、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人を癒し、悔い改めに導く宣教活動を展開していましたが、残念ながらこの親子にはそれがうまくいきませんでした。そこで弟子たちの失敗を補う形でイエス様の所へ連れてこられたのでした。

当時病気は悪霊のせいとされていました。不可解な病気や障害が起こればそれは本人たちや親の罪のせいなどとも考えられていたりしました。現代ではなかなか考えられにくい悪霊ではありますが、これを単に古い聖書の時代の物語だからね、と遠ざけることも可能です。しかし、風邪や高熱といった症状ならいざ知らず、人間にとって不可解で理解不能な出来事の中に、そういった力や何らかの悪い影響があることを否むことはできません。そのような悪い方にいくところまで行ってしまった父親の落胆や嘆きというのは、わたしたちには計り知れないものがあります。それには、22節にこう言われているからです。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。お出来になるなら助けてください

その様な絶望の中にいる父親の微かな希望を述べる父親の言葉に対して、イエス様はこのように言われます。「出来ればというか。信じる者にはなんでも出来る」その言葉に応答して、父親はすぐに叫びます。「信じます。信仰のない私をお助け下さい」この父親の応答の叫びには凄まじいものがあります。救い主イエスが助けて下ることを信じます。信頼のない私たちを助けてやってくださいと。父親の持っていたイエス様に対する信頼とは、なんだったのでしょうか。それは「イエス様を真の救い主とする信頼に足らない私ですが、あなたはそれでも助けて下さることを信じます」という信頼だったのではないでしょうか。父親の叫びを聞いた群衆はイエス様の所へ走り寄ってきます。そうして、汚れた霊を叱ります。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、私の命令だ。この子から出ていけ。二度とこの子の中に入るな」すると悪霊はひどい引付を子供に起こさせてその子は死んだような状態になったので、人々は「その子は死んでしまった」と言いましたが、イエス様はこの子の手を取って起こされると、立ち上がりました。

弟子たちはこの件を受けて、家の中に入ってから「なぜ私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と問うと、イエス様は「この種のものは祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」と応えられました。弟子たちがこの子の悪霊をお追い出せなかったのには弟子たちの祈りのなさであると告げられています。それはイエス様からどのような権威を委ねられていたとしても、祈りの力なくしてはその働きは不可能なのだ、と告げられています。どのような働きも、それが慣れてくると簡略化され、祈りから始まっていく信仰の働きが失われていくことになります。信仰のない私を必ずお救い下さると信じますというイエス様への信仰と信頼、そしてすべての日々の中に祈りによってイエス様の救いと助けが働くという事を覚え続けるものでありたいと思います。

 

 

 

 

<説 教> 

 『私たちの出来事つぃて告白する 才藤千津子協力牧師

      マルコによる福音書 827-38節( 新共同訳 新約 p.77 

<説 教>

 

本日は、平尾教会の会堂感謝礼拝の日です。私たちの教会共同体を建て、導いてくださる神に対して、私たちはどのように応答してゆくことができるのでしょうか。イエスの弟子たちがそうであったように、迷いと無理解の中にある私たちは、どのようにしてイエスに従っていくことができるのでしょうか。


今日の聖書の箇所は、マルコによる福音書の折り返し地点であり、ガリラヤにおけるイエスの宣教活動とエルサレムへの旅との間に橋渡しをする箇所です。そしてこのエルサレムへの旅は、イエスの逮捕と十字架でクライマックスに達することになります。そのような重要な転換点に当たって、817-18節で、イエスは弟子たちを叱ります。「まだ、分からないのか。悟らないのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」なぜなら、弟子たちには本当のことが見えていないからでした。そして今日の箇所で、イエスはさらに弟子たちに強く問いかけます。「あなたがたは私を何者だというのか。」(マルコ8:29)これはイエスの十字架の死の意味につながる重要な問いでした。


さて、今日の背景は「フィリポ・カイサリア」という場所です。この町は、パレスチナの北方地域でガリラヤ湖の北32kmにありました。ここはヘルモン山の麓であり、山の水が集まって泉になって湧き上がる場所です。そして、その水がやがてヨルダン川になってゆくのです。この町はこのように自然の美しい場所でしたが、同時に政治権力の匂いのする場所でもありました。紀元前20年、ユダヤ人ヘロデ大王が皇帝アウグストウスからこの町を与えられ、その記念に、ここに皇帝の像を安置した神殿を造ったとされています。その後、ヘロデ大王の息子ヘロデ・フィリポが、皇帝ティベリウスに敬意を評してカイサリアと名前を改め、他にもいくつかある都市カイサリアと区別するために、自分の名前を加えて「フィリポ・カイサリア」としました。
イエスは、ガリラヤ地方から歩いて2、3日かかるフィリポ・カイサリアの村々に向かう途上でした。マルコによる福音書では、イエスはこの地で初めてご自分の十字架上での死について弟子たちに話をしております。つまり、ユダヤ人の王が時の権力者であったローマ皇帝に媚びて神殿を作った町で、イエスは、本当の神について、自分の使命について、弟子たちに教えられたのです。
その旅の道すがら、イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だ(誰だ)と言っているか」と尋ねられます。弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリアだ』と言う人も、『預言者の一人だ』という人もいます。」そこで再びイエスが尋ねます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」(8:27-29)

 


メシアというのはヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。イスラエルの伝統で、頭に香油を注がれて、神が与える特別な使命に生きる王、預言者、祭司などのことです。ヘブライ語ではメシア、ギリシャ語ではキリストです。ですからここは、口語訳では「あなたこそキリストです」と訳されていました。当時、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた人々は、いかなる政治的な権力にも立ち向かい、イスラエルの救いを実現するような偉大なメシア、成功を修める民族の王を求めていました。ペトロが「あなたは、メシアです。」と答えたのは、弟子たち全員の切実な気持ちでもあったと思われます。しかし、イエスは、それを厳しく叱責されます。 「人の子」(=イエスご自身のこと)は、人々の期待とは反対に、この世の権力者から苦しみを受け、棄てられるというのです。ここでイエスは、全く新しいメシア像を示しました。これがイエスの「教え」でした。そして、イエスによれば、この人の子の受難を理解するものこそ、神を理解したものでありました。
イエスは、イエスに従う者たちにも、「十字架の道」を共に行くように呼びかけました。「私と一緒に歩いて行きなさい。そうすれば、十字架を背負って生きるということがどういうことかわかるだろう。」イエスの弟子たちはそのことの意味をなかなか理解しませんでしたが、やがてイエスの十字架の死と復活を経験する中で、生き方を大きく転換してゆきます。その後、イエスをキリストだと告白し、迫害の中、教会を建てて行ったのです。

 

 

<説 教> 

      『目覚めていなさい  崇牧師

     マルコによる福音書1332-37節( 新共同訳 新約 p.90 

<説 教>

ある本を読んでいると、次のような話がありました。第二次世界大戦中、キリスト教の牧師が国体に反するという理由で警察に捕らえられたそうです。その牧師は取り調べを受ける中で、捜査官に「あなたは天皇とキリストとどちらが大切なのか」と問われました。その牧師は応えるのに詰まって心の中で「主よ」と祈りました。その時、天からの聖霊がその牧師を通して働き、その捜査官に質問を返させました。「あなたは何を信仰していますか?」と聞くと捜査官が「仏教だ」と応えました。そこでその牧師は「それでは天皇とお釈迦様とどちらが大切ですか?」と問い返すと、捜査官は「それは比べる次元が違う」という答えを引き出させたそうです。

日本バプテスト連盟では一月の末から協力伝道週間という事でバプテスト連盟の働きを覚えて祈る時となっていますが、特に二月の初めの方は信教の自由を覚えての礼拝を捧げています。それは建国記念日とされる211日が天皇を基にした神話に基づいているために、とりわけキリスト教会ではこれを信教の自由を覚えて礼拝を捧げているところが多いのです。

先ほどの牧師の話からは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ1217)という主イエスのみ教えを思い起こさせるやり取りでした。しかし、それらは即ち、政治は政治、宗教は宗教といった分別を大切にしなさいという事ではありません。むしろ教会こそはイエス様が「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われたように、すべての人が平等に神の前に愛され、また赦されているという地平線に立って、世の中に間違った動きがある時に声をあげる存在として、責任のある主体として立たされています。

平尾教会の信仰告白の中で、六、キリスト者の生活にはこのようにあります。「社会においてキリスト者は愛と奉仕とをなし、世にありながら世と妥協をせず、地の塩、世の光としての存在を励まなければなりません。政府その他、定まった権威には良心の許す限り従い、教会として政治の力を利用することもせず、利用されることもしないように教会と政府との完全な分離を守らなければなりません」七未来「キリストは、御約束に従い、再び来られ、すべての人を義によって裁き、善にも、悪にも、報いを与え、信仰によって義とされたものを御自分のところへ迎えられます。私たちは、これらのことを信じて、この信仰に立って、個人として、教会として、神に仕えます」とあります。社会におけるキリスト者の生活とは自覚的信仰者として歩むということが明確にされているばかりではなく、キリストが終末に来られることを覚えながら、常に目覚めて歩んでいきなさい、と言われているところに、わたしは非常に深い感動を覚えます。

今日の御言葉はマルコによる福音書の中で小黙示録(13章)と言われる中の最後の言葉です。四人の弟子たちが終末について預言されたことに対してイエス様にこっそりと聞く(133)のですが、イエス様はこの教えの最後で「あなたがたに言うことはすべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」と言われました。「目覚めていなさい」とはキリスト者として眠っていてはならない、イエス様が与えた「仕事」「責任」「門番」としての役割です。これらはすなわち何を意味しているのかというと、「時は満ち、神の国は近づいた」と言われる福音宣教の業に従事して、終末に完全に実現される神の国に至る時まであなたがたはこの地上で目を覚ましていなさい、という事でした。イエス様が言われた教えの中でとても大切なことは、世の終わり、すなわち終末にどのようなことが起こるのか、あるいはイエス様は神の子としてやって来られるということが最も大切な事ではなく、実際に信仰者が生きている「今」こそ大切にされるべきなのだという事です。それは、将来救われる、いつか助けが来るということを待つのではなく、何とかこの世の中で目覚めた信仰者として生きていること、それが一番大切なことなのだよ、と教えています。

 

 近年、日本や世界の情勢に目を向けてみると、子どもに対する権利の認識の欠落が見受けられるように思います。子どもは大人に比べて体も弱く、知恵も力もありませんが、大人と同じ目を持ち、耳で聞き、口で喋り、体で表現します。子どもの貧困が叫ばれ、地域の方々の様々な協力があって子ども食堂も最近よく聞かれるようになってきましたが、助けを求めるにも声をあげづらい世の中にあって、キリスト者として「目覚めている」ということは「すべての子ども(人)が愛されている」のだから、大切にされるべきは明日明後日ではなくて今なのだ、という事を覚えたいと思います。

 

 

<説 教> 

「はい、主よ」・その言葉で十分である』  崇牧師

     マルコによる福音書 724-30節( 新共同訳 新約 p.66 

<説 教>

長引くコロナの影響で、皆さんそれぞれ疲れを覚えておられるのではないでしょうか。人と会えなかったり、人間に必要な対面しての会話も制限されたりするような時代の中で、私たちは確かに疲れています。それは「今日の仕事は大変だったなぁ」という肩をとんとんと叩くような疲れではなく、先行きの見えない不透明さ、希望が見いだせないことによる疲れが私たちにはあるのではないでしょうか。疲れを認識して、ゆっくり休むことが私たちには必要です。

イエス様は、この時確かに疲れておられました。毎日やってくる病人、悪霊をおいだしてほしいと願う人、その口から出る言葉によって元気を得たいという人々が全国各地から入れ代わり立ち代わりやってくるからです。ある時は男だけで5000人も集まってしまいました。またその人々のことや食事のこと、弟子たちの派遣など人々の出入りがあり、都市のエルサレムからは明らかに敵意を持った律法学者やファリサイ派の人々とも会話をしなければなりませんでした。「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことは無い。。。人から出てくるものこそ人を汚す」(714)とイエス様は言われましたが、精神的にも肉体的にも、イエス様と弟子たちにはすべてをひとまずおけるゆっくりとしたご自分の休息をこそ大事にする必要がありました。イエス様はそこで地中海の海岸線沿いの町ティルスに退かれ、ご自分がゆっくり休めるように家の中に入られましたが、残念ながら隠れていることができませんでした。イエス様にも隠れたいという思いがあったのか、と衝撃です。しかし、ギリシャ語を話す外国人がイエス様の噂を聞きつけて駆けつけてきます。この女はイエスの下にやってきてすぐにイエスさまをひれ伏して礼拝しました。この女の願いは自分の娘をどうか悪霊から救ってほしいという願いでした。世に満ちている悪いものが悪霊とするならば、イエス様こそは聖霊に満たされたお方です。この方の内に、聖なる霊は宿っています。イエス様はどんな気持ちになられたでしょうか。隠れていることの出来なかったイエス様は「まず子供たちに十分食べさすべきである。子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」と言われました。これはイエス様と一行にも、必要な休息がある。救い主でも必要とする安息は十分に持たなければならないという意味でした。一見すると非常に冷たいイエス様の対応です。しかし、この女性は「主よ、お言葉通りです」と返しました。古い聖書である文語訳は「然り、主よ」です。ここでは女性のイエス様の言葉に対する完全な同意があります。「はい主よ」と女性は答えましたが、このイエスを「主よ」という呼びかけも、このマルコ福音書の中で夜明けの金星のように輝く言葉です。イエス様を自分の「神」、そして「主」と呼びかけるのは全くの外国人であり、イスラエルの民族や信仰、あるいはその歴史には全く立たない女性が「はい、主よ」と応えているのです。その言葉に続いて「でも食卓の下にいる小犬も、子どもたちのパンくずは頂きます」と応えました。これはイエス様や弟子たちの休息が十分に必要であり、そこが満たされてなお、自分たちにも必要なものが備えられるという信仰の言葉でした。

 

「イエス様が大事」という事は「イエス様が第一」という事に繋がります。わたしたちはいつもイエス様に働いてもらおう、癒してもらおう、祈って聞いてもらおうとする思いが常に前面に出てきてしまう(わたしこそが大事/第一)のですが、そうではなく、イエス様から出る言葉を、頂こうという信仰こそ大切なのだと教えられます。そのような意味で、イエス様の言葉に対する「はい主よ」との返答に、イエス様は「それだけで十分である」とそのように言われるのです。この言葉も文語訳においては、「その言葉により(安んじ)て行け」と言われ、「悪霊はすでに出て行ってしまった」と言われます。それはイエス様の御言葉を受けて「はい主よ」「そうです主よ」「それは確かです主よ」とする信仰こそ、悪霊を追い出し、娘の命を救うことに繋がって行ったのです。私たちもイエス様を大事/第一とする信仰の中で、すべてが善きように導かれることを祈りたいと思います。

 

 

<説 教> 

「聖霊を冒涜する罪とは 青野太潮協力牧師

     マルコによる福音書 320-35節( 新共同訳 新約 p.66 

 

<説 教>

 

「悪霊」の反対語である「聖霊」への言及は、32829節の、「はっきり言っておく(直訳すれば、「アメーン、私はあなたがたに言う。」ヘブライ語はアーメーン)。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」というイエスの発言において初めて突然現われるかのように書かれてはいますが、実際には決してそこで初めて「聖霊」が問題となった、などというわけではなくて、むしろイエスの宣教においては、「聖霊」は「神の霊」として、常にイエスの側にあって、イエスとともに働いていたのでありまして、そのような「聖霊に満たされた」イエスの宣教の働きを、「ベルゼブル」つまり「悪霊の頭」の仕業だと非難することこそが、「聖霊を冒瀆すること」そのものであったのです。

 そして、そこでイエスが宣教された福音の内容は、この段落では終わり近くの328節においてようやく明白な言葉として宣言されている「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」という、「無条件で徹底的な神さまの愛とゆるしの宣言」以外のものではなかった、と言えるでありましょう。そして実際、この段落の冒頭の20節に書かれている「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」という事実こそは、その「無条件で徹底的な神の愛とゆるしの宣言」を、イエスさまがまさに実際の行動に移していらしたものであった、と言えるでありましょう。なぜならば、そのような行動は、実際、人々の抱いていた「罪人と交わってはならない、特にともに食事をしてはならない」という、旧約聖書において厳守するようにと戒められていたユダヤ教的な常識を、まさにぶち壊して、すべての者が神の前ではまったく平等なのであり、人間として無限の尊厳を与えられているのである、ということを宣言するものであったからです。

だからこそ、そのようなイエスの行動は、イエスの身内の者たちをしてさえも、「イエスは気が変になっている」、口語訳によれば、イエスは「気が狂った」、と思わしめたのでありました。つまりそれは、実に当時の常識からすれば「狂気の沙汰」以外の何物でもなかったのです。つまり、聖霊に満たされたイエスの言葉としての「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」という福音内容を、悪霊の仕業だ、と論難すること、そのことだけは赦されない、それだけは否定される、というのです。つまり、すべての罪がゆるされるけれども、しかし、そのすべてがゆるされるということを悪霊の仕業だと言って否定することだけは、決して、永遠に、未来永劫、ゆるされることはない、というのです。すべてのことがゆるされる、という驚くべき神の宣言が成立するためには、そんなばかなことがあるわけないだろう、と言いながらそれを否定することだけは、どうしても成立するわけにはいかないのです。その聖霊への冒瀆についてのことばは、「人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される」とのイエスの宣言が貫徹すること、終始一貫してそれが成立するようになること、を語っているのでありまして、決して、その赦しの宣言のなかの何か「例外事項」のようなもの、例外として赦されないことがら、などについて語っているわけではないのです。

 

 

<説 教> 

見よ、ここにわたしの家族がいる  崇牧師

        マルコによる福音書 328-35節( 新共同訳 新約 p.66 

 

「見なさい、ここにわたしの母、私のきょうだいがいる」とはなんとありがたい言葉でしょうか。この言葉を言われたのは救い主イエス様です。救い主のもとに集った大勢の人々を前にこの言葉を言われたのでした。

 わたしは両親や兄弟姉妹がおります。何一つ不自由なく育てられたと思います。しかし心の内側はどこか不安というか、寂しかった思いを持っていました。血のつながりによる家族関係は持っているけれども、本当の自分はどこかに隠したまま、成長過程に合わせてその時々の自分を演じてきたように思います。そのような中である時にキリストの教会と出会い、信仰を持つ人々に温かく迎えられていきました。自分が血によらない霊的な家族として受け入れられていくという体験を持つことになりました。教会の繋がりこそは、霊の家族、そして神の家族で在り、救い主イエス様に連なるブドウの木の中に招き入れられることだと確信しています。

世の中では、家族というコミュニティが大切にされる一方で、その家族は様々な状況によって分断を余儀なくされていることがあります。コロナ禍で里帰りが出来なかったり、あるいは病院にお見舞いに行けなかったり、あるいは貧しさのゆえに、また様々な理由があり、子どもを養育できなかったり。親であっても、状況によってはお世話ができなくなる、そのような状況があるでしょう。若い人たちであれば自分の居場所や家族を求めて伴侶を求め、家族を形成していくのかもしれません。多様化する社会の中で家族という価値観もそれぞれ違いますが、根本的なところではどのような人も家族を求めているのだと思います。

救い主イエス様は、ご自分の下に集まってきた大勢の人、そしてそれは足の踏み場もないほどに密集してイエス様の周りに座っていた人々を見まわして、「見なさい。ここにわたしの家族がいる」と言われました。寄る辺のない人や病人、悪霊に取りつかれていた人など、社会から見捨てられ、また見放されていた人々でしたが、イエス様の近くに集まってきた人々をこそ救い主イエスのご自分の家族であると宣言されました。霊的な、神の家族とされるこのイエス様の宣言は、私たちの社会の中にあって温かく染みわたります。「わたしはイエス様の家族とされている」と皆さん手をおいてその言葉をかみしめてみましょう。

イエス様を中心とする家族の中には、「赦し」がありました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉もすべて赦される」(28)と宣言されています。それは数々の罪やどんな冒涜のことばが赦されるというよりも、「すべてが赦される」という、すべて、に重きが置かれている言葉です。それは人が犯す罪ではなく、人そのもの、人に付随する出来事でなく、その人の本質そのものが受け入れられ、イエス様によって赦されているという宣言でした。人の罪が許されるという時、当時の社会の中では賠償や和解の捧げものを神殿に納めることでひとつひとつの罪に対する許しが宣言されていました。しかし、救い主イエス様はご自分のもとに来られた人々をそのままで受け入れ、愛し、大切にされ、すべては赦されていると宣言されたのです。社会の中にあってそのようなイエス様の存在は恐れや不安の対象となったことでしょう。

その後に言われる「聖霊を冒涜するものは赦されない」という非常に厳しい言葉は、すべてを赦す主イエスを信じ従っていこうとするその信仰者に働く聖霊の働きは、誰にも汚されたり、妨げられたりすることが無く、大切にされるべきだというイエス様の言葉でしょう。

 「見なさい、ここに私の家族がいる」という宣言の後、「神の御心を行う人こそ、わたしの家族なのだ」と続きます。

この言葉は、一見すると神の御心を行う人がイエス様の家族とされているように思いますが、恐らく違います。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めよ、そして福音を信ぜよ」との繋がりの中で読むのであれば、御子イエスの家族とされているその喜びに応答するものの生き方として呼びかけられています。それはつまり、すべてを赦す方、主イエスのみ言葉に倣って生きようとする生き方に、幸いあれ、という事です。どんなことがあったとしても、あなたはわたしの変わることない神の家族だ、と私たちに呼びかけられているのです。

 

 

<説 教> 

「あなたを招くために来られたイエス  崇牧師

        マルコによる福音書 2 13-17節( 新共同訳 新約 p.

 

救い主イエスを信じ、従っていこうとする決断は一瞬のうちに訪れます。今日はイエス様の弟子となったレビの召命の話です。イエス様は福音の宣教を「異邦人のガリラヤ」から始められましたが、最初はガリラヤの会堂(1:21,39)にて宣教されていました。その教えは「権威ある新しい教え、汚れた霊もいう事を聞く」とガリラヤの地方の隅々にまでうわさが広まります。イエス様はその癒しの業が広がったために公然と街に入ることは出来ずに、ガリラヤの湖に行き、集まった人々にみことばを教えられました。その通りがかりに収税所に座っていたレビを見、「私に従いなさい」と言われました。レビはおそらく、ガリラヤ中に広まっていたイエス様の噂話を聞いていたことでしょう。取税人として人々から忌み嫌われていたレビは、ここが人生の転機として立ち上がってイエスに従っていきます。「イエスに従う」とはイエスに付いていくことを意味していました。先に弟子となったガリラヤの漁師たちと違い、収税所に「座って」いたものが「立ち上がった」とあるのはその場から離れることを意味し、また徴税人としての生き方から離れたという事でしょう。

「徴税人や罪人」と呼ばれる人たちは、社会の中で差別され、孤独であり、白い目で見られていました。徴税人が忌み嫌われていたのはローマ帝国に収めるための税金を人々からよりおおく搾取して懐に入れていたためです。徴税人はローマ帝国の支配下の中で権力と民衆の間の狭間の中で人生をよく生きることが難しい人々の事でした。罪人とは自分に何か過失や失敗や犯罪がある人のように思われますが、特にマルコ福音書の「罪人」とはユダヤ教の律法に生きることが出来ない人の事です。厳格に手を洗うことや、安息日を守ること、捧げものの規定など宗教的な決まりを守れないものを罪人と呼んでその差別構造を作っていました。徴税人や罪人というのは人々に対するレッテル貼りであったのです。

イエス様はそのような「徴税人や罪人」と呼ばれる人々の友となり、また師となり、また彼らと食事をしてその関係を深められました。レビがイエスに従ったのちに、レビの家で食事をしていたとありますが、そこには多くの徴税人や罪人、またイエスの弟子たちも同席していたとあります。イエス様がレビのところに訪れ、来て下った時、レビはこの出来事を自分の救いとして心の中で受け取り、そしてイエス様を自分の人生の主として受け入れました。それはレビの人生のすべての悩みや痛みからの解放ではなかったのかもしれません。しかしレビは自分の中に主イエスを招き入れた時、付与されたレッテルをも受け入れて、同じ苦しみと痛みの中に生きている人と共に生きる決断へと招かれたのではないかと思います。

イエス様はファリサイ派の律法学者に、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問われました。それはなぜあのような者たちと交わっているのか、あの人たちの友となっているのかという問でした。これに対してイエス様はこのように言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

宗教的な正しさを追い求める人とはすでに自分が何の欠けもない正しい者として生きる人の事です。その正しさにはイエスを求めようとすることも、他の人に助けを必要とすることもありません。病人と医者の関係性は、助けを必要とするか、しないかです。しかし、罪人と呼ばれる人のためにイエス様は来られたのだという事は、追いやられた人、失われた人、見えなくさせられている人々のためにイエス様は来たのだと言われます。これは大いなる逆説です。通常は犯罪者と呼ばれる人を招いたりはしないのですから。イエス様が罪人を招くために来たのだと言われる時、それは神の前に失われていると思われるものこそをご自分のもとに招こうとされるイエス様の言葉です。この言葉は最終的には、私たちが人々の前で忘れられる時、見いだされなくなる時、自分の存在が失われる時、ありがたく、ありがたく私たちにひびいてくるのではないでしょうか。私は人々から失われている、私は神の前に失われているという時に巡ってくるイエスの言葉です。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」

 

 

 

 <説 教> 

「時が満ち、神の国が近づいた  崇牧師

  マルコによる福音書 11420節(新共同訳 旧約 61p

 

『時が満ち、神の国が近づいた』 崇牧師

新年おめでとうございます。新しい年はマルコによる福音書を共に読み進めて行きたいと思います。本日の聖書の箇所は救い主イエスさまの宣教の初めとなるシーンです。

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

この言葉はイエス様の宣教の始まりのことばであり、イエス様のすべてを要約する一言です。時が満ちるとは、何か物事を始める好機意味も含まれますが、聖書における「時が満ちる」とは時間の経過とともに、神の約束が実行に移されるなどの意味も含まれています。

昔、イスラエルの預言者エレミヤはこのように告げました。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」エレミヤ2910 「時が満ちる」とは、神のめぐみの約束が始まる時であり、すべての苦しみや痛みから解放される時です。

この「時が満ちる」という言葉を新約聖書の手紙の多くを書いた使徒パウロは、時が満ちるとは御子イエスの女による誕生であると告げました。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」ガラテヤ44と告げました。神の時が満ちるときとはイエス様がこの世にお生まれになられたときから始まっています。そしてイエス様の宣教の始まりにおいても、「時は満ち」という言葉から始められます。

「神の国は近づいた」とは神の国がすでに到来した、あるいは非常に近くに来ているという両方の側面を併せ持つ言葉です。「神の国」とは「神の支配」のことですが、神の支配というと非常に硬いイメージですので、もうちょっと砕けた言い方をしますと、神の赦しや愛、また傷ついた魂を癒す力、挫けている魂に勇気を与える言葉、泣いているものに慰めを与える温かな神との関係性のことです。イエスさまが「神の国は近づいた」と言われる時、失われた魂がイエス様によって見いだされ、そこにおいて人々が再びこの世の中に生きる力と勇気を見いだしたという事実です。実にイエス様の活動のすべてを要約する「神の国の近づき」です。徴税人のところを訪ね、罪人とされる人たちに寄り添い食事をし、病めるものの病を癒し、また悪霊に取りつかれている人を開放していきました。それらすべてのイエスさまの活動が「神の国の近づき」として表現されています。

それと同時に、「悔い改めて福音を信じなさい」と呼びかけられます。これは悔い改めたら神の国が近づくと言われているのではなく、神の国は近づいている、イエス様がそこにおられ、神との関係性の中にもうすでに生かされているから、悔い改めて福音を信じなさいと告げられています。

「悔い改める」という事は今まで別の方角を向いてきた人々が、神の方に向き直り、また神と隣人を愛する関係に生きることを顕していました。「悔い改めて福音を信ぜよ」との「福音」とは、イエス様の到来によって明らかにされた無条件で徹底的な神の赦しと愛の福音です。この福音こそがイエスに表されているのだと信ぜよとの言葉でした。

新年礼拝から始まる2022年の歩みが、神の国の実現の中でイエス様のみ言葉に応答する生き方となるように、心から祈りたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

「主はあなたを守る方 原田仰神学生

        詩編 12118節(新共同訳 旧約 968p

 

本日の御言葉であります詩篇の121篇では歌い手が力強く、神の伴いがあること、守りが私たち一人ひとりに与えられていることを語っています。この121篇の中で大切なことが最初の1節で語られています。それは「都に上る歌」という言葉です。この言葉は、この詩が都(エルサレム)へと巡礼をする人に向けて歌われた歌であることを示しています。つまりこの箇所は、今から「さあ行こう」としている人のための励ましの歌なのです。さらに最初の言葉「私は山々に向かって目を上げる」という言葉が、神様の守りがあるというメッセージと私たちの現実を強く結びつけている。ここで書かれている「山々」というのはおそらく、エルサレムへと向かう際に乗り越えなければならない山を示しています。今日の箇所における「山々」には、そこに眠る多くの「不安」がイメージされています。そのため巡礼者が今から向かおうとしているまでの道のりに対して少なからず不安を抱いていることを示しているからです。それに対して3節-6節にかけてその道中にある神様の守りについて語ります。

 私たちは困難に直面した時、周囲から言われることがあります。これを乗り越えたら喜びがある。これを乗り越えたら安心だよ。しかし、実際にはその「乗り越える」までにある不安に苦しめられているのであり、その「乗り越える」までの間の辛抱がつらいのです。ただ、聖書はまさにそのような状況にある人にこそ寄り添われる神様の姿を語っています。「主はあなたの行くのも帰るのも守ってくださる。/今より、とこしえに。」

 今から都に上ろうとしていた人たちは、その道中で詩篇の言葉を何度も思い出したでしょう。険しい道に直面した時、盗賊がいそうな怪しい場所に差し掛かった時に。

 「思い起こす」こと、これはこの詩編が語り継がれてきた一つの目的でしょう。都へと向かっていった人たちも、この詩を思い起こす度に、そこまでにおける神の伴いと守りを思い出し、勇気づけられたと思います。この詩にはかつてひとりの人が体験した神様との出会いが語られているのです。私たちはひとりの人の証によってまた新たに神様に出会っていくのです。

 2021年最後の週が始まります。今、皆さんはどのような中を歩んでいるでしょうか。何かの区切りを終え、新しい何かに向かって控えているでしょうか。それとも今まさに困難の中にあり、大きな壁を乗り越えているその最中でしょうか。いずれにせよ、まず一歩立ち止まって祈ってみませんか。そしてこれまでの歩みを思い起こしましょう。今このあなたの歩みの中でも神様は共にいてくださっています。

 「私たちの助けは主のもとから、この世のすべてのものの造り主、主のもとから」

 

 

 

<説 教>

「クリスマスの喜び③・キリストに先立つ幼子 森 崇牧師

  ルカによる福音書 17680節(新共同訳 新約102p

 

クリスマスおめでとうございます。御子イエス・キリストの誕生を心から祝います。クリスマスの喜びと題しての三回のメッセージを取り次ぎました。ひとつめのクリスマスの喜びは神の独り子であるイエス様は聖霊によってお生まれ下さったこと、また二つ目には遥かな星の導きによってその御子に自分の宝を捧げる喜びがあることを分かち合いました。クリスマスの三番目の喜びとは、御子に先立って生まれた幼子がいることです。

御子に先立って生まれた幼子とは、バプテスマ(浸礼者)のヨハネの事です。この子は救い主イエスの前に先立ち、またイエスを人々に備えるために生まれた子どもでした。イエス様の誕生の物語と共に、またバプテスマのヨハネの誕生が描かれていることはルカ福音書に特徴的な事です。ルカはその物語において、聖霊の満たしというのはイエス様の誕生のみならず、クリスマスの周辺にいた人々一人ひとりに聖霊の満たしがあったことを告げています。「その子は母親の胎内にいるときからすでに聖霊に満たされている」(1:15)、「エリサベトは聖霊に満たされて声高らかにいった」(1:41),「父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した」(1:67)クリスマスとは、御子イエスが聖霊によってお生まれ下さるというだけではなく、この出来事を中心として周りの人々が神様の聖霊によって満たされるという体験でした。

今日の聖書の箇所で父ザカリアは聖霊に満たされた預言の中で、救い主イエスの誕生の預言から始めて(68-75)、自分の子の預言へとつなげていきますが、時系列的には逆に語っています。これは後の者が先になり、先のものが後になるという事でしょうか。

ザカリアの預言はその意味で、イエス様の生涯に顕された神の慈しみを先んじて語ったものでした。すなわち、イエスさまがこの地上に来られることによって成し遂げられる「罪の赦しによる救い」を語り、神が人の悩みと苦しみと痛みとを見てつぶさに自分のこととして痛み、自分のはらわたが千切れるほどの痛みを覚えて人に寄り添うものとなられたことーこれはわれらの神の憐れみの心―、そして闇夜を引き裂いて新しい朝が与えられるように、復活の希望である輝く明けの明星として復活のいのちを指し示してくださることです。それはすでに起こったことではなく、これから起こることの希望をザカリアは語ったという事です。

クリスマスの喜びとは、御子がこの地上に与えられることによって全ての人が神の前に愛されていることを知る喜びの時です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。それは御子イエスによって示された神の愛を世に語っていくことに他なりません。ザカリアの預言とは、御子に先立って生まれたものの使命と働きについて告げていると思いますが、そのような意味で、現代に生きる私たちこそは、救い主イエスに先立って生まれたものです。イエス様の赦し、イエス様の深い憐れみ、そしてイエス様の復活の希望と喜びは備えられる、それは必ず来るという事を、私たちはこの時代の中にあって語っていきたいと思います。クリスマス、おめでとうございます

 

 

 

<説 教> 

「クリスマスの喜び②・煌めく星の導き 森 崇牧師

  マタイよる福音書 2112節(新共同訳 新約 p.2

 

おはようございます。今年も早クリスマスを迎えて、そして2021年も終わりに差し掛かってきました。皆さんは今年何を目標に、そして何を目当てに歩いてこられたでしょうか。人は、誰でも何かしらの目標や目的、目当てを持って生きていると思います。わたしにはそのようなものは無いと思われる方がおられるかも知れません。わたしもそのような大きな目的の中にはありませんでしたが、ひたすら毎日忙しく仕事に家事、炊事、育児、親父と雑務をこなして行く中で、家族が健康に一日を過ごせることこそ、小さな私の日々の目当てであることに改めて気付かされました。

 さて、今日の聖書の話は東方の博士たちが救い主イエス様の元にやって来ました。博士たちはいつしか現れた煌めく星を見つけ、これは世界をすべ治る王が誕生したのだ、と悟りました。この博士たちは占星術をしていましたが、これはユダヤの地方では忌み嫌われる占い師の類であり、また全く別の国の外国人でありました。救い主イエスの誕生はエルサレムの人々ではなく、遠くの国の異邦人、外国人にもたらされたのです。

彼らは長い時間をかけて、その星を目当てに旅をしました。煌めく星は夜現れます。その星の光は、暗い夜道を照らす光でした。日中は星が出ないので休み、日が暮れてから夜ポクポクポクポクとロバと共に歩むのでした。寒さも厳しく、また盗賊や夜道の獣などを恐れる日々でもあったことでしょう。しかし、彼らは長い時間をかけて聖都エルサレムへやって来たのでした。

彼らはその一帯を収めていたヘロデ大王のところに来ていいます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?私たちはその星が昇るのを見て、その方を礼拝しに来たのです」ヘロデ王はそれを聞いて不安に思いました。なぜならば、ヘロデは自分の地位や名誉を追い求め、そのためには人の命などどうなっても良いという思想の持ち主だったからです。ヘロデの周りの人たちも、同様の不安を覚えました。「新しい王が来たら、自分たちの生活が変わってしまうでは無いか!」

 これらの不安と言うのは、救い主を迎え入れる時に私たちの心にも起こる不安です。今まで自分が一番であることを人は追い求めますが、救い主イエスを迎えると言う中には、自分が1番ではなく、神の御心こそ大切だとする生き方に変わるわけです。救い主イエスを迎え入れる時には、自分の中での生活や今まで馴染んできたものからの変化が必ず起こります。それを受け入れない人は不安に感じ、むしろこのイエスの誕生を喜びとする人はそれまでの生活から離れ、星の導きの元に暗闇の中も喜びのうちに歩むものへと変えられて行きます。

 ヘロデは聖書学者や礼拝を司る祭祀に尋ねました。「救い主はどこにお生まれになるのか」

 彼らは答えました。

「聖書はこう言っています。それはエルサレムから数キロ離れた寒村ベツレヘムです。この村はかつてイスラエルの王ダビデ王の出身地でもありました。神さまはこの小さな村から小さな少年ダビデを選びだし、イスラエルを牧する牧者としてお選びになりました。同じように、小さなこの場所に主は目を注ぎ、小さな幼子を選びだして私たちを大切にしてくださる導き手を与えてくださることでしょう」

 ヘロデは自分の地位が脅かされることを思い、その星の現れた時期を確かめてから、見つけたら自分に報告してくれるようにと頼み、博士たちを送り出しました。それはその子のいのちを殺そうとする陰謀からでした。

 城の門を出ると、博士たちを導いて来た星がいよいよますます輝きだし、その星が彼らの前に立ち、彼らを連れ出して行きました。そして、ついにベツレヘムの幼児の上に止まったのです。博士たちは自分たちの旅の目的地に、幼子である神の子がマリアの胸の内に眠っていることを確認しました。そして、彼らは眠る幼子を礼拝しました。それは強い権力者ではなく、無防備な弱い存在となって、人間となられた神の子イエスさまを博士たちは拝しました。

 博士たちはこの先この子に襲い来るさまざまな困難を予見していました。この子は、この子の神の愛が顕にされる生涯のゆえに、苦しまなければならない。神の愛が現れることを拒む人間的な力が世に満ちて、闇が覆っている。その子は難民となり、避難生活を余儀なくされるかもしれない。暗闇の中を歩き、暗闇に住んでいる人びとの苦しみと痛みを背負うことになるだろう。暗闇の中のまことの世の光として燦然と輝き、人々を導く星になるだろう。そのような彼にどんな困難があったとしても、彼の生涯に栄光と守りがあるように、自分たちの宝を捧げよう。そうして大切に大切に持ってきた宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました。

 それはこの幼子の生涯に祝福がありますように、との黄金。この幼子の生涯に多くの人の祈りが捧げられますようにとの乳香、そしてこの方が全ての人の喜びとされますように、との喜びの祝祭を意味するミルラという没薬が捧げられたのでした。これは現代に生きる私たちにとって誕生された幼子イエスさまこそ、私たちの誉であり、喜びであり、また祈る対象であり、礼拝をささげるものであることをあらわす贈り物でした。

イエスさまをふし拝んだ3人の博士たちは、その後夢でお告げがあったのでヘロデの元には帰らずに、それぞれの場所へ帰る事となります。

 

 クリスマスの物語には私たちをいつもわくわくとさせてくれます。星の導き、東方の博士たち、ヘロデ大王、祭司や律法学者、マリアと幼子イエスさま。今日の話ではヨセフは出てきませんでしたが、この後に2歳以下の男の子の虐殺がヘロデ大王によって起こされます。その時には夢で御使の知らせを受けて長い間逃亡し、避難民としてこの聖家族は住まうことになります。イエスさまは大きな災害の中で、逃げ惑うしか無い弱く、儚い存在です。しかし、そのような幼子イエスさまは災害の中で共に苦しむインマヌエルなる方です。東方の博士たちが当時の暮らしの中でどのような暮らしをしていたかは知る由はありませんが、「闇の中に住む民は大いなる光を見た」と聖イザヤが予言したように、闇の中にいた人々の光、また星として、救い主イエスは共にいてくださったと言うことでは無いかと思います。クリスマスの喜び、それは煌めく星の導きです。すでにその光は我々の上に、そして私たちの中に宿っています。だからこそ、自分たちの宝を弱くなられた救い主イエスに捧げた博士たちのように、わたしたちもおなじYおうに弱さの中におられるイエス様と出会い、自分の宝をささげる生き方が出来たらとそのように願います。

 

 

 

<説 教> 

 

「クリスマスの喜び①・聖霊による降誕 森 崇牧師

  マタイによる福音書 118-25節(新共同訳 新約 p.1

 

先週、待降節第一主日の青野太潮協力牧師によるメッセージの中で「すでに来られたイエス様をお迎えする」ことの大切さを告げて下さったのですが、そのような視点を大切にしつつ、これからしばらくの間、聖書教育から少し離れてキリストの誕生物語をシンプルに味わいたいと思います。

クリスマスの喜びとは何でしょうか。わたしは第一に、神の御子イエス様が聖霊によってお生まれになったことだ、と告げたいと思います。「聖霊による」とは、人間の思いや考え、策略によらないで、神の意志と計画によるという事です。

救い主イエスの誕生はマリアの胎内に聖霊が降り、そのいのちが宿りました。マリアとヨセフは婚約中でしたが、法的な婚姻関係のもとにあり、特にヨセフは晴天の霹靂だった事でしょう。ヨセフがこの困難の最中に悩みながら出した結論は離縁をするという事でした。離縁することで、マリアもお腹の子も社会の刑罰から逃れ、守られるかもしれないという判断でした。これを聖書では「正しい人であったので」(19節)としています。

人はみな「正しさ」を求めています。マスクをきちんと着用する「正しさ」。コロナ禍を何とか乗り越えようと「黙食」「黙浴」などの「正しさ」を人に追い求めています。しかし、実際のところ、本当の「正しさ」などは誰も知っていません。聖書の物語の中でヨセフが「正しい人であったので」とわざわざ前書きがしてあるのは、単にこの人が聖書に熱心であったとか、社会的な体裁に依る正しさを追い求めたという事ではありません。ヨセフやマリアが生きた当時の状況の中で、神の御心を追い求めて苦渋の中で決断をなそうとしたという意味だったのではないかと推察します。マタイ福音書の中で語られる「正しい人」とは自己義認的な正しさではなく、神から良しとされる「正しさ」を持つ人の事です。(2537

そのような中でヨセフの夢に天使が現れて告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」ヨセフは「マリアの夫」(19)などとも呼ばれますが、「ダビデの子」とみ使いによって呼びかけられています。「ダビデの子」と言われているのはかつて主なる神がダビデの子孫からメシア(救い主)をお与えになるという約束をヨセフに思い起こさせる一言でした。そしてそればかりではなく、イエスの誕生物語前にマタイによる福音書はその系図(11-17)から始めていますが、その系図を思い起こさせる一言でもあったことでしょう。

この系図には特にイスラエル民族にとっての罪と負の歴史をも含んできました。特に「~によって」と記される四人の女性の名にはそれぞれ近親相姦、遊女、異邦人、不倫などのイメージが思いこされます。人間的な、肉的な思いの中で積み重ねられてきた歴史の数々です。しかし、マリアによるイエスの懐胎の出来事は、これは「聖霊によって身ごもる/聖霊によって宿った」と、「聖霊によって」であるという事が強調されています(1820)。

 

ヨセフにとっての聖霊体験とは間接的な体験でした。マリアには聖霊が降り(ルカ135)ますが、ヨセフには「聖霊によって」としか告げられていません。この二人がイエス様を迎えるにあたっては、聖霊の直接体験と共に、間接体験においても、その恵みに預かることができる、と言われているのだと思います。イエス様の聖霊による誕生とは、御子イエス・キリストを聖霊によって私たちも頂くことに他なりません。不可能だと思っていることろに聖霊が働き、また救い主イエスを迎え入れる器とされているからです。困難の続く私たちの日々です。そして世界中が悩みと呻きの時代にあります。しかし、失望してはいけません。聖霊によって私たちは今救い主イエス様をお迎えし、聖霊によって神の愛が注がれているからです(ローマ5:3-5

 

 

<説 教> 

 

「十字架につけられたままのイエスを宣べ伝える

   青野太潮 協力牧師

  コリント信徒への手紙二 4章5-10節(新共同訳 新約 p.329

 

今日「十字架につけられたままのイエス」は、実際に生起した「歴史的な出来事」の経過には逆らった<存在>であった、という事実は、とても重い意味を持っています。「十字架につけられたままのイエス」は、十字架から降ろされて埋葬された「歴史的な実像としてのキリスト」では決してありません。そうではなくて、それはむしろ、パウロが自らの「内側」で「実存的に」受け止めた<存在>でありました。もしもそれを「歴史的」現象として言い表わすとするならば、おそらくそれは、「幻(Vision)を見るということ」以外ではなかっただろう、と思われます。

パウロは別の折に彼に与えられた複数の「幻」(optasia)に、第二コリント121節で言及しています。口語訳/新改訳は「主のまぼろし/主の幻」と訳していますが、新共同訳は「主が見せてくださったこと」と意訳しています。ルカ福音書2423節も、明確に「幻」に言及しています。つまり婦人たちは「イエスは生きていると語った天使たちの<幻>を見た」というのです。残念ながら新共同訳も口語訳も文語訳も、すべて「天使が現われた」としか訳していませんが、実際には「幻」という単語がそこでははっきりと使用されています。新改訳は正しくそう訳しています。また、新共同訳も、ルカ122節においては、まったく同じギリシア語の表現なのに、それを正確に、「ザカリアは聖所で<幻>を見た」と訳しています。

「幻」に関しては、ナチスのアウシュヴィッツ強制収容所を生き抜いた精神科医のヴィクトール・フランクルが、収容所において、その時点で生きていたのか亡くなっていたのかは不明であった彼の妻の「幻」と、静かに、それもかなりの時間「対話」をしたという実例が重要な参考資料となるであろうと思われます(新版『夜と霧』、池田香代子訳、みすず書房、2002年、6063頁)。

第一コリント155節の「(復活の)キリストが現われた」と訳されているパウロの文章も、実際には「キリストは<見られた>」と受身形で書かれていること、つまり「見る」(horaō)という動詞の受動態においてその出来事が記されているという事実は、広く知られています。つまりそこで語られているキリストの「顕現」とは、それを「見た」者が、「それはキリストご自身なのだ」と「解釈」した、という「主観的な」事実と結合している出来事なのです。パウロも、「私はわたしたちの主を<見た>ではないか」と語っています(第一コリント91節)。つまりその出来事は、それを「見た」者の受け止め方を抜きにしてまったく「客観的な」出来事であった、というわけでは決してないのです。パウロはローマ1115節では、彼のイスラエルの同胞が「不信心な者をそのままで義と認めてくださる神を信じる信仰のみが、人を義とするのだ、という<信仰義認>の現実」へと立ち返っていくことを、「死人たちからの生命」と呼んでいますが、そこでも、「死人たちからのよみがえり」と同様に、「この手でさわって確認できるような客観的な」事態ではなくて、「肉の目には見えないが、しかし心の目には見える」というような事態が考えられていることは明らかだ、と言ってよいでありましょう。

もしもパウロの、復活のイエスとの出会いの体験がそのようなものであったのだとすれば、パウロのそのような体験を否定する、とくにエルサレム教会のユダヤ主義的キリスト者たち(ふつうヘブライストと呼ばれる人たち)のような人々が存在したとしても、一向に不思議ではありません。またパウロが、第一コリント15810節において、復活のイエスと出会ったという自らの体験を、エルサレムの使徒たちの「復活」体験の連続線上にあるものだと強調し、さらにパウロのその体験は、ヘブライストたちのように「自分たちの体験は実体的な復活者イエスとの出会いの体験だったのだ」と主張していた人たちの体験と比較しても、何ら劣るものではなかったのだ、ということをパウロが彼らに認めさせようとしているのも、決して驚くべきことではありません。(余談になりますが、つい最近、大貫隆さんが、そのヘブライストの人たちの信仰のあり様についての興味深い著作『イエスの「神の国」のイメージ――ユダヤ主義キリスト教への影響史――』、教文館、2021年、を出版してくださいました。私との討論もかなり書かれていますので、ご覧になってみてください。)

 パウロたちが出会った「復活のイエス」は、パウロが第一コリント1544節で語っているところの「霊の体のイエス」であったのだ、と強弁する人たちがときどきおります。私もまた、「霊の体」そのものの存在を否定するつもりはまったくありません。しかし、それがほんとうにそうなのか否かがわからないところでは、そうだと強弁するよりも、むしろ私は、現代の科学でも医学でも明確に説明のつく「幻を見るという体験」を大切にしたいと思います。何よりもその「幻視体験仮説」は、新約聖書が「復活者イエス」として描き出してくれている現象を、うまく説明してくれると思うからです。すなわち、ドアが閉まっていたのに、イエスさまがすっと家の中に入って来られたり、一緒に歩いてくださっていてもそれがイエスさまだとはわからなかったり、しかしエマオの宿屋における夕食時に、イエスさまがパンを裂かれるご様子から、あっ、これはイエスさまだ、とわかったのに、わかった瞬間にはそのお姿は見えなくなってしまったり、などなど、「幻視体験仮説」によってなら、これらすべてはうまく説明ができると思います。

 心の深奥における出来事を、すべて「実体化」しなくては気が済まないようにして、まるで2000年前の世界観のなかで生きているかのごとくに思い、考えることは、決して信仰的な在り方ではない、と私は考えています。心の目を持ってしか見ることのできないものは、心の目をもって見るようにしましょう。そして願わくは神さまが、パウロの心の内に「み子イエスを啓示された」(ガラテア116節)ように、私たちの心の内にも、今、私たちとともにこの世の生の重荷を担い続けてくださっている「十字架につけられたままのイエス」を啓示してくださって、私たちに生きる勇気と力とを与えてくださいますように、心からお祈りいたします。

 

 

 

  <説 教> 

                  「再建と再会のハレルヤ 崇牧師

          詩編 1471-20節(新共同訳 旧約 p.987

 

おはようございます。先週月曜日に渕上博也兄が急遽天に召されました。先週の日曜日には平尾会堂で共に礼拝を捧げていたので、急なお別れと旅立ちでした。渕上博也兄は生前にご自分の葬儀について書き残しておられました。基本的に葬儀は親族のみで行うこと、静かに旅立ちをしたいこと、愛犬のテツさんと共に墓に入りたいことなどが書かれてありましたが、それと共に愛唱聖句と愛唱讃美歌も記してありました。愛唱聖句はルカ福音書6.31「人にしてもらいたいたいと思うことを、人にもしなさい」でした。愛唱讃美歌は何曲か選ばれており、今日の礼拝で歌われている讃美歌の他にも多数選ばれていました。渕上兄の選ばれた愛唱讃美歌はどれも教会でよく歌われる賛美歌でした。葬儀などで歌われる「主よ、みもとに近づかん」、主の晩餐時に歌われる「わが主よ、ここに集い」、結婚式や記念会などで歌われる「慈しみ深き」などもそうです。その讃美歌の中には主の復活を讃える讃美歌もふくまれており、兄弟がイエス様の罪の赦しと、また復活の命を固く信じていることを思わされました。教会でさまざまな時に歌われた讃美歌の数々から渕上兄がいかに教会をよく愛されていたが伝わってきました。

 今日の聖書の箇所は詩篇147篇です。長らく詩篇を続けて読んで来ましたが、今週でひとまず終わりを迎えます。詩篇147篇はハレルヤ詩篇と呼ばれ、146-150篇の詩篇の最後に納められています。ハレルヤ詩篇の特徴はどれもその詩を「ハレルヤ」から始め、「ハレルヤ」で終わります。ハレルヤとは皆さんがすでに知られている通り、「あなたたちは主を讃えよ」という意味です。「ハレルヤ」とは「ハレルー」(あなたたちは讃えよ)と「ヤー」からなっています。「ヤー」とは「ヤハウェ(主)」を意味しています。ハレルヤとはあなた方は主を讃えなさいという意味ですが、特にヤハウェ(主)と言う神の名は、人を救いへと導く人格的な神の名を表しています。それは人間の言葉に応答してくださる神の名としての主です。

 私たちは生きていく中でぼんやりとこの世界を創られた神がいるのだろう、と考えています。日本においては八百万の神がいて、どこかしこにも神は存在しているとされていますが、実際のところ、本当に神が存在しているようには人間は振る舞ってはいないわけです。神は遠い存在、あまり関わりのない存在、何か願い事があれば頼みに行くと言った存在です。

 しかし、主なる神は違います。私たちの人生に常に伴い、救いと助けをお与えになる唯一の神としてこの方を「主」と呼んでいるのです。この方は人間の命の生き死にの最初から最後まで伴われる方であり、それゆえにこの方を人間が知った時、この方こそ誠の神、主であることに気付かされます。この方は神の姿を捨てて人間となって下さった救い主イエスです。私たちの教会ではクリスマスの時期にハレルヤコーラスを歌ってきましたが、まさにこのハレルヤとして讃美される方は主の主、王の王としてこの地上に来られた救い主イエス様の事です。

 ハレルヤと詩篇147篇が歌っているのは、再建と再会が人々に備えられたからです。

「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた人々を癒し、その傷を包んでくださる」

 過去イスラエルの人々は自らの罪の故に戦争に負け、異国に連れて行かれ奴隷となっていました。エルサレム神殿は破壊され、人々は連れ去られて散り散りになっていたのですが、ペルシャのキュロス王によって人々は助け出され、また祖国への帰還と神殿の再建が行われました。実に70年かけてエルサレム神殿は再建されたのですが、彼らはその再建と、また人々が共に集い、礼拝を捧げられることを心から喜んだのです。それは神殿つまり建物の再建、と言うだけでなく、自分自身の信仰の再建でもありました。長びく苦痛と苦難の中、神を信じる信仰も弱り、崩れかけている中で、星のひとつひとつに名が記されているように、主はひとりひとりをお忘れになることなく、その名を呼んで再び再建された神殿へと集めて下さった神を再び信じるという信仰の再建でした。

 詩篇147編は主を賛美する3つの歌からなっています。1-6節、7-11節、12-20節です。それぞれの主を賛美する理由がひとつひとつあります。そして、それぞれの始まりに「褒めたたえよ」、「ほめ歌を歌え」と呼びかけられています。

 1-6節 

ひとつは神が一人ひとりの名を覚え、贖い、救い出してくださったことへの讃美です。「追いやられた人々」「打ち砕かれた人々」「貧しい人々」をそれぞれに、呼び集め、その傷を癒し、またその傷を包み、またその心を強めて励ましてくださる主を讃えています。

 7-11

ふたつめの段落では、生きていくために必要な農業を支える配慮をされる主への感謝です。日ごとの糧を野の獣に備えられる神様は、わたしたちにも必要な糧を備えて下さる。だから恐れないで感謝の捧げものをささげ、ほめ歌を歌おう、と告げています。

 12-20

第三の讃美は、神の領域に住み、また心を寄せるものの幸いです。13-14節までの間に歌われている場所とは、神様の領域の中に生きるものの幸いについて語られています。具体的には城門のかんぬきとあるのは、ここではエルサレム神殿の事です。この詩篇をよむわたしたちにはキリストの教会と言ってよいでしょう。神殿や教会以外の他の場所には我々の心を打倒し、心を暗闇にさせ、希望を持たせなくする死の力が働いていますが、神の領域に心を寄せ、生きるものには心の平安、またみたしがあるという事を告げられています。

 

近年では新型コロナウイルスの影響によって人々の生活スタイルが変わり、またそれに伴って足がなかなか他に向きにくい時代になりました。私が好きだった天神の警固にあるラーメン屋さんも閉店してしまいましたし、大名商店街のクリーニング店も閉店が続いています。飲みに行くことが無くなったら締めのラーメンも食べないでしょうし、人と会わなかければクリーニングに洋服を出す必要もなくなるでしょう。会議はZoomでも出来、食べ物も配達してくれるという便利な時代になりました。しかしその一方で、人々の生活の本当の豊さというのは失われていっているような気がします。

それは、教会においても例外ではありません。スマホやパソコンを使えば自宅にいながら礼拝が出来ますし、わざわざ教会まで行かなくてもよいやという時代になりつつあります。しかし、教会の存続する意義というのは、やはり共に讃美を歌う事です。信仰を再びもやし、あるいは自らの信仰を建て上げるために教会に集いますし、また教会を建て上げるために教会に集います。つまるところ教会という建物がたっていたとしても、人がいなければそこは教会足りえません。そこに集うひとがあってこその教会です。教会では信仰者と再び会うことが出来、兄弟姉妹の証しを伺う中でまた力強められていくのです。

 信仰生活を送るうえでは、霊的な信仰の落ち込みもあります。急病になったり、愛する人を失ったり、また仕事を失ったり、人間関係も失われることがあります。そのよう中で信仰の冷え込みもまたあるのですが、自分の信仰が弱められている、と思うときは、神の御言葉によって苦しみを与えられているのだと理解すると良いと思います。今日の聖書個所の15-18節にはこのようにあります。

 「主は仰せを地に遣わされる。み言葉は速やかに走る。

羊の毛のような雪を降らせ 灰のような霜をまき散らし

氷塊をパンくずのように投げられる。誰がその冷たさに耐ええよう」

 「主のみ言葉は速やかに走る」とは「雷鳴」を意味していると取れます。

すなわち、雷鳴が光れば地に音が轟くように、驚くべきことが人間に知らされることがある、と。

「雪」「霜」「氷塊」とはどれも冷たく、寒いものです。

それはひとたびそれが降れば周りが冷えて凍り付きます。人々は厳しい時代の中で、なんでこんなにつらいのか、人間がその苦しみのゆえにつぶやくことがあるだろう、そしてそれはその厳しさのゆえに湛えないかもしれない、とまで言われています。

 しかし、続く18節において、その御言葉の厳しさ、懲らしめに続いて、次の言葉が紡がれます。

「御言葉を遣わされれば、それは溶け、息を吹きかけられれば、それは流れる水となる」これはつまり厳しい冬の時代もあるが、神の御言葉が吹きかけられれば、それは春となり、新しい命が芽生えると約束しています。この一連の詩には、信仰者の受難と復活が、神の御言葉の厳しさと赦しが語れらているように思います。受難の方がちょっと長く語られているのがみそかもしれません。

 18節の「息」とはヘブライ語で「風、霊」を意味する単語です。「主なる神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」創世記2:7とあるように、神の息、神の霊が私たちに吹き入れられる時に、人間は呼吸をするもの、会話するもの、歌うもの、祈る者とされます。心の氷が溶かされて雪解け水となると言われます。それは復活のいのちが備えられるという事です。

 これは復活者イエスも、十字架において挫折をし、イエス様を見捨てた弟子たちの下に行き、息を吹きかけて言われます。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」ヨハネ2022-23

信仰に生きる中での御言葉の厳しさとまたそれに続く神の息、赦し、そして人を生かす命の息聖霊が備えられています。それは私たちにはイエス様によってその聖霊の息が今吹き入れられている、という事を共に覚えたいと思います。

 

 詩篇147編のハレルヤ詩篇の中では数々の讃美を持って編まれていることを私たちは知りました。今日の聖句から、私たちが日の始まりから日の終わりまでハレルヤと歌っていきたい讃美は三つあります。ひとつは「主の救い、主の助けに関する讃美」です。ひとつは「日ごとの糧、生活、自分がなしている働きや学びについての感謝の讃美」です。そして最後は「神と共に生きることで、起こる受難と復活を覚えて讃美をする」という事です。そしてこの詩篇のちょうど中心には、主の喜ばれる人として11節がちょうど真ん中にあるという事を覚えたいと思います。「主が望まれるのは主を畏れる人。主の慈しみを待ち望む人」再建と再会のハレルヤの中で、共に主の慈しみが一人ひとりに注がれることを祈りたいと思います。祈ります。

 

 

<説 教> 

都に上る歌幼子とぼくとかみさまー」 崇牧師

          詩編 131 1-3節(新共同訳 旧約 p.973

主の御名を賛美します。今日は詩編131篇から共にみことばに聞いていきたいと思います。今日の箇所は「都に上る歌」(120134編)のひとつですが、これは先週礼拝で分かち合いをしましたみことばの大家である詩編119篇の後に納められている一連の詩篇歌です。「みことばを頂きに、都に上ろうよ」との繋がりが見出されます。

都に上る歌の多くは、時代的にはバビロン捕囚後に書かれたものと推察されます。イスラエルの人々は戦争に負け、異国の地に連れて行かれ、捕囚となっていたのですが、彼らはその間に自分たちの罪について深い反省と悔い改めの立場に立ちました。それは過去、自分たちの生活には驕りがあり、自分さえ良ければ良いという価値観の中で貧しい人が横にいたとしても助けることをせず、自分優先に生きてしまったことでした。「隣人を自分のように愛せよ」という戒めに生きることが出来ませんでした。そればかりか自分の生活の安定や裕福さを求めるあまり、豊穣の神バアルに祈りと願いとを捧げ、唯一なる主への信仰に立たずに偶像崇拝に走り、自らを高くしてしまったことでした。 

彼らはそれらの罪の故にバビロン捕囚という憂き目にあうのですが、その苦しみの最中も、どこか別の大国がきて自分たちを救ってくれるだろう、という期待すら抱いていました。ですから「大きすぎること」「わたしの及ばぬ驚くべきこと」とは超越的な救いが他からくることを追い求めていたわけです。 

たしかに分かる気がします。私たちも様々な苦しみの中でなんとかそれから逃れようと他の何かを頼ることがあります。しかし結局のところ、唯一の頼みの綱とは主なる神であると言うことにきづかされます。 

彼らはその様な中でペルシャのキュロス王によって助け出され、あるものはエルサレムに戻り、街や神殿を再建して行くのですが、復興された神殿は以前の様に豪華絢爛ではありませんでした。壊れた廃墟となった神殿の中から聖書が発見されました。そして発見された律法/トーラーを中心としたみことばの朗読がメインの礼拝の場所となっていきました。神さまの存在のみを追い求めることこそが、一番大切なことであったことに気付いた人々は、それぞれ住む場所から、エルサレムの神殿がある場所へと集ってきます。ある者は幾日もかけて旅をして神殿のあるエルサレムに参るのです。そしてその門の前で読まれたとされる詩篇が今日の131編です。朗読。 

「わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸の中にいる幼子のようにします」 

ここで言う幼子とは乳離れした子ども、と言う意味です。この聖句でわたしはひとつのシーンを思い起こすのですが、それはわたしの日常の中にあります。一日の働きを終えて2歳になる息子を迎えに行って家に帰ってくる時には大体5時を過ぎます。さて、子守しながら夕食を急いで作らなきゃ、と言う時に疲れてソファーに座り込んでしまう、と言うことが度々あります。そう言う時に、息子は何を言うでもなくわたしの横にやってきて、ちょこんと座ってくれます。どう言うことで一緒に座ってくれるのか分かりませんが、とにかく黙って側にいてくれるわけです。たまに顔をあげて一言、「ぎゅーにゅ」という時もありますが。しかしだいたい黙して隣に座ってくれます。親の私を信頼して横に座っていれば大丈夫だと言う信頼をもしかしたら表してくれているかもしれません。 

詩人は「母の胸のうちにいる幼子のようにします」、と告げます。お母さんやお父さんの胸の内に入れば安心だ、安全だと幼子は思うのかもしれませんが、親の気持ちとしては、むしろ幼子がそこにいてくれるという事がどれだけありがたいか、はかり知れません。神様の下に集う、そして礼拝を捧げるとは、まさに子どもが親を信頼するように、信仰者が神を信頼してやまない、そのことを言い表しているのだと思います。 

詩人は幼子が信頼を寄せるのは「母である」としています。それはもうひとつのことを告げているように思います。それは主なる神の父性、つまり「父なる神よ」と呼びかける一般的な神への信仰理解から、創造者なる神は母性、母なる神でもあられるとの信仰の言葉だったのかもしれません。母なる神として、どのような幼児であっても、その子どもを受け入れてくださる、と。そしてどんな人をも子どもとして受け入れてくださる、と。 

新約聖書の話の中に、幼子とイエス様の話があります。救い主イエス様に子どもを祝福してもらおうと連れてきた人々に向かって弟子達がそれを阻んだ時、イエス様は、「子どもたちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(ルカ18.16-17)と言われました。 

ルカによる福音書では、この子どもたちの事をより幼い嬰児、「乳飲み子」としています。これは先ほどの幼子よりももっと産まれたての弱い存在を表しています。子どもはすでに神の国を受け入れているのだと言われるイエス様の言葉には、いつもその言葉の意味は何だろうか、と思わされます。イエス様の真意が深いところまで理解できなくても、イエス様は乳飲み子さえも、「よちよち、おいでおいで」とあやしながら招き入れてくださるその姿を思う時に、わたしもまた主にある子どもとして素直に主を信頼し、また主に委ねる者でありたいとそう思わざるを得ません。 

主を信頼するというイメージを、皆さんどのように受け取られるでしょうか?今日の聖書の言葉から言うと、「黙る」「黙する」という言葉が受け取れます。ここでの沈黙とは、静まって瞑想している、そう言うイメージです。 

イエス様と弟子達が船に乗っていた時、ガリラヤ湖で突風が襲ってきた時、イエス様は眠っておられた、と言う話があります。弟子達があたふたあたふたして、ついにイエス様に向かって叫ぶわけです。「私たちが死んでもいいのですか?」と。イエス様はそこで起き上がって「黙れ、鎮まれ」といって嵐を治めます。その後にこのように言うのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」 

イエス様が言われた意味は「まだあなた方には信(仰)が無いのか」という事です。つまり信仰が無いから叫ぶのだ、あるいは恐れるのだと言われているのですね。それはすなわち、救い主イエス様と共にいるのであれば大丈夫だ、船が沈んだとしてもなんとかなる、それがどんな形でも構わないと言う無形の信頼は無いのか、とイエス様が問われたということです。(マルコ5.35-41

それはつまり形のある安心は信仰や信頼ではなく、無形、形のない信頼こそ信仰である、ということです。こうなったら大丈夫という状況に我々の心は支配されがちです。しかし、この方が共にいてくださるのであればどうなっても大丈夫という、未来の見えなさも先行き不透明さも主イエスが共にいればどんな状況も進み行けるという希望に共に立つものでありたいと願います。 

主を信頼する、というもうひとつのイメージは、「目を上げて主を仰ぐ」と言うことも忘れてはなりません。今日の詩篇の一節には「驕る」「高くを見る」と言う言葉が否定的に人間の信仰に用いられていますが、実は旧約聖書の中ではこの「驕る」とは「高い」という意味を持っています。聖書の中では「天が地を越えて高いように、慈しみは主を畏れる人を超えて大きい」(詩篇103.11)人の思いを遥かに超えて大きく高い神をあらわす言葉です。 

「我が心は驕らず、我が目は高きを見ず」と続く「高くを見る」とは聖書の中では「誓う」「大声をあげる」「叫ぶ」などとも訳される言葉ですが、身体的動作も指して「手をあげる」という言葉に通じます。 

実はこの言葉は、驚くべきことに、出エジプト記1415章において、三つの驚くべき単語に変化していきます。ひとつは「意気揚々」と訳されている単語です。開ける方は是非聖書を開いてみていただきたいのですが、これはエジプトを脱出する時に、神が数々の奇跡を用いてファラオと対決をし、モーセを先頭にエジプトから脱出した時に、イスラエルの人々は「意気揚々」と出ていった(14.8)とあります。

出エジプト記 14 8

主がエジプト王ファラオの心をかたくなにされたので、王はイスラエルの人々の後を追った。イスラエルの人々は、意気揚々と出て行ったが、 

「よっしゃ神様が救ってくれた、主が助け出してくれた」という気持ちの高揚を持って人々はエジプトを出ていった訳ですが、人の心は変わりやすいものです。追ってきたエジプト軍を前に人々の気持ちは一転して、「私たちを荒れ野に連れ出したのはエジプトに墓が無いからか」とモーセに文句を言う訳です。弱い人間の気持ちの高揚、そして高ぶりです。 

しかし、ここで主なる神はこう言われます。

「恐れてはならない。落ち着いて、今日あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」 

主はモーセに言われた。なぜわたしに向かって叫ぶのか、イスラエルの人々に命じて出発させなさい。杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて海を二つに分けなさい」 

二つ目は「杖を高く上げよ」(16節)です。主なる神様は、人々の「意気揚々」に答え、神の人、神の僕モーセを通して「杖を上げさせ」救いのみわざを成し遂げられるお方です。主なる神に対する期待や、人間の高ぶりも、何一つ見捨てることはなさらない方です。むしろそれに変えてご自分のわざを常に表してくださる主なる神は本当に褒め称えられますように。 

そして最後の三つ目の単語は「あがめる」(15.2)です。それは大いなる救いの奇跡を受けたモーセと民が主を賛美して言います。

「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。

この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる」 

人々の「意気揚々」は人の気持ちの浮き沈みを通しつつ、「杖を高くあげよ」との命令になり、またそれは最終的に賛美となり、神を高く「あがめる」ということにつながっていきます。目をあげるとはつまり、神に期待をすること、そして主の救いを待ち望むこと、そして主の救いを記念して讃美を歌い、礼拝することに繋がっていきます。 

主を信頼するとは「黙している/静まっている」ことだけではなく、同時に主のみわざを覚えて主を見上げつつ、前に歩むことを今日共に覚えました。私たちの教会では新しい主任牧師を迎えるための総会を待とうとしています。心配や不安もあるかもしれませんが、しかし主の最善だけがなることを信じ委ねつつ、この後の総会と、またこれから始まる新しい信仰の旅へと共に進んでいきたいと思います。総会には主に期待しつつ「意気揚々」と望みたいと思います。神さまは大きな救いを実現してくださるために「杖を高く上げさせ」「大いなる感謝と賛美の礼拝」を起こしてくださることを主に期待したいと思います。

るという意味です。つまり暴力と不正に満ちたこの世の中から、神はご自分のものとして私達を買い戻され、罪の中ではなく、神の光の中に置かれたということです。つまり、神の贖い、あるいは神の解放、神の救い、そして神の助けが私達の先に、あるいは前にあるからこそ、神の言葉を守り、また神の言葉に生きるのです。聖書では「あなたの命令」とありますが、これは教訓、教え、戒めのことです。かつてイスラエルの民がエジプトから脱出した救いのみわざの後に、モーセを通して神の御言葉(十戒)が与えられたように、私達もまた主が救ってくださる、そして主が助けてくださるだから、神の言葉に従おう、神の言葉に生きようという緊張関係と、またその救いから御言葉へという連続性が私達にとって大切なことなのではないかと思います。

 

祈ります。

 

 

<説 教> 

    「ペー。み言葉を愛する生き方の鍵」 崇牧師

          詩編 119 129-136節(新共同訳 旧約 p.965

 

おはようございます。今日は詩篇119篇からみ言葉を共に味わっていきたいと思います。詩篇119篇はアルファベットによる詩です。

聖書の中でも最長の章ですが、各アルファベットから始まる詩を8つ並べています。ヘブライ語は22文字ありますので、176節まである壮大な詩です。この詩がなりよりも凄いのは、神の御言葉に対する尊敬の深さです。119篇は1節ごとに神の御言葉を様々な言葉に言い換えて、一節ごとに必ずそれを入れています。

今日の聖書の箇所でいえば何がそれに当たるでしょうか。最初の方から読みますと「あなたの定め」「御言葉」「あなたの戒め」「裁き」「仰せ」「あなたの命令」「あなたの掟」「あなたの律法」とあります。これらの御言葉の様々な言い換えを詩篇119篇は一節に必ず一個組み込んでいますから、これを読まれるときにはそのことに注意を向けて読まれると良いと思います。詩篇119篇はその初めを「いかに幸いなことでしょう。まったき道を踏み、主の律法に歩む人は。いかに幸いなことでしょう。主の定めを守り心を尽くしてそれを訪ね求める人は。」と始めています。「アシュレー」という「幸いなるかな」という言葉から始まっています。イエス様も「幸いなるかな」という言葉を持って山上の説教を始められ、神の御言葉に生きる様々な指針をお語りくださいました。イエス様が言われた幸いの教えはこうです。「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人達のものである」幸いを告げるイエス様がそこに来てくださるからこそ、またその神の御言葉を伝えてくださるからこそ、貧しいものの幸いが実現します。詩篇では、幸いな人は、「主の律法と共に歩む人」と言われています。「主の律法」とはヘブライ語で「トーラー」という言葉が使われています。キリスト教に慣れていらっしゃる方が「律法」と聞くとなんだ法律か、人を罰する厳しいものだろうと思ってしまいますが、旧約聖書で言われる律法/トーラーとはもっと深い意味があります。それは「主の教え」という意味であり、申命記などに記される諸々の掟や法、命令をも意味しますが、律法/トーラーと言われるときには創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記などのモーセが書いたとされる五書を指しています。さらには旧約聖書全体をも意味する単語なのです。そしてこの「律法」という言葉が用いられるとき、ほとんどの場合、「~の律法」と言われます。「あなたの律法」「主の律法」などです。これは単なる律法ではない、あなたの言葉ですよね、という尊敬が込められています。だから私達が聖書を「本」とするのではなく、「あなたの本」、あるいは「言葉」ではなく、「あなたの言葉」とすることに通じるのです。ちなみに聖書の中に「御言葉」と訳してある言葉は殆どの場合、「あなたの言葉」とヘブライ語で書かれています。「あなたの言葉」を私達は「御言葉」として呼んでいるのです。基本的な事柄として、私達は聖書そのものを神の言葉とし、主なる神様から頂く言葉としてこれを尊重しています。ところどころ、受け入れがたい言葉もたくさん出ては来るのですが。

今日の聖書の箇所は「ペー」というアルファベットから始まります。この「ペー」というヘブライ語の象形文字をたどってみると、どうやら「口」を意味するようです。今日は「ペー。御言葉を愛する生き方の鍵」という題とさせて頂きましたが、詩篇119篇に流れる、聖書を愛し、御言葉に生きる人生への鍵として3つのことをお話したいと思います。

御言葉のエントランスを設ける(1301つ目は、御言葉の入り口を設けるということです。130節には「御言葉が開かれると光が射し出で、無知なものにも理解を与えます」とあります。実はこの最初のペーの単語は「開かれる」というところに該当します。129136節まですべての冒頭のペーの単語を言うと、129「驚くべきもの」130「開かれる」131「わたしの口」132「向け」133「わたしの足取り」134「解き放つ」135「御顔」136「川」となっています。時間の都合上すべてを扱うことは出来ませんが、特にこの130節の「開かれる」とは聖書が実際に開かれている状態のことを表しています。聖書が開かれると、人生に光が指す、暗闇で進むべき道を失ったものにも確かな導きが与えられることを約束しています、無知なものとは愚かなものと言う意味ではないです。英語では「To the simple」としていますが、ちょうど無色であった白の画用紙に色が加えられていく、人生の目的や意味が明確になっていくということです。その始まりは、「聖書を開くことだ」と告げています。原典を直訳すると「あなたの言葉の入り口に光が与えられる」となります。すなわち、御言葉のエントランス(入口)を作りなさいということです。皆さんは聖書が家にあると思いますが、聖書をどこにおいておられるでしょうか?本棚ですか?実はいつ開いてもいいように、聖書の入り口を自分の生活の身近なところに備えておくということが非常に大切です。読みたくなったとき、また神様から呼ばれているかなと思ったとき、すぐに開ける状態を作っておくと良いと思います。「御言葉の入口」というと、ユダヤ教の家庭の玄関を思い起こします。映画などでもご覧になられた方があるかもしれませんが、ユダヤ教の家庭では申命記6:4「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」と書かれた聖句を玄関の壁にかけ、家を出るとき、入るときにはそれに触れたり、口づけして親愛を表したりしています。私達の家の入口や、あるいは生活のよく使うところに、聖書の言葉の入り口を多く設けておくというのはとても大切なことだと思います。これが私達にとって嬉しいのは御言葉の入り口を設けておくだけで、光は与えられると言われていることです。理解や納得の先に光があるのではなく、聖書が身近にある、その入口が存在している、そこに光が指していると言われるのは大変うれしい言葉です。

御言葉を口に含む(129,1312つ目は、御言葉を口に含むということです。ペーというヘブライ語の象形文字は「口」を意味していたという話はしましたが、聖書は何よりも口に含み、音読されることで大きな力を発します。ペーという発音からも、自分の口を閉じ、唇から息を吐き出すようにして発音します。古代イスラエルにおいては、印刷技術もありませんでした。ですから尚の事読んで朗読されることそのものが礼拝の大切な要素でした。そして聖書の朗読は信仰の継承でもありました。神の言葉の意味や目的について度々繰り返し読まれ、また朗読をされてきたわけです。神の言葉は道、あるいは光、あるいは掟、あるいは戒め、などなど。それらが口に含まれるときには甘いのだとされます。129節の「あなたの定めは驚くべきものです」とありますが、「驚くべきもの」とは岩波訳聖書では「はちみつの流れ」と紹介しています。それはすなわち、美味しいし、ためになるということです。「あなたの定め」とは「あなたの数々の証し」と訳せる言葉で、神がなさってくださる数々の証は驚くべきものであり、またそれゆえに、わたしの魂(いのち)はそれを守りますと宣言しています。

朗読することの大切さは、イエス様もユダヤ教の会堂の中でイザヤ書を朗読されたとあるとおりです。ルカによる福音書/ 4 16-20節イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

イエス様も聖書を朗読することを大切にしておられたというだけではなく、まさにこの後に福音宣教に出ていかれるのですけれども、そのイエス様の活動の原動力となったのが、聖書の朗読からであったということはもっと注目されて良いことだと思います。イエス様のこの朗読の後の言葉が私達には嬉しく響きます。「この聖書の言葉は、今日、あなたが耳にしたとき、実現した」。イエス様は聖書の朗読とまたそれを聞く聞き手との間で、神の言葉は実現するのだと言ってくださっています。私達が朗読をしない理由は、もうありませんね。

神に心を向け、祈る(132,133,134)御言葉を愛する、という生き方の中には御言葉の入り口を設ける、そして読む、あるいは音読するというだけではなくて、「神に心を向け、祈る」ということが大切な三番目のポイントだと思います。132節では、「御顔をわたしに向け、憐れんでください」とあります。ここには神に向かって顔を上げ、神の顔を乞い求める祈りと願いがあります。詩人の祈りは明確です。「神に向かって憐れみを乞い、自分の人生の足どりが確かなものになること、暴力と不正に満ちる世の中でしっかりと神の僕として生きることができるように願うこと、神のみ顔が自分に照らされて生きることができるように」との祈りをなしています。聖書を読むということは自分の中が照らされて、自分の内側にある祈りと願いとを神に注ぎだすことに通じるのです。

最後に、救いと御言葉の関係性について皆さんと分かち合ってこのメッセージを終えたいと思います。みなさんが聖書を読まれるのはなぜでしょうか?あるいは日常的に聖書を読まれないのはなぜでしょうか。教会で礼拝を守っていれば、それで十分じゃないか、と言われる方もおられるでしょう。そうです。それでも良いのです。大切なことは、御言葉の入り口を設けて於けばよいのですから。ですが、ここでもう一歩踏み込んだことを言うと、私達が聖書を覚えたり、暗唱したりすることの意味は、私達自身が御言葉のエントランスとなるためです。人々の生活の間に立ち、また主の光がそこから入り込んでくるために。家族に、あるいは友達に、上司に、また部下に。私達が聖書を読む明確な理由はなにか。それは、一つの答えは、それは私達が神様によって助けられ、救われ、聖霊の導きをすでに受けているからです。明確な御言葉は134節の御言葉です。「虐げるものからわたしを解き放ってください/わたしはあなたの命令を守ります」です。この「解き放つ」という単語は同じ詩篇の2522節で「贖う」という言葉に訳されています。「贖う」とは買い戻されるという意味です。つまり暴力と不正に満ちたこの世の中から、神はご自分のものとして私達を買い戻され、罪の中ではなく、神の光の中に置かれたということです。つまり、神の贖い、あるいは神の解放、神の救い、そして神の助けが私達の先に、あるいは前にあるからこそ、神の言葉を守り、また神の言葉に生きるのです。聖書では「あなたの命令」とありますが、これは教訓、教え、戒めのことです。かつてイスラエルの民がエジプトから脱出した救いのみわざの後に、モーセを通して神の御言葉(十戒)が与えられたように、私達もまた主が救ってくださる、そして主が助けてくださるだから、神の言葉に従おう、神の言葉に生きようという緊張関係と、またその救いから御言葉へという連続性が私達にとって大切なことなのではないかと思います。祈ります。

 

 

<説 教> 

「わたしの名のために」 奥村献神学生

 

               マルコによる福音書 9 33-37

 今日の聖書の場面は、イエス様の活動の終盤です。弟子たちはこれまで、イエス様と共に歩み、イエス様がどのような方であるかということを一番近くで見てきました。弟子たちは、イエス様のことを一番よく理解していたはずでした。しかし今日の場面では、イエス様の大切にされていたことを、実は弟子たちは全く理解していなかったということが明らかになっています。

イエス様は、カファルナウムの家についてから弟子たちにこう問われました。「途中で何を議論していたのか」。弟子たちは黙りました。彼らは移動の「途中でだれがいちばん偉いか」ということを議論しあっていたからです。弟子たちはおそらく、自分のしてきた功績がどれだけ大きなものか。または、自分の能力がどれだけ優れたものであるか、などについて語りあっていたことでしょう。「議論しあっていた」とありますので、誰が偉いのかということで意見がぶつかり、ヒートアップしていたかもしれません。

そのような弟子たちにイエス様は「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」と語られました。

教会は今、このみことばにどのように聴いていくことができるでしょうか。力や名誉、そのようなものをほしがる欲望は、私たちの歩みの中で繰り返し襲ってきます。それは教会でも起こります。私は自分自身の歩みを振り返って、多くの反省と共に今日のみことばを読みました。最初は、人のためにと手をあげて、善意で始めた奉仕も、いつのまにか自分の居場所となり、次第に偉くなっていってしまう。いつのまにか、人のため、神のための奉仕ではなくなる。そのようなことはないでしょうか?

私たちの歩みの中には、今日の聖書の弟子たちのように、そもそも自分たちの使命はいったい何だったのかということを、全く見失ってしまうようなことがしばしば起こります。いつのまにか、自分のために、またはその奉仕をこなすために動いている。私自身このコロナの状況の中で、自分の信仰生活の歩みを振り返るときに、反省ばかりさせられています。

36節からの箇所には、次のように記されています。「そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。』」

「子供の手を取って」という言葉に、イエス様の優しさが滲み出ていると思います。いきなり子どもをかかえて、連れてくるのではない。呼び寄せるのでもない。尊厳をもった、尊い存在としてのこどもを、あくまで丁寧に案内するイエス様。まさにこの姿にこそ、私たちの倣うべき姿があるように思います。

子どもは自由で、手がかかり、時に周りの状況を考えてくれません。しかし、そのような存在をこそ、まず受け入れる。そのことがイエス様を受け入れることなのだと、イエス様ご自身が語っておられます。

イエス様は「『私の名のために』そのような存在を受け入れる者は」と言われました。ご自分に起こること全てを受け入れ、すべてを受け止めて十字架にかかられたイエス様。そのイエス様の名のために、この世で小さくされたもの、低くされたものを受け入れる。そのような生き方が今私たち一人ひとりに求められているような気がします。

 

私たちは弱く、限界がある小さな存在です。しかしイエス様は、その小さく弱い私たちをこそ真ん中に立たせ、受け入れてくださいます。だから私たちもそのイエス様に答えて、そのイエス様に倣うものとして歩んでいきたいと思います。

 

 

 

<説 教> 

「王への祈り」 森 崇牧師

             詩編 72 1-19節(新共同訳 旧約 p.906

 

 おはようございます。
衆議院議員総選挙が始まっています。選挙カーが街中を走ったり、各地で街頭演説も聞かれるようになってきました。この国のことを治める大切な選挙になりますが、特にコロナ禍における雇い止めが拡大し、非正規雇用の方々が路上に出て行かざるを得ないそのような状態が続いています。福岡市では現在150名ほどの方々が路上におられます。おにぎりの会や、また様々な支援がなされていますが、公園でなされる弁当配布にすら恥ずかしくて行けないという声も聞いています。助けを求めると言うことすら容易ではない世の中の雰囲気です。子どもや女性、あるいは社会的に弱くさせられている外国人労働者や、路上で暮らす人々のいのちが助けられ、その方々の発する声が受け入れられて、人々のいのちそのものが大切にされる為政者を探し、また求めたいと思います。
今日は詩篇72篇です。古代の政治的リーダーであった王に対する祈りがなされています。これは初めに「ソロモンの詩」とされていますから、栄華を極めたソロモン王のことをイメージしつつ、綴られた詩です。イスラエル王国はソロモン王の時代に絶頂期を迎えました。彼はイスラエル王国二代目の王ダビデ王の子どもでした。ソロモンがその後を継ぐ時に彼は夢枕で神さまの顕現に会うことになります(列王3章)。その時ソロモンは神様に「望むものは何か」と問われました。ソロモンはその時に、自分がとるに足らない若い僕であることを主に告げ、そしてこのように願います。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することが出来るように、この僕に聞き分ける心をお与えください」
知識や力や栄光、または自分の長寿ではなく、ただひたすらに民の声に耳を傾け、また善と悪を裁き、また起きている出来事を正しく理解する心をソロモンは求めました。ソロモンが求めたものは何よりも「心」であったという事は非常に大きな意味があります。知恵や力や経験ではなく、大切なのは「他者を理解するための心」です。「心」とは聖書では心臓という意味の単語が使われていますが、これは意思や決断、決意的な場の事です。ソロモンは何よりも人々の側に立ってその心を汲み取りたいとそのように決意していました。主なる神はこのソロモンの願いを大変喜ばれ、「知恵に満ちた賢明な心」を授けられました。ソロモンの名声はその後他国にまで届き、様々な国から捧げ物や貢物が贈られることとなりました。
そのような栄光の王に対して、この詩篇は、王の政治体制と永続性について語ります。それは王によってなされる政治が、公正と義によってなされますようにとの祈りと願いです。詩篇721節は口語訳ではこのようになっています。「神よ、あなたの公平を王に与え、あなたの義を王の子に与えてください」と。公平と義とは特に旧約聖書の中で大切にされるふたつで、切っても切り離せません。公平とは人を分け隔てしないこと、そして義とは神によって尊い存在とされることです。公平と義が人々によって追い求められる時、人々が平和に暮らす社会が実現し、また救いが実現し、その平和は人々の中だけでなく、山々や丘と3節や16節にあるように自然界にまでそれは及びます。良い政治は、自然社会にまで影響を及ぼす、ということです。原発、地球温暖化、神が備えられた自然に対しての視座がそこにはあります。
そしてそのような中での「栄光」とは一体何かというと、国が栄えることではなくて、貧しい人々が助けられ、支えられ、生きることが出来ることだ、と告げているのです。聖書にある「栄光」とは、カボードというヘブライ語ですが、「重い」という意味があります。これは軽いの反対の言葉です。つまり、国が栄えることではなく、弱くされた人々が大事にされること、また重い存在として受け入れられることこそが栄光であると告げられています。
今日の詩篇では、王が王として自らが公正と慈しみを持って民を治めることができますようにとの祈りが7節までの前半に収められ、そして8節から、その貧しいものに対する慈しみをどこまでも求める栄光の王の支配こそが、海を越え、山を越え、砂漠を越えて世界の至る所にまでその支配が届きますように、との祈られています。それは自分の国だけではなく、他国にまで、地の果てに至るまで、暴虐と不正に満ちたその場から解放するために(1214節)、王の支配があまねく及びますように、そしてその栄光が全地を満たしますように、との祈りで詩篇72篇は閉じられます。
今日の詩篇のテーマは神の義です。神の義が王によって顕されますようにとの祈りの詩篇の結び、18,19節で繰り返される言葉は「讃えよ」と「アーメン」です。これは「祝福されよ」という意味が続け様に伝えられ、それは「まことです、まことです」と続けられて終わります。これは人々によって立てられ、神の義と公平を持って弱者を救っていく王は、まさに神によって立てられた代務者であることをあらわしています。12-14節にある貧しい人、弱くされた人、乏しい人を救い、助けるために王は存在し、また15節で捧げられた黄金とは、その貧しい人々を救い出すために用いられるギフトであることを指し示しています。利権を持ち、私腹を肥やす人々は正しい政治的リーダーとは言えません。
それではこの歌は政治的な詩なのか、政治的リーダーにこのようにあって欲しいと言う歌なのかと言うと、それだけではもちろんありません。これは、真のメシア、油注がれた者である救い主イエスの預言の詩篇歌です。
イエス様はマリアとヨセフとの間に、聖霊によって身篭られました。またダビデの子孫としてヨセフとの婚姻関係のうちに、出生された救い主イエスは、ダビデ王の子孫であります。
そして、貧しい場所で、家畜小屋にてお生まれになったイエスは、貧しい人々と共に生きる平和の王です。その噂は、遠い遠い異国の地にまで大きな星の知らせを通して告げられ、東方の3人の博士達が黄金、乳香、没薬を携えて平和の王なる幼な子に贈り物をし、この子の前に平伏し、礼拝を捧げるのです(マタイ1,2章)。実にこの詩篇72篇の祈りの歌は、救い主イエスを指し示しています。そしてイエス様の誕生は次のキリスト賛歌へと繋がっていきます。
「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。 
キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 
それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
ピリピ人への手紙 2:5-11 口語訳
これはキリスト讃歌とう初代教会で歌われてきたとされる讃美歌の歌詞です。
救い主は神と等しい存在であることを固守しようとは思わず、返って僕の姿を取って貧しくなられました。そのようにして貧しさの中に生き、弱くされた人々と共に連帯して生きることで、十字架の死に至るまで従順であられたが故に、神はイエスを復活させました。そしてその名は全ての人によって賛美されるものとして、このキリスト讃歌は歌われてきました。しかし、この歌の持つ意味がより重要に私たちに響いてくるのは、この歌を紹介したパウロが直前にこう言っています。
「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい
つまり、救い主イエスさまを讃えるだけではなく、イエスさまが抱いていた同じ思いを、自分たちの中で体現することが必要だよ、とそのように告げられているのです。
これは詩篇72篇においても同じことが言えます。72篇に散りばめられている神の義に感する単語は、様々な言葉に訳されています。「主の恵みのみ業」や貧しい人々の声を取り上げて助け出す「裁き」(口語訳では公正)や、あるいは「平和」、「恵み」、「救い」という数々の言葉がありますが、それらは7節の生涯、「神に従うもの」によって表されるのだとしています。7節の「神に従うもの」を口語訳では「(神の)義」として訳しています。「彼の世に義は栄え、 平和は月のなくなるまで豊かであるように。詩篇 72:7 口語訳
つまり、神の義とは神に従うものによって顕にされる、ということです。それらはこれを治める王によって実現するのですが、詩篇の勧めはこれに留まらず、まさにこれを賛美する一人ひとりが、「神に従う者」としてこれらを現して生きなさいと勇気づけられ、励まされているのです。
救い主なるイエス様がそのように神に従うものとして歩まれたように、私たちもまた神が望まれる良い実を結ぶように、神に従って歩む共同体の中で互いに支え合い、励まし合って歩んでいきたいと思います。「神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる」という救い主イエスの言葉を共に覚えたいと思います。

 

<説 教> 

       「我も主のもの」 森 崇牧師

              詩編 24 1-10節(新共同訳 旧約 p.855

 

おはようございます。今日は詩篇24篇を共に味わいたいと思います。

この詩篇は歴史的にはダビデ王が主の契約の箱を都に運び入れた時に歌われたものとされてきました。主の契約の箱とは十戒の2枚の石板を運び出すために備えられた日本でいう神輿みたいなものです。神輿がはこばれるときには多くの人々の気持ちの高揚やお祭り感がでるように、この時歌われた歌の気持ちとしては、「主が私たちのところに来てくださったから、私たちはどのような戦いにも負けない。主は私たちを全ての苦難から救い出してくださるからだ」(7-10)と言った意味があったのだと思います。これは主が来てくださる、共にいてくださる、だから大丈夫だと言うインマヌエルなる神への感謝と信頼の歌です。

後に、イスラエルの人々はこの歌を礼拝で主を迎える歌として歌ってきました。

詩篇24篇は三部から構成されています。1-2節は天地を創造された神への賛美から始まり、3-6節においては礼拝する場所であったエルサレム神殿入場の際に巡礼者と祭司の問答があり、7-10節においては、巡礼者と共に神殿に入っていく時に歌われた、栄光の神への賛美となっています。これを一言で言うならば、「天地創造ー信仰者の礼拝ー主の来臨」という聖書全巻にわたる壮大なテーマが収められていることになります。本当に嬉しい詩篇です。

つい先日、いのちの電話の会報が教会に届けられました。その会報を見ると、女性や子ども、特に若い世代と思われる方々の相談が増えていると言われています。子どもが学校でいじめに遭い、また自らいのちを絶ってしまうと言うニュースが多く聴かれるようになっています。NHKのニュースによると昨年度自殺をした児童や生徒は初めて400人を超え、小中学生の不登校は全国で19万人以上となっています。生徒の自殺は10年で2.7倍となっています。また自殺をした児童生徒の置かれていた状況の調査も併せて行われているのですが、「家庭の不和、精神障害、進路、友人関係」などの数々の状況の中で群を抜いて多かったのが「不明」というものでした。この生徒が置かれていた状況が「不明」が突出して多いのは非常に驚きました。この時代をよく表す言葉だとそのように思います。特にこの世の中を覆っている閉塞感と絶望感はなにかと考えますが、それはやはり「未来に希望を持てない/今の状況が人生の全て」といった考えではないかと思います。

本日の詩篇から語られる人間が生きるための希望は何かというと、三つあると思います。

ひとつは、「どのような絶望的な状況にあっても、主は共におられる」。ふたつめは「主を求めるものに主は必ず応えられる」みっつめは「主は必ずすべ治る方として来られる」ということです。

今日の詩篇の初めには原典のヘブライ語聖書では「主の」という単語から始まっています。これを新共同訳聖書では「主のもの」と訳していますが、意味としては「主に向かって/主のために」という意味を含んでいます。

「地とそこに満ちるもの世界とそこに満ちるものは、主のもの」とは地に生きているすべてのものが主に向かって生きており、主のために存在すると言われています。私達がこの言葉を聞くときには、私達もまた、主のものであるという思いを新たにさせられます。

 

 

 

 

 

      主日礼拝2021年10月10日()

「希望への鍵はどこに?」 才藤千津子協力牧師

  ローマの信徒への手紙 8章38~39節

 

本日平尾教会では、召天者記念礼拝を執り行っています。招きの言葉として、山上の説中にある言葉、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」(マタイ5:4)を選ばせていただきました。悲しみに泣いている人々を、神は無条件で自分のそばに招き寄せ、しっかりと寄り添われる、悲しんでいる人たちには喜びが与えられるという、イエスの確信に満ちた宣言です。

 毎年この時期に、私たちの教会では、今朝のように召天者記念礼拝を行います。3年前のこの礼拝の主日、私は、礼拝堂の前面にいっぱいに並べられた信仰の先輩たちの写真を見ました。今年も、ホールに召天者の写真が並べられています。当時、私はこの教会に数十年ぶりに戻ってきたばかりでしたので、写真の中の多くの方のお顔をその時初めて目にしました。もちろん、中には懐かしいお顔もありました。また、礼拝の前に写真を眺めている私の側に来て、ご自分のご家族の写真を指しながら、故人について語ってくださった方もありました。写真の一つひとつを拝見しながら、お一人おひとりが辿られた信仰の人生に思いを馳せたのは私だけでしょうか。

そこには、地上ではもう会えない方々と生きてこの教会に集う者たちとの間の、見えないけれども確かな絆がありました。そして私はその時、天に召された方達と地上の私たちは、死という大きな出来事を超え、イエス・キリストを中心として今もひとつの共同体を生きているという確信を持ったのです。

さて、今朝は、使徒パウロがローマの教会に宛てて書いた「ローマの信徒への手紙」から、8章の最後の部

分を本日の聖句とさせていただきました。この部分でパウロは、「キリストに結ばれた生」、すなわち、キリストの体の一部として、神の力、聖霊の力によって生きる生について語っています。この手紙を書いた時パウロは、ローマ帝国東半分での伝道を終え、エルサレムの母教会のために集めた献金を携えてエルサレムに戻る前でした(ロマ1525-29)。彼はエルサレム訪問の後、イスパニア(スペイン)への伝道に向かう予定でしたが、その途中、今まで何度も訪問を計画しながら果たせなかったローマに立ち寄る計画を立てたのです。パウロはこの手紙によって、まだ一度も会ったことのないローマのキリスト者たちに、イエス・キリストの福音の本質を伝えようとしました。そして、6章から語ってきた「自由の告知としての福音」についての結論の部分が本日の聖書箇所に当たります。すなわち、パウロは、「このすべてのことから私たちは、どんな結論を引き出せるだろうか」、「誰が、私たちに敵対できますか」(831)「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことが出来ましょう」(835)と問いかけ、それに答えるのです。

  昨年以来、私たちは、コロナ危機という大変な出来事の中を生きてきました。多くの方が亡くなり、感染拡大を防ぐために隔離され、人々が集まることは禁止されました。「自宅療養」という名のもとに、医療を受けられないまま亡くなった方もいます。教会も、人が集まることを自粛しなければなりませんでした。人に会えない、友人が亡くなっても葬義にも出席できない、学校にも行けない、店は営業できない、仕事も失った・・・そのような中で、私たちは、自分たちが気づいている以上に多くの喪失を経験してきており、感染が少し落ち着いている今も、なお、目に見えないけれども多くの悲しみの積み重ねがあります。多くの人々は、こう問うでしょう。「一体、このような出来事にどんな意味を見出せるというのか?」「どうしてこのような悲しみや困難がやってくるのか?」

  残念ながら、聖書は、私たちが苦しまないという約束はしていません。聖書の物語には、理不尽な苦しみや悲しみに出会う人々の話がたくさん出てきます。迫害を受け続けたパウロもその一人です。しかし、パウロは言います。「私は確信しています。」「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。」(8:38-39) パウロは、私たちは何も恐れる必要がない、なぜなら、どんな時でも神がわたしの味方であることを確信するからと宣言します。イエス・キリストにある神の愛は、死のうと生きようと私たちをしっかりととらえて離しません。困難なことの続く今日、また天に召された兄弟姉妹を思い起こす今日、このことを知ることは私たちの「希望への鍵」ではないでしょうか。

 

 

      主日礼拝2021年10月3日()

「被造物と御言と祈り」 森 崇牧師

  詩編 19章2~15節

 

私が説教を担当させていただくときは日本バプテスト連盟が発行している聖書教育に従って聖書箇所を選んでおります。

10月からは詩篇(19篇、23篇、24篇、72篇、92篇、119篇、131篇、147篇)をしばらく扱うことになっています。

新型コロナウイルスの影響下の中にあってリモート礼拝を行うようになってからは、概ね毎週詩篇を1篇づつ選んでみなさんと共に声に出してよんできました。

詩篇とはヘブライ語で「賛美歌集」を意味します。賛美歌が音楽に合わせて歌われるように、詩篇もまた言葉に出して音読することでより味わい深い内容が私達に迫ってくる書物です。

 今日の詩篇は19篇です。詩篇を始めるにあたって、いきなり19篇か、と思われる方もおられると思います。

詩篇19篇はその内容の豊かさからどのように読まれるべきか議論がある詩です。

例えば詩篇19篇では三部で構成されているのではないかと言われます。2-7節までの「被造物」、8-11節の「御言」、12-16節の「祈り」です。

よくよく読んでみると繋がっているようで繋がっていない、分からないようで分かるような、そのような不思議な詩篇です。

しかし、私達が聖書を読むとき、そしてそれが詩篇ならなおさらなのですが、その詩篇の書かれた時代背景や作者の意図も大切ではありますが、むしろ大切なのは現代に生きる私達がこの歌に関してどのように感じ、受け取れるかのほうがより重要です。理解よりも信仰が大切にされ、詩篇の一言が私達の状況と照らし合わせて心に残る希望の光となればそれで十分です。

 

 2-7節(朗読)

太陽が東から昇り、西に沈んでいきます。そして太陽が夜、私達の目に見えない間も、神はそこに太陽のための幕屋(テント)を設け、太陽が休めるようにし、目的を達成するように、一定の方向性を継続し、達成するようにされています。果てから果てへとあるように、そこには目指すべき到達点があり、神の言葉の影響力が目的とするところまで達せられるようにとの願いが込められています。

 そして今日の詩篇を音読することで明らかになることは、その始まりを「天」から始めているということです。聖書の始まりの言葉は「初めに神はその天とその地とを創造された」(私訳)です。新共同訳では「初めに神は天地を創造された」(創世記11)とありますが、ヘブライ語聖書ではもっと味わい深い言葉です。原典を忠実に翻訳すると「初めに/創造した/神は/その諸々の天を/そしてその地を」となります。日本語では「天地」と訳されるところが、創世記の初めの言葉においては「その天とその地とを」という冠詞が付き、なおかつ「~を」という目的語を天と地とにそれぞれつけています。それは神が一気に天地を造ったという意味ではなく、その天とその地とをというほどに、注意深く、同じほどに目を注いで創造されました。それほどまでに天と地はわたしたちにとってありがたい被造物なのです。 

天という単語が出てくると、これを読む読者は当然「地」のことも語られるだろう、と想像します。天においては様々な美しい風景が繰り広げられるように、神の栄光は抽象的ではなく、私達が実際に感じ取られる形で示されるものとされています。「昼は昼に言を語り、夜は夜に知識を送る」とは、そのように神の栄光が神の被造物に現れるように、その生き方をそれ自体で示すということを示しています。日は日で主を証しし、夜は夜で神を賛美する。同じように人も人で神の栄光を表し、またその生き方を通してその存在を輝かせます。そして主を知る知識というのは人知れず伝えられていくのです。それは人間の耳には「話す声や語る声」が聞こえなくても、その天の栄光は「全地」に向かっていくとされます。2節で始まった「天」は5節の「地」においてその目的を果たすのです。これは主の祈りにおける一言もそうです。「御心がなりますように、天におけるように、地の上にも」という祈りがあるように、天の栄光は地に平和という形で完全に表されます。その完全性については救い主イエスが「あなた方の天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と言われています。神の創造の恵みはすべての被造物に等しく注がれます。

 

 

      主日礼拝20219月26日()

「ただ神の真実の愛に目を注ぐ」

             青野太潮協力牧師

コリント信徒への手紙一 11章23~26節

 

 

  平尾教会では、昨年度から、礼拝委員会を中心にして、礼拝におけるさまざまな問題について考える、「考the礼拝」という連続講座を開催して、牧師や協力牧師、そして礼拝委員が、さまざまな発表をしてまいりました。今日も、午後4時半から、ズーム会議で、才藤千津子先生が、「礼拝の構成要素」と「祈り」と題して語ってくださいます。そして、つい最近、8月の末には、私が「主の晩餐について考える」というテーマで発表をいたしました。これから語りますことには、そのときに語った内容と重なる部分が多くありますので、その点はご了承いただきたいのですが、私は以下のようなことをお話いたしました。詳しくはその時の原稿が教会員の皆さんには週報ボックスに配られておりますので、それを参照していただけたら、さいわいです。

まず、ここでは時間の関係上、詳しくは触れることができませんが、大前提として、次のことを押さえておきたいと思います。すなわち、新約聖書のなかには、二つの主の晩餐についての伝承が引用されていて、ひとつはパウロ/ルカ型の伝承であり、もうひとつはマルコ/マタイ型の伝承だということです。それらの伝承がいつ成立したのかは明らかではありませんが、書かれた時代としては、パウロのものが50年代、マルコのものが70年代、そして、マタイとルカのものはそれぞれ90年代だっただろう、と推定されています。主の晩餐の形態としては、パウロの「パン⇒夕食⇒杯」という順序と、マルコの、間に食事のない「パン⇒杯」という順序の二つが証言されていますが、すぐに以下でふれますように、パウロが証言している「パン⇒夕食⇒杯」という順序が元来のものであったように、思われます。

パウロとルカにおける「主の晩餐」伝承のなかで、「パン」と「杯」が、それぞれ「体」と「契約」とされることによって、カテゴリーの違う二つの概念が並列されるという意味で、アンバランスな対応を示していることは、それが元来の形に近いものであったからではないか、とふつうは推定されます。なぜならば、もしも「パン」と「杯」が、マルコにおけるように、「体」と「血」というふうに対応していたなら、それは同じカテゴリーにおける二つの概念として、バランスのとれた対応だと言えますが、そういうバランスのとれた言い方がアンバランスな言い方へと変えられていくということは、伝承の継承上、あまり考えられず、むしろ逆に、アンバランスなものがバランスのとれたものに変えられていくことのほうが、伝承の継承においては起こる確率がはるかに高いと思われますので、もともとはアンバランスな対応が元来の言い方としてあったのであろう、と通常は考えられるからです。つまり、パウロ/ルカ型の「体」と「契約」という対応が、元来のイエスの言葉であったのだろうと思われる、ということです。

それと同様に、パウロとルカにおける「食事の後で」という語句が指し示している「パン⇒夕食⇒杯」という順序で執り行なわれた「主の晩餐」の形態もまた、元来のイエスのものであったのではないかと思われる、ということに、今日は注目したいと思います。なぜならば、そこでは決して皆が「<パン>を食べた後で」というようなことが言われているのではなくて、むしろ、「正餐(夕食)をとった後で」ということが、動詞のdeipneōによって意味されているからです。

 

 

 

 

 

主日礼拝2021912()

     「75歳からの出発」  肘井 利美兄

創世記 1214

ヨシュア記 14713

 

 今月の9月20日(月)は「敬老の日」です。敬老の日というのは、私たちと共におられる、お年寄りの方を敬い、その長寿をお祝いする日であります。教会に集う私たちは、教会の先輩方のこれまでの神様への働きと、ご苦労に対し心から感謝すると同時に、これからの新たな歩みにおいて、神様の豊かな祝福と恵みが溢れるように共にお祈りしたいと思います。

敬愛する教会の先輩方は、これまでの人生において、どのような時代においても、神様から与えられた使命を忠実に果たしてこられました。

私たちクリスチャンにとって、神様の使命を果たすうえにおいて年齢など問題ではありません。なぜならその人を通して、神様ご自身が働かれるからです。

本日の創世記に登場する信仰の父と呼ばれるアブラハムは、75歳になってから、神様の召命を受け、生まれ故郷のハランを旅立ちました。神様がアブラハムに与えられた使命は、彼を通してすべての国民が祝福を受け、その祝福の源となるためでありました。

そして、その約束は主イエス・キリストを通して成されたのです。

それと、ヨシュア記に登場するもう一人の勇者カレブは、85歳になってからも神様からの使命を要請します。彼はモーセが生きていた40歳の頃から、神様の命令を忠実に従い続けてきましたが、さらに高齢になってからも厳しい使命を要請し、それを貫き通すのです。神様は彼の忠実さを祝福し、新しいヘブロンという土地を与えられるのです。

 

 

 

 

                                                      主日礼拝202195()

 「尋ね求める主、いのちの回復を目指して」  森 崇牧師

エゼキエル書 341116

 

神の民イスラエルはバビロン捕囚によって散り散りになっていました。そこで神様は、この散らされた民を思い、ご自分が羊を飼う牧者になられることを決意されます。「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が自分の羊がちりぢりになっている時に、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」(34:11

「雲と密雲の日」(12節)とは主が来られる「主の日」であり、「諸国民の裁きの時」(30:3)として言及されていますが、世の終末におけるイメージとして語られる日です。預言者ヨエルもこのように言います。「それは闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。巨大で数多い民が山々に広がる曙の光のように襲ってくる」(ヨエル2:2)。すなわち「雲と密雲の日」とは、それが戦争かもしれないし、あるいは人々を襲う疫病でもあるかもしれないという含みをもたせたまま、語られています。「先が見えないという状況そのもの」です。そしてそれは、人それぞれ、散らされる理由は様々なのです。そのような「雲と密雲の日」の中で、視界の開けないガスと雲の中にあっても、主なる神様はすべての場所において救い出されるために行動を起こされる方です。「わたしがわたしの群れを養い、憩わせると主なる神は言われる。わたしは失われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」

神ご自身が人々の真の牧者となられるとはどのようなことを意味していたのでしょうか。エゼキエル書では大きく2つのことを語っています。ひとつは23節から語られる「わが僕ダビデを起こす」ということです。「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし彼らを牧させる。それはわが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」

「わが僕ダビデ」とは、かつて羊飼いでしたが、主がイスラエル二代目の王として油注がれたダビデ王のことを指しています。今日そのダビデ王はずっと過去の人物ですから、「わが僕ダビデを一人の牧者として起こす」と言われるときには、ダビデのような人物を起こすという意味です。それはすなわち、この預言があってから400年の時を経て与えられた救い主イエスのことでした。イエス様はご自分のことをこのように証言しておられます。「わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」「わたしにはこの囲いに入っていない他の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:10-11,16)イエスこそ、神が雲と密雲の日に私達に備えられた羊のために命をかけてくださる真の羊飼いなるお方です。この方は荒野のされこうべー髑髏ーと呼ばれるところに十字架におかかりになるまで傷ついた魂を追い求められるまことの牧者でありました。イエス様の十字架とはつまるところ、イエスの牧者としてのいのちの極みでもありました。

エゼキエル書に語られる真の牧者であるもうひとつのイメージは、「羊と羊、雄羊と雄山羊の間を裁く」真の裁き主です(34:17-22)。当時この世界には自分だけがきれいな水を飲めれば後のことなどはどうでも良い、あるいは弱いものを周辺に押しのけ、突き飛ばし、外へ追いやるような社会構造があり、権力者がその幅を利かせていました。しかし真の牧者として来られる方は、その弱くされた命を守るために、強いものを裁いていのちの尊厳をすべての人が受けられるようにするために来られました。救い主イエスは、この世の終わり、終末のときのミッション(使命)として次のことを語られました。

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』・・・そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』(マタイ2531-40

イエス様が真の牧者として来られる時に、わたしたちは神の羊とされるだけではなくて、神の羊と呼ばれる人たちの慈しみと愛を実践することが何より求められています。すなわち、主なる神が弱ったものを尋ね求め、追いやられたものを探し求め、痛むところを包もうとするとき、わたしたちも同じように神に見いだされたものとして追いやられたものを見出す、その生き方が聖書から求められているのではないでしょうか。わが僕ダビデは羊飼いであり、また王でもありました。私達の救い主イエス様もまた、良き羊飼いであり、わたしたちがどのように生きているかをつぶさに見てくださっている王の王なのです。

 

 

主日礼拝2021829()

「立ち返って、生きよ」  森 崇牧師

エゼキエル書 31011

 

『「わたしは生きている」と主なる神は言われる』という言葉は多くの預言者を通して語られた重要なメッセージです。今日のエゼキエル書の中の短い聖句から、繰り返し語られている単語を3つ取り上げたいと思います。ひとつは「生きる」という単語です。

「生きる」という言葉は2つの意味で取り上げられます。すなわち、主なる神ご自身が生きておられる、ということと、人間が立ち帰って生きることを主なる神が喜ばれるという意味です。

実はこの「生きる」という動詞は「いのち」という名詞につながる言葉ですが、ヘブライ語聖書では「いのち」という言葉は決して単数形では語られません。ヘブライ語で「いのち」と書かれるときには必ず複数系で書かれています。それは、一人で存在できるいのちなどは存在しないということです。

主なる神がご自身の口から民に語られるとき、「わたしは生きている(live)」と語り始められることが多いのですが、実はそう言われるときの意味合いとしては、主なる神があなたがた(わたしたち)の内に住んでいる(live)ということです。ですから、「どうして生きることができようか」と嘆いている、その只中で、主なる神様もまた共に住んで、いてくださっているという宣言が預言者によって語られます。ヨハネによる福音書の中に、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(114)とありますが、神が私達のうちに住んでおられる、具体的な顕れは御子イエス・キリストの出現です。そうして、私達のただ中に住まわれている神から、「生きよ」と呼びかけられています。

ふたつめとみっつめの単語は「立ち帰る」「その道」という単語です。「むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」。「立ち帰れ」と今日の短い聖句の中で三回繰り返されていますが、この「立ち帰る」とは「向きを変える」「戻る」「帰る」という意味があります。すなわちここから、主なる神様に悔い改めて生きることを表しています。実にエゼキエル書で語られている「生きよ」とは、いのちを得て生きること、また神様が与えた隣人とともに生きよということと、悔い改めるものに与えられる罪の赦しを得て生きよ、と告げられます。

エゼキエルの時代からおよそ500年後、この地にお生まれになった救い主イエス様は悔い改めて生きる大切さを放蕩息子の例えとして語られました。ある時に、二人の息子の弟があるとき父の財産を半分持って家出をしました。財産をすべて金に変え、放蕩の限りを尽くして遊び回り、何もかも使い果たしてしまった時に、ひどい飢饉が起こり、彼は食うや食わずやの生活になりました。当時忌むべき者とされた豚のエサを食べてでも食いつなごうとした彼が、ある時自分のお父ちゃんの家を思い出し、その家の僕になって、全てを反省して謝って、帰ろうとしました。しかし、弟が帰る姿を遠くから見つめていた父は彼のところに走り寄って首を抱き、受け入れました。そしてこう従者たちに言うのです。「急いで一番良い服を持ってきてこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい・・・食べて祝おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」

 

 

 

主日礼拝2021815()

「ゆるされた者の責任」  才藤千津子協力牧師

エゼキエル書138-12

 

本日815日は終戦記念日です。

私は1990年代の半ばから10年近くを、アメリカのカリフォルニア州サンフランシスコ近郊の街で過ごしました。カリフォルニアでの生活で、私は、自分が日本人でありアジアの一員であるということは、アジア各地で語り継がれる太平洋戦争の記憶、そして日本人としての私の平和への責任と切り離せないということを思い知らされました。アジア系の友人たちがたくさんいましたので、日本が戦争を推し進めていく中で日本が彼らの国に行ったことや日本人としての責任について考えることは心が痛みました。しかし、彼らとの付き合いから、私は、厳しい現実から目をそらさないで真実を見つめることは、私たちキリスト者にとって重要な使命であるということを学びました。

さて、本日取り上げる預言者エゼキエルも、混乱の中で真実の言葉を語るという使命を与えられた預言者です。エルサレムの祭司であったエゼキエルは、前597年に行われた第1回バビロン捕囚の中にいました。彼がイスラエルの預言者たちに向かって神の言葉を語るようにとの召命を受けたのは、捕囚の第5年(前592)のことだとされています。

エゼキエルは、当時、荒廃していたエルサレム神殿で偶像崇拝を行うなど、主なる神の教えから逸脱していた「反逆の民」イスラエル(23)に神の言葉を語るという使命を与えられます。そして、彼はイスラエルの預言者や民を厳しく批判しながら、神から与えられた審判の言葉を、彼らの前に突きつけるのです。

この時代、エルサレムの陥落という想像もしなかった事態に直面して、イスラエルの人々は疲れ果て、忍耐も限界に近づきつつありました。平和への希望も主なる神への信仰も失われつつあったのです。そのような人々に対して、「愚かな偽預言者たち」は、神の厳しい言葉ではなく、人々の耳に心地よいがむなしい言葉を語りました。本日取り上げた聖書箇所では、エゼキエルは彼らに対して、「虚しい幻を見、偽りの占いをする預言者たち」は「災いだ」と語ります。エゼキエルは、イスラエルの民の「見張り」として、神から言葉を聞き、神に代わって人々に警告する使命を与えられていることを強く自覚していました(3368他)。彼はこう言います。

 「彼らはむなしい幻を見、欺きの占いを行い、主から遣わされてもいないのに、『主は言われる』と言って、その言葉が成就するのを待っている。」(136)「平和がないのに、彼らが『平和だ』と言ってわたしの民を惑わすのは、壁を築くときに漆喰(しっくい)を上塗りするようなものだ。」(1310

真実の神の言葉は厳しく響きますが、私たちを固く立たせ、私たちを本来の生き方へと立ち帰らせます。

 さて、2014年に製作されたNHKドキュメンタリーに、「BS1 憎しみとゆるし〜マニラ市街戦、その後」という番組があります。フィリピンでは、先の戦争において、フィリピン人、米国人、日本人の多くの命が失われました。中でも大規模なマニラの市街戦では、住民は食糧と水がまったく欠乏する状態で日米の砲火の間を逃げまどい、膨大な数に及ぶフィリピン市民が犠牲になりました。のちに1948年から1953年までフィリピンの第6代大統領を務めたエルピディオ・キリノもマニラ市街戦で妻と3人の子を日本軍に殺されました。そのため日本人を激しく憎むキリノでしたが、8年後、フィリピン国民の大反対を押し切って、フィリピンのモンテンルパ刑務所に収容されていた日本人BC級戦犯全員に恩赦を与える決断をしました。日本で戦犯である父や息子を待っていた家族たちは、涙を流して彼のゆるしの決断に感謝しました。カトリック信者であった彼は、憎しみを超えてゆるしに生きることこそが日本とフィリピンの未来のために必要であり、また自分自身もゆるさなければ心に平安を得られないと考えたのです。

 私たちは主なる神に「愛され、ゆるされて」生きる者です。そして、ゆるされた者として、一人一人が自分の行いを悔い改め、神に立ち帰り、新しく決意をして将来の平和を作り出してゆく責任が問われています。主なる神は、神なき者が自分の行いから立ち帰り、新しく平和を作り出して生きることを待ち望んでおられるのです。

 

 

主日礼拝202188()

「主と共にありて 人生告白」  高木伸彦兄

フィリピ信徒への手紙 44-7

 

1939年 3月2日  福岡市中央区桜坂にて誕生

1945年 6月19日 福岡大空襲

8月15日 終戦宣言

1931年の満州事変から日中戦争、さらに太平洋戦争へと拡大した15年戦争の終結でもあった。

戦後父 長生が復員

1946年 芝田町へ移住。食糧難と戦後処理の時代。

1950年 富野教会から芝田町への伝道が始まり自宅を家庭集会所として開放する。

1955年 芝田伝道所献堂

1955年 12月15日チャールズ ホエリー宣教師より母素子と共にバプテスマ受洗

1963年 銀行へ就職。

時代は1957年から高度経済時代の最中で1989年のバブル経済の崩壊の時であった。

1968年 母素子召天

1988年 銀行を退職し、建設会社へ転職。

一時期不動産会社へ移ることがあったが、再度建設会社へ戻り、不動産事業部を設置。

1989年9月 父長生が召天。

1989年10月8日 平尾教会へ転入会

2010年8月2日 建設会社退職

2014年6月20日 妻 道子召天

 

その後は那珂川市仲区の評議員、那珂川市教育委員会の評議員、環境美化の評議員、菜園クラブ、那珂川山岳会、など 地域のボランティア活動

 

 

 

主日礼拝202181()

「人の子よ、立ち上がれ」  森 崇牧師

エゼキエル書 2110

 

おはようございます。皆さんは「キリスト者になろう、キリスト者として生きよう」と決断されたのはどのような時だったでしょうか。私のバプテスマや献身に対する神の招きの第一歩を考えるときには、主なる神との出会い、がまず先に来ています。自分が絶望と失望のうちにいた時に、主なる神様は人を遣わして、ご自分がそこにいることを知らしめ、私の苦悩と絶望の只中にいてくださった、その神との出会いが、キリスト者になり、キリスト者として生きようとする最初のきっかけと出来事であったと思わされています。

聖書の個所は旧約聖書のエゼキエル書より、エゼキエルの預言者としての召命の話です。召命とは主なる神様の呼びかけのことです。キリスト教を信じてバプテスマを受ける導きや、あるいは献身を志して牧師や教役者になることや、もっと身近なところでいうと、自分の働き/職業に至るまでも神様からの呼びかけとしての召命と言えます。

エゼキエルは当時30歳ほどで、主の神殿で仕える祭司としての働きを担っておりました。神と人との仲介としてその儀式をあずかっていたエゼキエルは、バビロンという国が攻めてきて滅ぼされたのち、奴隷として異国の地に連れてこられていました。エゼキエルは第一次捕囚の時に連れてこられた人でした。エゼキエルは自分の職を失い、祖国や民族の滅びつつある状況の中で、ケバル川のほとりで主の栄光の顕現に与ります(1:1)。表現することの難しい霊的な4つの生き物の下にはそれぞれ車輪があり、またその上に神の王座(1:26)がありました。エゼキエルは自分の人生の失望と絶望の只中に主の臨在があり、また祖国エルサレムの神殿ではなく、異国の地の川のほとり、すなわち野外で自分に主の栄光が示されたことを知るに至ります。畏れつつ、慄きつつ、エゼキエルは主の臨在にひれ伏します。これがエゼキエルの主の預言者としての第一の召しでした。主の前にひれ伏す、そこから彼は主の声を聞くことになります。「人の子よ、自分の足で立て。私はあなたに命じる」

「人の子」とは人間以外の何物でもない存在に対して使われる言葉です。エゼキエルは「神が強くする」という意味の名ですが、神はあえて「エゼキエルよ」ではなく、「人の子よ」と呼びかけられます。それは無力な人間があえてご自分の使命に向かって召し出されるということを意味しています。今日のエゼキエルの召命に関して大切な三つのポイントがあります。一つは人生の挫折に顕される主の臨在です。挫折の「挫」には「へし折る・弱くなる・くじける」などの意味があります。この漢字の意味を調べていくと、五本の指からなる手の象形、向き合う人の象形、土地の神を祭るための棒状に固めた土の象形からなっています。挫とはそれゆえに人が土に手をついて立ち上がれないほどの形のない祈りなのでしょう。しかし、そこに神はご自身を顕されます。

二つ目のポイントは主なる神はご自分の霊を人のうちに与え、立たせてくださる力をお与え下さるということです。「あなたの足で立て」とお命じになる主は、霊をその人の内に注がれます。そうして預言者たる召命の言葉が告げられます。エゼキエルが語っていかなければならないのはイスラエルの人びと、神に反逆している民(2:3)、恥知らずで、強情な人々(2:4)です。聖書では「恥知らず」とは直訳で「顔が固い」とされ、自分の罪にも平然としている状態のことをさします。「強情な」とは頑なに自分の罪を認めようとしない状態をさしていました。エゼキエルは捕囚を免れた人々のところに向かい、何とかしてその心を悔い改めと回心に向かうように送り出されるのですが、その働きはあざみといばらに押し付けられ、サソリの上に座らされるようなものだが、「彼らを恐れてはならない」と神は告げられます(2:6)。実に強情な民/反逆の民と言われるのは、イスラエル民族が内外で霊的な腐敗に満ちていたからでした。バビロンに滅ぼされそうになっていながらも神ではなくエジプトが自分たちの苦境を救ってくれるとし、神の臨在の場所であったエルサレム神殿にはタンムズ神や異教の神々の偶像を祭っていました。激しい怒りと憤りを持って主なる神は人の子エゼキエルを召して、その災いが何のためにあるのかを知らしめます。エゼキエル書では特徴的な言葉として、「生きよ」とたびたび繰り返されます。 

三つ目のポイントは「巻物を食べさせられる」経験です。この巻物とは栄光の主の手にあった巻物で、それは人の子エゼキエルに向かって差し出された書物でした。それは哀歌と呻きと、嘆きの書でした。エゼキエルはこの巻物を食べてイスラエルのところに向かわせられますが、これは蜜のように甘かったとされています(31-3)。哀歌が旧約聖書の哀歌であるならば、イスラエル滅亡の人間の苦しみの叫び痛みとしての書物でしょう。しかしこれらの人間の呻きをご自分の巻物としてその手に収めておられる主なる神は、何よりも神ご自身が哀歌を歌い、呻きと嘆きを持っておられることを思わせられます。これらを腹に収めて活動していったエゼキエルの生涯から、共に学んでみたいと思います。

 

主日礼拝2021725()

「神の霊感を受けて」  青野 太潮協力牧師

テモテへの手紙二 316

 

第二テモテ316節には、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ(直訳しますと、聖書はすべてtheo-pneustosである、すなわち神の霊を吹き込まれたもの、なのであり)、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえで有益です」という有名なことばがあります。たしかに第二テモテはパウロが書いたと記されてはいますが、しかし、第一テモテ、第二テモテ、テトスの、ふつう「牧会書簡」と呼ばれる三つの書簡は、実際にはパウロの弟子が、それも弟子の弟子、つまり孫弟子にあたる弟子が書いたいわゆる「第三パウロ書簡」と見なされるべきだ、というのが、今日の歴史的・批判的な新約聖書学のコンセンサス(合意)だと言ってよいだろうと思われます。もっとも、いわゆる「福音派」の人たちは、もちろんそれがコンセンサスであるなどとは決して認めませんし、このみ言葉は、聖書は「神の霊を吹き込まれたもの、神の霊感を受けて書かれたもの」であるがゆえに、絶対的に無謬であって、一点一画の誤りをも含んではいない、という「逐語霊感説」を教えているのだ、と強く主張します。

私は高校時代にAFSアメリカ留学中にキリスト教徒になったのですが、そこの教会ではそのような主張が、これ以上ないほどに強く主張されておりましたので、福音派の人たちの、いい意味での一途さ、悪い意味での硬直した強情さは、かつての私自身の考え方として、よくよくわかっているつもりです。

しかし、ここで言及されている「聖書」とは、まだいわゆる「旧約聖書」をしか意味しなかった、すなわち、新約聖書はまだまだ成立していなかったのだから、ということに気づいている人は、そう多くはありません。福音派の指導者の人々は、そのことはよくよく知っておられても、そう公言することはほとんどしないように思われます。

時あたかも、キリスト教月刊誌『福音と世界』のなかの「新約釈義」が、この第二テモテの316節について、5~6月号において、詳しく書いてくれておりました。広島大学教授の辻学さんが、執筆してくださっています。実は、4年ほど前まで、この私が、『福音と世界』のその「新約釈義」として「第一コリント書」の釈義を担当していたのですが、胆石除去と胆のう切除の二つの手術が重なって体調を大きく崩してしまって、執筆の続行が不可能となってしまいましたときに、ピンチヒッターとしてこの「牧会書簡」の「釈義」執筆を引き受けてくださって、私の窮状を救ってくださったのが、辻先生でした。

そして辻先生も、そこで言われている「聖書」、厳密には「書物」(graphē)ですが、それは、前節15節でも言及されている「聖書」(hiera grammata)と同様に、「旧約諸文書と見る他ないであろう」と書いておられます(5月号、73頁)。さらに辻先生は、「神の霊を受けた書物」と訳すのが最も適切であって、「霊感を受けて」と訳したり、「霊感を受けて書かれた」と、実際にはまったく書かれてもいない「書かれた」という言葉をここに挿入して訳すのは、誤って「逐語霊感説につながる」理解を助長しかねないので、よくない、と指摘されています(6月号、78頁)。実際、「神の霊感を受けて書かれた」と理解すると、著者はまるで神の霊によって「トランス状態」(憑依状態)になって、神の意志をいわゆる「口移し」のような形でわれわれ人間に伝えているのだ、だから、一字一句それは誤りのない神のことばなのだ、というような誤解を招きやすいと思われます。この聖書箇所のどこにも、「聖書には何の誤りもない」、という類のことばはまったく記されていないことに注意することは、とても大事なことだと思います。むしろ人間が書いたものであるにもかかわらず、そこには何の誤りもない、と主張することこそが、イエスさまの福音の観点から見たら、決定的に謝っている、ということに常に想いを馳せたいと思います。

 

 

 

主日礼拝2021718()

「主から頂く知恵によって」   崇牧師

ヤコブの手紙31317

 

皆さんは最近エキサイティングな出来事がありましたか。私はメジャーリーグの大谷翔平選手の活躍の記事やニュースを追いかけています。大谷選手は野手としてはホームランを量産し、投手としては勝ち星を重ねていますが、彼が凄いのは、野球の活動ばかりでなく、フィールドにおいても非常に紳士的で柔和な物腰で話しているところです。最近になって大谷選手のことが頻繁に取り上げられていますが、これまでは今年度ほどの活躍はされていませんでした。それはこれまで、怪我に泣いたシーズンもありましたが、大きな理由としては球団側が大谷選手を守るための「大谷ルール」があったからです。登板がある日の前後は彼を休みにするなど様々な細かいルールがあったのですが、2021年度からはそのルールを撤廃して、本人の自由意思によって野球をすることを球団が認めた結果、今のような活躍となったのです。人を本当に生かす知恵とは、その人の意思を尊重し、人を自由に生かす方向で周りが認めてあげることだと思わされています。

ヤコブ書は、人を本当に生かす知恵とは、「上から出た知恵(17)」だと語ります。これは神から来る知恵の事です。人には二種類の知恵があり、一つは地に属するもの、悪魔から出たもの、自分さえよければよいというものです。姦淫や不倫、あるいは人を妬んだり羨んだり、自分の利益や目先の事を優先する生き方は、悪く、苦い知恵です。しかし、上から出た知恵は、真心から人を愛し、優しく接し、神の思いを第一に行動します。それは憐れみと良い実で満ちています。すなわちこれは何を意味しているかというと、救い主イエス・キリストを指し示しています。

旧約聖書の知恵文学である箴言は人々がどのように生き、命を得て生きるかの実践と指導を与える書物です。この箴言の知恵は人格を持ち、生きて人に語りかけます。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお先立って。」(8:22)「わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力をもつ」(8:14、他)神の創造の業の初めから神によって造られたこの知恵とは、人をまことに生かすために来られた神のことばであるイエス・キリストです。コロサイの信徒への手紙では「御子は見えない神の姿であり、全てのものが造られる前に生まれた方…万物は御子において造られ、万物は御子によって、御子のために造られました」とあります。すなわち、イエスに顕される知恵とは、すべての人の目標であり、またこの知恵に生きるように呼びかけられています。

救い主イエスが、この地上に「神の知恵」として与えられたとき、人は悪く、苦い存在でありながらも神によって愛され、尊ばれているという事を人々は知るに至りました。それは分け隔てをしていた差別する側の存在にも、偏見や抑圧の中にあって苦しい思いをされていた罪人とよばれる存在にも、です。救い主イエス様はかつて「平和を実現するものは幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われましたが、上よりの知恵を頂いた信仰者は義の実をもたらすものとして歩む、と告げられています。

最近NHKのドキュメンタリーで、福岡ベタニヤ村教会の水野英尚協力牧師がなされている「はたけのいえ」の特集がありました。重度心身障害児者がよりあって生きるシェアハウスの取り組みが始まっています。水野氏はその中で相模原事件の事を取り上げて、「生きるに値しない命など存在しない、とは誰しもが納得できることだ。しかし、この言葉を行うことはどれほど難しいことか」とそのような発言をされていたのが非常に印象的でした。それは「生きるに値しない命など存在しない」と口では言えても、コロナの状況の中で起きている分断や隔てを越えてまで共に生きようとしているかという、切羽詰まった問いでした。皆さんはどのように考えられるでしょうか。

かつてイエス様は人々から「この人に与えられた智慧とは何だろうか」と問わせる存在でした。人々が安息日の規定や、律法の中で窮屈に生きていた時に、イエス様は片手の萎えた男に向かって「まっすぐにせよ」と言われ、癒された出来事がありました。その時にはイエス様は人々にこのように問われました。「安息日に善をなすのと、悪をなすのと、生命を救うと殺すと、いずれがよいか」彼らは黙します。イエス様は憂いと憤りを持ってあたりを見渡して、この片手の萎えた人を癒します。信仰とは、そして神からの智慧とは言葉ではありません、イエス様がなさったように人を愛する実践へと生きることです。そしてイエス様に触れさえすれば癒していただけると信じ、人々の中に押し分けて入り、イエス様の衣の裾に触れた長血を患った女もまた、信仰によってイエス様に近づき、触れ、確かに癒され、生きたのです。「娘よ、汝の信仰、汝を救えり」とイエス様の言葉がひびいてきます。

 

 

 

 

主日礼拝2021711()

「神の作品として生きていく中で」  原田仰神学生

エフェソの信徒への手紙21節〜10

 

「神様の導きはカーナビのようだ」これはとある教会での子どもメッセージで言われた言葉でした。カーナビはどんな場所からでも、目的地までの道のりを示し続ける。それと同じように神様もまた、わたしたちの人生の道のりを示し続けておられる。たとえ案内されている道を間違えてしまった時にもすぐにそこからの道を再検索して、示してくれます。確かに神様と共なる歩みと似ていると感じます。本日読むエフェソ書でも、そのような神様と私たちのとの関わりについて書かれています。

 このエフェソの信徒への手紙は異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者との関係が意識されている手紙です。ここで言われている「あなたがた」は異邦人キリスト者を示していると考えられています。12節では「あなたがたは自分の過ちと罪のために死んでいた」と語られています。目先の欲望に駆られ、大切なものを見失っていたのです。すると3節からは突然、著者の視点が「あなたがた」から「わたしたち」と呼ばれる人たちへと移ります。3節によればこの「わたしたち」は他の人々と同じように「生まれながらに神の怒りを受けるべき者」であったのです。ここで言われている「わたしたち」は著者パウロを含むユダヤ人キリスト者のことであることを示します。ユダヤ人と異邦人、つまりすべての人たちが「生まれながらに神の怒りを受けるべき者」でありました。

  しかし聖書は、ユダヤ人・異邦人共に「生まれながらに神の怒りを受けるべき者」に終わらないことを語るのです。10節を見ると彼らは「善い業を行って歩む者」へと歩みが変わっているのです。今まで「過ちと罪を犯して歩んでいた」人たちがなぜ急に変わったのか、そのターニングポイントとなったのは神様が「この上なく愛した」こと(4節)です。この神様の愛は彼らに慈しみを与え、彼らを救い、キリストと共に生かす者にしたのです。聖書は彼らが変えられたのは、「彼ら自身の力によるのではない」「行ないによるのではない」と強調して語ります。あくまでそのきっかけは神様の自発的な一方的な愛によってなされたことであるのです。なぜ神様がそれほどまでの愛を注がれるのか。それは私たちが「神様の作品」であるからです。神様はその御手をもって私たちをお造りになられました。そしてそれだけではなく、私たちが歩むようにとされている善き業を、神様は私たちのために準備してくださっているというのです。たとえ誇れるような存在でなくとも、道に迷ってしまった者であっても、わたしたちを造られた神様は今もわたしたちと関わっておられます。

 私たちは週のはじめに礼拝し、聖書を読み、神様の言葉を聞きます。そして神様の恵みを得て新しい1週間へと出かけていきます。しかし、時にその1週間の中で私たちは壁にぶつかります。迷い、悩み、礼拝や聖書の中から受け取った神様の言葉を忘れてしまうことだってあると思います。しかし、私たちはそのような1週間の働きを終えた後に、教会に戻ってきています。その一週間がとても好調だったものであっても、目も当てられないほどつらいものであっても、この礼拝の時を迎えるのです。わたしたちはこの礼拝の時、確認しているのです。神様が与えようとしてくださっている、いや今まさに与えてくださっている恵みはなんであるのか。そして神様が示している先はどこなのか。そのようにしてわたしたちは毎週毎週、神様によって新しい一週間の歩みへと導かれているのです。今週もまた、わたしたちを造られた神様と出会いました。先週までのみの中で、なかなか納得できないこと苦しかったこともあったかもしれません。しかしそのようなあなたのことも、神様は変わらず愛し、あなたを善き道へと導いてくださっているのです。

 

 

 

主日礼拝202174()

「御言葉を受け、行う者に」   森崇牧師

  ヤコブの手紙 1章19~22節

 

おはようございます。ヤコブの手紙はその始まりを「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします」(11)と記しています。この著者ヤコブは、諸説ありますが、主の兄弟ヤコブとされています。福音書にイエスの母や兄弟が出てきますが、彼らは神の子イエス様に敵対するものとして描かれています。癒やしの業や罪の赦しの宣言をするイエス様を「気が狂った人」として捕まえようとやってきた事もありました。(マルコ32035)。彼らがイエス様のところに来たとき、イエス様は「私の母、私の兄弟とは誰か」と問われ、イエス様の言葉に聞きかつ従っていた人々を見回して、「見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とそのように言われました。

ヤコブがどのようにイエスを信じるようになったかというと、復活の体験をヤコブも受けたからでした。聖書は次のように証言します。「次いで、ヤコブにも現れ、その後全ての使徒に現れ…ました」(コリントⅠ15:7-8)と。ヤコブは復活者イエスと出会い、ユダヤ教を信仰的基盤とするクリスチャンの教会、通称エルサレム教会の指導者として大いに働きます。ヤコブは使徒会議の議長として、外国人キリスト者はユダヤ教の律法や割礼に縛られず、自由に生きて良いとの決議へと導きました。これは、ヤコブが、生前のイエス様が最も弱くされた人々と関わり、彼らとともに生きたように、信仰的に新しく生まれた弱い魂(信仰)に寄り添うという、イエスの生き様に倣った結果と言えるでしょう。実にヤコブにとってイエスという存在は当初は躓きそのものでしたが、十字架と復活のイエスとの出会いを通して、彼は自分の人生を悔い改め、また真の信仰者として、最後は殉教に至るまでその人生を生き抜きました。

本日の聖書の言葉は、このヤコブの手紙の中核をなしている聖句です。ヤコブは私達にこう告げます。人の思いの中には悪いものしかなく、自分自身の中を見つめてみると様々な過ち、ー聖書ではあらゆる汚れやあふれるほどの悪ーに満ちあふれている、と告げられます。そのような状態ですから、人の悪いところを見ても、何を言うことができようか、です。頼れるものは自分自身の中にはありません。神からいただく御言葉のみが私達の心のなかに与えられ、宿り、保たれるときに、この御言葉が私達の魂を救うことが出来ます。

今日の聖書の箇所から、ヤコブの御言葉に対する3つの祝福が告げられます。一つは、「真理の言葉によって生まれた/造られたものの初穂とされた」(18)です。ヤコブは「聖書の御言葉は私達を生んでくださった」といいます。それはいわば「造られたものの初穂とされるためであった」と告げるのですが、造られた者の初穂とは、神が言葉によってその被造物(世界とわたしたちのいのち)を創ってくださったという一つの意味と、それと同時に、神の言葉そのものである御子イエス・キリストによって神の子とされるというもうひとつの側面を告げます。

御言葉の祝福の2つ目は、「心に植え付けられた御言葉を受け入れよ/御言葉はあなたがたの魂を救う」です。過去イエス様は「種を蒔く人のたとえ」(マタイ13章)を話されました。種を蒔く人の例えでは種を蒔く者とはイエス様、種とは福音、様々な土地とは私達の受け入れの姿勢を指しています。イエス様によって、あるいは聖書によって巻かれた種を素直に受け入れるのであれば、その種は自ずから与えられているいのちを全うして祝福を生み出すのです。「御言葉はあなたがたの魂を救う」とはヤコブの神の御言葉に対する揺るぎない信頼です。人は神の御言葉に生きてこそ、本当のいのち、永遠のいのちに生きるのだと告げられます。

最後の御言葉の祝福の三番目は、「御言葉を行うものになれ/自分を欺くものになるな」との勧めです。これはすなわち、神によって生まれたものが、神の思いを果たし、御心がなるように生きよ、ということです。ヤコブ書は離散しているユダヤ人キリスト者にむけて書いていますが、自分の生まれ故郷を離れ、異国の地で、自分のアイデンティティと信仰を守っていくことは容易ではありませんでした。そのような中で、御言葉の実践に生きるように強く励ましています。

自分は神の御言葉の実践者とはたり得ないなぁ、と思われる方がおられるかもしれません。誰でも聴くに早く、語るに遅く、怒りに遅くあれ。確かに難しいことも多々あります。私達がみ言葉を受け入れ、実践に生きるとき落ち込むことや失敗や過ちに打ちひしがれることもあるでしょう。ヤコブはこのように勧めます。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば完全で申し分なく、何一つかけたところの無いものとなります」(14)「欠けたところのない」とはヤコブ書の中で7回用いられる言葉です。その意味は「包括的である」「誠実である」です。つまり、私達が破れ多い存在であることを知っているということです。そのうえで、神の言葉は私達を覆い、また包んでくださいます。「欠けたところのないもの」とは「欠けたたるもの」が「誠実な神の意志、神の言葉によって包まれていること」を意味しています。だから、アーメン、御言葉を行うものになりなさい、とのすすめは私達に、積極的かつ、前向きな励ましの言葉として聞こえてくるのです。

 

 

 

主日礼拝2021627()

「神から生まれたもの」   森崇牧師

ヨハネの手紙一 51821

 

おはようございます。今週は神学校週間礼拝という事で今週と来週、日本バプテスト連盟に属する三つの神学校(西南学院大学、東京バプテスト神学校、九州バプテスト神学校)とそこで学ぶ献身者を覚えて祈るひと時です。献身者が起こされ、教会に仕える牧師、伝道師、主事が起こされるようにと覚えてお祈りください。

今日は「神から生まれたもの」という題でみ言葉を取り次ぎます。皆さんは自分のことをどのように思っているでしょうか。その多くは父と母から生まれたという生物的な生まれを第一に考えるのではないでしょうか。人間から生まれた人間としての認識があるのだと思います。先週久しぶりに再開された祈祷会では、このような話を聞きました。コロナで、介護の現場も大変だ。今まで散歩に行けていたものが行けなくなり、家族との面会も制限され、心も体も記憶も弱り薄れていく中で「早く(死んで、)行きたい」と言われる方がある。そういう時には「上はまだ一杯いるから、入れないよ、ここで頑張ろうね」と励ますといった話を聞きました。認知を抱え、「死にたい」と言われる人が身近にいる、そのような話を伺いながら、この世界は生物的な、あるいは人間の関係上の死と直面させられている時代が広まっていることを強く思わされました。

ヨハネの手紙の最後は「私たちは知っています」という言葉から始まり、実にそれが三回続いています。18節では「神から生まれたものは罪を犯しません」とあります。5章1節には「イエスがメシア(救い主)であると信じる人は皆、神から生まれたものです」と言われます。ここにはキリストを信じるものはすべて神から生まれたものですという尊い宣言があります。私たちは肉によって生まれたものですが、同時に霊によって生まれ、また生きることが出来ます。神から生まれた人は、すべからく世に打ち勝ちます。54節に「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それは私たちの信仰です」と宣言されます。この世がどんなに悪い思想や行動に満ちていたとしても、神から生まれたものとして生きていくことが可能です。神の子どもとして、そこに主の救いと助けが起こされるように関わっていくことが求められています。

二回目の「私たちは知っています」には、私たちが神に属するものであり、しかし同時に全世界は悪い者の支配下にあるとされています。「神に属するもの」とはすなわち、救い主イエスによって神に属するものとされているという事です。57節で「証しするのは三者で、“霊”と水と血です。この三者は一致しています」とあります。「水」とはイエス様が罪人の仲間として歩むことの表れであった水の浸礼(バプテスマ)、そして「血」とはイエス様が十字架に磔にされることで流された血です。すなわち、「水と血」はイエス様の生涯を顕しています。これによって罪人とされた人は神から愛されている神の子としてイエスに受け入れられ、神に属するものとされました。この「神に属するもの」という言葉は、イエスを信じる信仰共同体にとっては、霊とは「イエスは主なり」と告白する信仰告白、水とはイエスの死とよみがえりの命にあずかるバプテスマ(浸礼)、血とはキリストの体なるパンと新しい契約の杯である主の晩餐を象徴しています。つまり、神に属するものとは信仰共同体なる教会に連なる者、「”霊”と水と血」を証しする者のことです。

三回目の「私たちは知っています」とは「神の子/真実な方/御子イエス・キリストの内にいる」ことです。御子イエス・キリストとはヨハネの手紙だけが用いる称号です。

「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(1:3)とあるように、御子イエスとの交わりは最終的には御子イエスの内にいることであり、ついてはそれこそが「永遠のいのち」なのだとされています。つまり、わたしたちは、イエス様によってすでに永遠の命を得ていると言われています。しかし、注意しなければならないのは、それは偶像によってその信仰がいつでも取り去られてしまうかもしれないという危険性を告げます。

さて、今日は「神から生まれたもの」とは「救い主イエスを信じるすべての人」であり、「神に属するもの」とは悪に満ちた世界の中で信仰共同体の中で「”霊”と水と血を証しするもの」、そして御子イエスのうちにとどまり続け、永遠のいのちを持って告げていく、そのような繋がりを持ちました。これらの事柄の中で、献身を志すとは、まさに信仰が教会という場所ではなく、一人ひとりが置かれているその場で、神から生まれたものとして生きること、悪の世の支配の中で、信仰を告白し、イエスの十字架と復活の命を信じ、与えられているものを分かち合い、支えあって生きることです。み子イエスの内にいるという平安と安心がこの世の中でひとりひとりを通してその広がりを実現させていくことこそが、わたしたちの目指すべき献身なのだと思います。

 

 

 

 

主日礼拝2021620()

「賛美をたずさえて」    福永聡子姉

ヨハネの手紙一 4721

 

おはようございます。 この3月、青野先生、詔子先生より、80冊の『讃美歌21』をおささげいただきました。大変感謝なことです。今朝は、この『讃美歌21』から、急速に変化する今の時代を反映した讃美歌を3つご紹介したいと思います。これらを作詞したのはブライアン・レンというイギリスの方で、今も存命の讃美歌詩人です。この方の著書「塵の中に素足で」(日本キリスト教団出版局2004)の冒頭には次 のように書かれています。 「塵とは世俗的な現実に縛られた、汚くて居心地の悪い人間の経験のことである。これは死に向かって時を刻んでいく者たちが運命付けられている塵であり、私たちの体がいつか帰る塵である。罪、恥、失敗、それらは素足を通して感じる地球の塵である。この塵の中から歌う時にこそ、祈りには誠意が加わり、感謝も真実のものとなり、讃美も心からのものとなる」 微力ながら私はこの30年、奏楽者として奉仕させていただいていますが、この本を読んで礼拝で讃美歌を歌うということが全くわかっていなかったと思いました。 また、昨年から続く新型コロナウィルス感染症の影響から、礼拝はリモートが中心となり、一緒に 讃美することが難しくなりました。今は、大きな声で讃美することは叶いませんが、だからこそ心の中で讃美歌の言葉を味わい、意味を知り、歌うということを一緒に考えてみたいと思いました。

そもそも「人はなぜ歌うのでしょうか」 丸山圭三郎氏(大のカラオケ好きの言語哲学者)は、「人間は唯一の歌う動物(ホモ・カンターンス)」であり、「人は歌うことによって世界に気づく。カラオケで歌うことは、生(leben)の回復である」と言っています。これをキリスト者に当てて考えてみると「人は歌う動物であり、歌うことで神が造られたこの世界に気づく。讃美歌を歌うことは生(Leben)の回復である」と言えるかと思いま す。詩篇102:19には『主を賛美するために民は創造された』とはっきり記されています。

讃美歌を歌うことで、私たちはどういった世界に気づくことができるのでしょうか。海、空、大地、 緑、あらゆる命あるもの、それら全ては神様が創造されました。私たちは被造物であり、すべての 環境と調和することで保たれている命なのです。 ブライアン・レン作詞の讃美歌21426【私たちを生かす】は、同じ歌詞で3つの違う曲がつけら れており、讃美歌21に収録されているものは、アメリカの作曲家、ジョン・ウィーバーのAMSTEIN という曲になっています。5節まである讃美歌の原詞はどれも「Thank you God」という言葉で始まり、神様への感謝を表す最初の3音は神に向かって上昇しています。ブライアンは、「Thank you God」という言葉に「神の創造に対する喜びに満ちた感謝と共に、神様からの贈り物を守り、養っていきたいという願い」を重ね合わせています。2節、3節では、完全な世界を神は造られたのに、それを「奪い、無駄にしてきた罪」「その調和を破壊した罪」に赦しを求める歌詞になってい ます。そして、最終節は、次の世代に受け継がれる地球で共に生きていく方法を教えてくださいと いう願いを込めた祈りの言葉で締めくくられています。

私たちは、どこから、どこに向けて、 あるいは、どのような在り方で、誰に向かって讃美するのでしょうか。 ブライアンは言います。

「キリスト者が 塵の中に素足で立ち、

 

 そこで歌う時のみ  天の最も高いところで その歌は聞かれる」と。

 

主日礼拝2021613()

「主がなすべきを示す」   奥村献神学生

使徒言行録 919

 

日頃より、神学校や神学生の事を覚えての尊いお祈りとご支援、励ましをいただき心より感謝いたします。神学生の生活は、授業の学びや教会での奉仕、アルバイトや自治会活動など、ある面でとても忙しいですが、恵まれた環境の中でとても快適に過ごす事ができています。
私は現在、神学生生活の最終学年です。これまで皆様からのお祈りやお支えがなければ、きっとこの神学生としての生活を乗り越えることができなかったであろうという場面が何度もありました。経済的な困窮もそうですが、何よりも神学生として歩む中で、自分自身に向き合い何度となく不安が襲い立ちすくむ事がありました。自分自身が見えなくなり、私のような者が卒業後に牧師として立っていく事ができるのかという不安です。それでも、皆様からのお祈りや励ましによってここまでの学びの時が整えられ、神学生としての生活を続けることが今も許されています。
西南学院大学神学部は、ここ数年の入学者減少により学生数が大幅に減っています。それに伴い、一昨年より神学部学生の自治会である学生会の組織改革や、その学生会の業務やイベントの統合・縮小などを皆で話し合いながら急ピッチで進めています。「なぜ入学者が減っているのか?」とよく聞かれることがありますが、神学生はその問いに対する明白な答えを持っていません。献身者が起こされる事は、神様の出来事であり、全国の諸教会の出来事です。共に祈りつつ献身者が与えられるように神様に求めていきたいと思います。
私は牧師家庭で育ち、幼い頃からクリスチャンでした。幼い頃には牧師になりたいと思っていましたが、大人になってから自分自身が牧師になろうとは思わなくなりました。しかし、東京で働いていた時にあるニュースをテレビで観た事をきっかけに、献身の出来事へと踏み出すことになりました。
自分自身の隠していたい部分が、そのニュースを通して神様の前に露わにされ、どうすることもできないような思いに包まれました。会社や教会で自分の姿を使い分け、自分の立場を守るために、人を苦しめていた自分の姿が明確になりました。
今日の聖書の箇所では、パリサイ派のエリートで、キリスト者を迫害していた中心人物であったパウロが回心します。まさにキリスト者たちをさらに苦しめようとダマスコに向かう途中での出来事でした。パウロは光に照らされ、目が見えなくなりました。そして、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)とイエス様が彼に語られます。パウロが苦しめてきた人々、それはイエス様を救い主と信じてきた人々でした。その人々を迫害することは私を迫害することなのだとイエス様はここでパウロに告げました。
史実としてこの「パウロの回心」の出来事が厳密にどのような状態であったのかは私たちには分かりません。しかしこの出来事を通して、迫害者であったパウロは変えられ、福音を広く宣べ伝える者へと変えられたということは間違いありません。
イエス様は続けて「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」(6節)とパウロに伝えます。
人が生き方を大きく変えられる場面、そこでは一時的に目が見えなくなるような出来事が起こるのかもしれません。それまで確かだと思っていた価値観が根本から覆され、自分が何をしているのかわからなくなる。不安に包まれ、人の手を借りて歩くことしかできなくなるような中で、イエス様は「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」と語られます。

 

 

 

 

 

主日礼拝202166()

「命の言に生きる」   森崇牧師

ヨハネの手紙一 114

 

おはようございます。最近、平尾教会の兄弟姉妹の中に、ワクチンを受けられる、または受けましたという情報を聞いて、私はすこしほっとしています。コロナの状況が一日も早く沈静化して、共に礼拝をし、共に主にある神の家族としての交わりを深めることが出来るようにと祈っています。さて、6月はヨハネの手紙を皆さんと共に学んでいきたいと思います。ヨハネの手紙Ⅰは宛先がない手紙です。内容は手紙というよりも説教に近いものですが、信仰者のことを「私の子どもたち」(2:1)と呼び、信仰生活を送るうえで注意すべきこと、大切なことを伝えています。その関係性はさながらやさしいお父ちゃんと子どもといった感じです。この手紙の中では教会の中に入ってきた異端の教え、人を惑わし、信仰の道から離れさせようとするグノーシス主義(2:22、4:1-3)についての警告がなされています。グノーシス主義とは一言で説明は難しいのですが、知識という意味です。神の前に正しくされる知識を持っている人はイエスを救い主と認めなくてよいし、知識を持つがゆえに自分は罪びとではない、だからどれだけ放縦に生きてもすべてはゆるされている、だから教会などは無意味だと主張した人々でした。ヨハネの手紙では信仰者がどのような神を信じるべきか、そしてどのように生きるべきかの実践を主張しています。

ヨハネの手紙はその書きだしを「初めからあったもの」としています。これは「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった」(ヨハネ1:)、「初めに神は天と地を創造された」(創世記1:)が思い起こされる「初め」です。創造者としての神の統治が神の言葉によってなされ、また神の言葉の完全な実現である救い主イエスがこの地上に現れ、そしてそれを受け取ることができるようにされたということです。ヨハネの手紙では、その初めにあったものを聞くことが出来、見ることができ、触れることができたと、驚くべき報告をしています。本当でしょうか。誰が神の言葉を聞き、また誰が肉眼で確認が出来、また誰がその手で触れることができるのでしょうか。聖書が確かに証言するのは神の言葉や奇跡は空想の世界ではないということです。ヨハネの手紙によれば、それは確かに実在し、なおかつ確認できます。それは疑い深いトマスが「私はあの方の釘後に手を入れ、あの方の脇腹の傷に触れてみなければ決して信じない」といったとき、主イエスが疑い深いトマスに現れてくださり、「そうして見せよ」と告げた事と同じことです。聞く、見る、触れるという三つの動作には、それぞれ五感で示されるものです。音や言葉で聞き、目で見、また考え見て、手で触れられ、確かめられるものです。初めからあったもの、すなわち「命の言」とは救い主イエスを表しています。ヨハネ福音書では「初めに言があった」と告げますが、そののちに「言は肉となって私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た」(1:14)として、この世に人間の姿をとって来られた神の御子イエスの存在を見たとありますが、ヨハネの手紙では再び「目で見たもの、よく見て」とわざわざ違う動詞を用いて強調し、これを読む人に命の言はあなたがたにも現れているではないかと確認しています。 

「命の言葉―救い主イエスー」を伝える目的は3節にあるように、「交わり(コイノニア)を持つため」です。元来このコイノニアとは財産を共有するもの同志に用いられますが、聖書では神の恵みを共有し(フィリピ1:7)、信仰の同志として喜びをも苦しみをも共有すること(ローマ12:15)を指しています。「私たちとの交わりを持ってほしい」と願う交わりとは何でしょうか。ひとつは、縦の繋がり、すなわち神との関係です。人は神の似姿に創られた故に、神とかかわる存在です。自分の弱さや愚かさを神はそのままで認めてくださるお方です。神は人間に呼びかけ、働きかけ、人格的な交わりを開こうとされています。ふたつ目には横のつながりです。「神は愛です」(48)というヨハネの手紙の最も核心の言葉がありますが、イエス様にあらわされた神の愛の生き方は横の交わりを生み出し、かつ支えます。信仰者の神の家族としての交わり、教会とのつながり、地域との繋がりを大切にします。キリスト者は孤立した生活をしません。教会こそ、神との交わりが中心となり、神の愛の実現を目指して互いに仕え、交流を果たすところです。三つ目の交わりとは、礼典による交わりです。ヨハネの手紙5章8節では「証しするものが三つあります。御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです…神の御子を信じる者は、この証を自分の心の中に持っています」とあります。御霊と水と血とは、それぞれ象徴的な言葉です。御霊はイエスを救い主とする信仰告白をあらわし、水とはバプテスマ(浸礼)、血とはイエスの十字架、すなわち救い主イエスを想起する体なるパンと、新しい契約の杯を表しています。あなたも、この喜びの交わりに、加わってみませんか。

 

 

 

主日礼拝2021530()

       「復活」の主とともに生きる」  青野太潮協力牧師

                                       ルカによる福音書 24 13-35

 

 

ここに持ってまいりましたのは、私が「よろしかったらどうぞ一冊お持ち帰りください」と書いて、いつも教会の受付 においております、昨年のクリスマスの時期に出版されました本です。『どう読むか、新約聖書 ――福音の中心 を求めて――』、ヨベル、2020 年、です。その表紙には、15 世紀のイタリアの画家パオロ・ウッチェロの『磔刑』が、 つまり真面目なイエスさまの十字架の絵が印刷されているのですが、あたかもそれを覆うかのようにして、宣伝用の 帯が巻かれておりまして、それには、一見するとどうもあまり真面目とは言えないような、次のような文言が書かれ ております。にこやかな笑顔をした著者の、つまり私の(笑)写真とともに、漫画における「吹き出し」の形で、こう 書かれています。「処女降誕、贖罪、復活……。何ひとつ信じられなくてもだいじょうぶです!」 そしてさらに、「こ れならいける!青野太潮の新約学」とも大きく、ちょっとふざけた感じで書かれています。 私の友人の牧師は、基本的には私の捉え方に対して肯定的ではいてくれるのですが、しかし時には、言葉の 本来の意味における「批判」を、歯に衣着せぬ仕方で書き送ってくださるのですが、今回も、この本を読んでくれて、 すぐに次のような手紙をくださいました。「何ひとつ信じられなくてもだいじょうぶです!」なんて、先生の文章として、 この本のどこにも書かれていませんし、どう見ても、それは編集部による、大衆におもねるような文句だと思われま す、あまりにも「下品」です、と。 たしかに、それは編集部の提案ではあったのですが、しかし私は、とてもそれが気に入って、それを採用すること に同意いたしました。ですから、それは私の言葉ではない、と言って逃げるつもりはまったくありません。ただ、ぜひ注 意していただきたいのは、そこでは決して「何ひとつ信じなくても」とは書かれていない、ということです。そうではなくて、 「何ひとつ信じられなくても 、、、、、、 」と書かれているのです。 つまり、そんなことは「信じなくても一向に構わないよ、どうでもいいことなんだから」というような意味の言葉では なくて、「とても大切なことなのかもしれないので、信じたいのだけれども、しかし、どうしても書かれているそのままの 形では信じられないのだ」という意味を持った言葉が、そこでは語られているのです。 私のこの本の書評を『キリスト新聞』に書いてくださった、立教大学教授で、日本新約学会の専務理事をして くださっている廣石望さんは、冒頭にこう書いてくださいました。「帯広告に、『処女降誕、贖罪、復活……。何ひ とつ信じられなくてもだいじょうぶです!』とある。私の家族の一人は、それを見て『やったあ!』と喜びの声をあげ た」、と。そのような反応をしてくださった方が、この教会にもおられるでしょうか。それとも大多数は、どうもこれはちょ っと、という反応でしょうか。 処女降誕、贖罪、復活の三つを並列させるというのも、あまりにも乱暴で、無神経すぎると思われる方々もお られることと思います。しかし、新約聖書のなかで語られているこれらの概念は、突き詰めて言えば、明白に 2000 年前の世界観に色濃く刻印されているものでありまして、それを書かれてあるとおりにそのまま受容しようと しても、現代人の私たちにはそれは到底簡単に信じることができるような類のものではない、ということができると思 います。 今日は、そのなかでも、とくに「復活」に焦点を当てて、ともに考えてみたいと思っております。復活についてもそう ですが、処女降誕、贖罪についても、この新書本のなかでかなり詳しく扱っていますので、まだ読んでくださってない 方は、ぜひ読んでみていただけたら、そしてご「批判」をしていただけたら、とてもさいわいです。「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 2 ところで、もう 25 年以上も前になりますが、執筆の依頼を受けて、朝日新聞社の朝日選書の一冊として、『ど う読むか、聖書』を 1994 年に出版いたしました。そしてアマゾンの書評欄では、一人の方がこんなことを書いてく ださいました。つまり、私としてはもちろんいろいろなことを書いてはいるつもりなのですが、その方は、私は主として 「復活」について書いている、と言われるのです。私としてはむしろ、イエスの「十字架」の問題、とくにそれを逆説的 に解釈する「十字架の逆説」の問題を中心においたつもりであったのですが、その方は、メインは「復活」にある、と 言われるのです。こんなふうにその方は記してくださいました。 聖書を批判的に読むことを推奨した本。著者は大学教授にしてプロテスタント系の牧師。後半にあるパウロ 関係の記述は適当に飛ばし読みした。本書は「ファンタジー」満載の聖書を「現実的に」読み解こうとした本で、メ インは「イエスの復活」を「寓話」として解釈するところになるだろうか。私はこれまで「復活」を権威づけのためのハッ タリだとしか思っていなかったので、本書の試みはある意味とても刺激的だった。 「マルコによる福音書」の唐突な終わり方、十字架でイエスがつぶやいた言葉、パウロの回心。これらに対して 著者の「復活」解釈によって「現実的な」筋道が示されるのだから、もう驚くしかない。ひょっとしたら「聖書解釈」と いう分野には、「文芸解釈」に匹敵するとんでもない沃野が広がっているのかもしれない、と思ったのだった。 メインが「復活」かどうかはともかく、この方の的確な読み方には、大変驚かされました。というのも、教会のほと んどの信徒が、「復活」という出来事は聖書に書かれているとおりの仕方で何事かが起こった、という、そういうこと がらだったのだ、と思っているのですから無理もないのですが、この方も当然聖書の「復活」の記事はそう読むしか ないものだ、と思っていらした、しかし自分はそんなものを信じることはできず、それは「権威づけのためのハッタリ」以 外ではない、と思っていらしたわけですが、しかし私の主張によって、ことの本質は実はそうではなくて、「復活」とし て書かれていることは、ある別のことがらを指し示している「寓話」(つまり『イソップの寓話』のような寓話)、すな わち「たとえ話」、あるいは端的に「たとえ」(決して「例え」ではなくて「喩え」)、つまり、主としてメタファー(隠喩) ――「頭に霜を置く」という類。万葉集のなかの「居明かして君をば待たむぬばたまのわが黒髪に霜の降るまで」 参照——なのであって、書かれている文字とは別の、あるいはそれ以上の「ことがら」、ドイツ語で言うところの Sache(ザッヘ)、を指し示している限りにおいて意味を持っているのだ、という私の主張の根本を。この方は的 確に見て取ってくださったからです。 以下にも見ますが、敢えてひと言で言えば、「復活」において、そこで起こっていることは、かつても、そしていまも、 全く同様に、「復活者イエスとの間の、より完全な意味での人格的な関係の具体化とその永続化」なのではない か、ということです。そこでは事実そう書いてあるのだから、ことはそのとおりに生起したとする以外には考えられない、 などということは、「文芸解釈」においてはまったくあり得ない、あまりにも子どもじみた素人談義なのですが、実はそ んなレベルのことしか聖書学の領域においては言われてこなかったのだと、この方のような、明らかに高度な知見を 持っておられる方々に思わせてしまってきた教会人の責任は、とても大きいのではないか、と私は思っています。し かし、この方は、「聖書解釈」の分野においても、それほど幼稚な議論ばかりではなくて、「文芸解釈」におけるのと 同様のしかるべき議論が、日本新約学会などにおいて、しかるべき人たちによって、すでにしっかりと展開されてき ているのだ、ということに、私の著書を通して気づいてくださったのです。そして、ありがたいことに、「ひょっとしたら聖 書解釈という分野には、文芸解釈に匹敵するとんでもない沃野(よくや=地味(ちみ)が肥えている作物栽 培に適した土地)が広がっているのかもしれない、と思った」、と言われるのです。 それから、この方が、私の基本的な姿勢を「現実的」と理解してくださっていることも、とてもありがたいことでした。「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 3 聖書の内容は、この方が言われるとおりに、「ファンタジー」満載、つまり、空想・幻想に満ち満ちたものなのですが、 この方は、私の著書はそれを「『現実的』に読み解こうとした本」だと言ってくださり、「『マルコによる福音書』の唐 突な終わり方、十字架でイエスがつぶやいた言葉、パウロの回心。これらに対して著者の『復活』解釈によって 『現実的な』筋道が示されるのだから、もう驚くしかない」とも言ってくださっています。 私は、現実的でないことがら、理性や知性を無視して、まるでまだ太陽が地球の周りを回っているかのような、 そういう 2000 年前の新約聖書の世界観をそのまま信じることが真の信仰であるかのごとくに主張する、浮世離 れした、アンリアルな世界観を、「聖書がそう言っているから」という理由だけで受け入れようとするようなことは、も はや決してすべきではないと思っています。あの、「天動説」ではなくて「地動説」を主張したコペルニクス(14731543)の議論の展開において、そのような聖書に基づく主張を議論の基盤においた人たちが、どれほどひどく 誤っていたことか、それどころか、その誤った議論を根拠にして、たくさんの良心的な科学者たちを、あまりにも酷い 仕方で断罪したことか、私たちはしっかりと想起すべきだと思います。 「復活」したイエスさまが 40 日間地上の生を歩み続けられたあとに、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げら れたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」という、使徒言行録 19 節の記事が、どれほど神話的なも のであるか、また、「復活」したイエスさまが、再びこの世に「再臨の主」として戻って来られるとされているのですが、 そのとき、パウロはその「再臨」のときまで自分が生き残ると誤って信じていたのですが、次のようなパウロの言葉 (テサロニケの信徒への手紙一 41517 節)も、どんなに神話的なものであるかを、私たちはしっかりと自 覚しているでしょうか。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠り についた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、 神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、 まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包ま れて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」、とパウロは記していま すが、そうした描写は、ことごとく神話的以外のものではありません。 なぜならば、「雲」の向こう側がどうなっているのか、一人の天文学者は、「私たち人類は、宇宙を 150 億光年 の彼方まで見ることができます」と言っていますが、その「雲」の先には、150 億光年もの宇宙の広がりが、少なくと もこの「天の川銀河系」(Milky Way Galaxy)のなかにおいてでも、広がっているのだからです。そしてこの宇 宙には、この銀河系と同じ銀河系が、膨大な数存在している、と言われています。 そのような観点からいたしますと、イエスというお方が、ルカ福音書 172021 節によれば、「神の国は、見 える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」、 と言われたということは、2000 年前の人の言葉としては、実に驚くべき、敢えて言えば、科学的にも正確な、目 に見える世界のなかにおける「実体」とは異なった、あとでもふれますような、「あなたがたの間にある」という、「人格 的な関係」の概念として「神の国」を定義されている、実に的確な言葉です。 そもそも「復活」のイエスを、イエスの墓が空であったという伝承を根拠にして、こうした「肉体的な実体」を持った 存在だと考えること自体が、ひどく神話的なのでありまして、それを「聖書に書かれているから」という理由でもって、 人に信じることを推奨する、ひどい場合には強要する、などということは、もはや決してやってはいけない「暴挙」な のです。 私は、さきほどふれました朝日選書『どう読むか、聖書』の6970 頁において、「古代の世界観と科学」とい う小見出しのもとで、次にように書きました。 聖書は科学の教科書ではない。一秒間に地球を七廻り半もする速度を持つ光をもってしても、何億年もか「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 4 かってようやく地球にその光が届く星の存在が数多くあることがわかっている現在――その意味ではわれわれは 日々、何億年も前にその星を出発した光をこの目で実際に見ているわけで、現在という時と何億年の昔の時は 今ここで融合していることになる――また、われわれが住んでいる地球を含むこの銀河系のほかに、それと同程度 の大きさの他の銀河系が何億と存在していることも認められている現在、保守的なキリスト教徒が今日でもして いるように、聖書に書いてあるイスラエルの父祖たちの生きた年数を足し算していくことによって、天地創造や人類 創造はおよそ紀元前の 5000 年ごろのことであったなどと主張するのは、あまりにも滑稽である。 いわゆる西暦が導入されたのは、六世紀のロ-マの修道士ディオニシウス・エクシグウスによってであるが、それ 以後も、とくに聖書の写本――これについては第五章において述べることにするが――の写字生たちは、14 世 紀に至るまでも、この世界創造紀元ないしはアダム紀元を用いていた。そこでは世界創造の日は紀元前 550991 日とされ、写本を写し終わった日付はそこから起算して記されていた(B・M・メッツガ一著、『図説ギ リシア語聖書の写本――ギリシア語古文書学入門――』土岐健治監訳、教文館、1985 年、57 頁)。 しかし、今日の科学の進歩には絶大なものがあり、地球中心の天動説に基づいて七層の天界を擁していた 宇宙論を信じていた古代の世界観をそのまま信じなければならない、そしてそれが信仰なるものだ、などと主張さ れたとしたら、それは人間の理性や知性に対する暴力にほかならない。もちろん人間の理性や知性が絶対的な ものでないことは言うまでもない。今から二千年後の人たちは、私たちが今日までに到達した世界観を、おそらく はあまりに幼稚で神話的なものだと嗤(わら)うことであろう。だから、信仰とは理性に従属するものでは決してない。 しかしだからといって、人間の理性に基づく真摯な学問的な探究を全く無視して、ただそれが聖書だからという理 由だけで、古代の世界観に逆戻りすることが正当化されるはずはない。そしてこのことは、のちにふれるイエスの復 活や奇跡について考えるときにも、当然のことながら当てはまる。 さて、この方は、『どう読むか、聖書』を批評しながら、この本のメインのテーマは「復活」だ、と言ってくださったの ですが、1994 年のその『どう読むか、聖書』を押さえた上で、「復活」の問題に特化した形で私が書いたものがあ ります。それは、ここに持ってきました、同じく朝日新聞社から出版された『アエラムック 40 新約聖書がわかる』で す。口の悪い友人は、『新約聖書がわからなくなる本』と揶揄していましたが(笑)、しかしもしかしたら、ある意 味でそれは的確な言葉かもしれません。というのも、「新約聖書」が言わんとしていることとはいったい何なのか、と いうことは、決して自明のことではありませんので、私たちは否応なしにある意味での「混沌」、否定的に言えば「カ オス」に直面させられざるを得ない、というのが実情のように思われるからです。 ところで、このアエラムック(Mook とは、MagazineBook とから造られた造語のようですが)の編集部の 大久保さんという方から、出版が近づいたころに、以下のようなお手紙をいただきました。大久保さんは、男性な のか、女性なのか、書いてないのでわかりませんが、「お祖母さまの死」についての語り口が何とはなしに女性的な ので、女性であられるのではないかと、勝手に思っております。 青野太潮先生、 アエラムック編集部、 1998527 日、 大久保拝 前略ごめんください。 この度は『アエラムック 40 新約聖書がわかる』にご執筆いただきまして、まことにありがとうございました。そして 沢山のご注文をいただきまして、スタッフ一同喜んでおります。現在、各先生方からの力作が集まり、鋭意編集を 進めておりますが、さすがは新約聖書、これまでの仕事と同じテンポでは仕事が進みません。あまりに奥深く、先 生方の御原稿をひとつひとつ読んでゆくのも、目や頭だけではなく、すべての神経を総動員させる、という感じです。「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 5 また、当然かもしれませんが、企画の段階で勉強したレベルよりも実際の内容ははるかに複雑で陰影に富んでい ることをひしひしと感じ、仕事を左から右へテンポよく進める、ということができず、どうしても、亀のように考え込み、 牛にように反芻しながら、となってしまいます。しかし仕事をとおして聖書についてじっくり考えられるのは、とってもあ りがたい経験だと思い、深く感謝しております。 青野先生の原稿「イエスが死から『復活』したのは本当か」を読んで、まず「待ってました!」と膝を打ちたい気持 ちになりました。青野先生が想定してくださった読者のイメージが、我々のイメージとちょうどぴったり合っていると思 ったからです。「狂信でもなく、懐疑でもなく」、という位置づけは、まさに明言ですね。「イエスの言っていることはい いのだが、あの奇跡とかがちょっとね・・・」という人、本当に多いでしょうね。 そして、「信じたい人は信じればいい」で片付けるのは簡単だが、それではいけないのだ、と敢えて言う、という先 生の一節の、言葉の力強さに、今回の青野先生の御原稿の核の部分があるように思えました。この一節にとて も強いインパクトを受けました。聖書について考える時の、土台にしなければならないことだと思いました。 またマルコ福音書だけが復活以後を語ってはいないということ、福音書の唐突な終わり方は、「この福音書をも う一度初めから読み直してみてはくれないか」と問うているのではないか、ということなど、聖書はなんと二重、三重 の仕掛け(著者は仕掛 、、 けた 、、 つもりはないのかもしれませんが)に満ちているのだろう、と、驚きました。 そして「復活」についての考え方ですが、青野先生の文章を読むことで、復活は少しも「こけおどし」でもフィクショ ンでもない、と思えてくる、むしろ誰にでも思い当たる当然のことを、復活という形式で書いただけ、という気がしま した。だれでも自分の親しい人が死ぬと、肉体が滅びることは悲しいけれど、生きていた時よりも、魂はずっと、自 分のそばに(自分の中に)いつも居てくれるようになる、生き生きと自分の人生を支えてくれる、そういう気持ちを 味わったことはあるのではないでしょうか。 私自身、初めて祖母の死に立ち合った時、冷たくなった遺体のそばで、悲しみと同時に、「生きるとはなにか」 「人生とはなにか」「人はみんなこうして死ぬ日がくる。だからそれまで人生を大切にしなさい」というようなメッセージ を、まるで台風に呑み込まれるように、強烈に感じた、という記憶があります。あんな強烈なメッセージは、人の死 以外の場面では感じることは難しい、逆に言えば、死を以てでないと、伝えることが難しい、とも言えるでしょう。す るとなおさら、イエスの十字架刑も理解できるようになりました。 長くなってしまいました。初校ゲラは 6 月の下旬に出る予定ですので、チェックをお願いいたします。 では、不安定な天候が続きますが、どうぞお元気でお過ごしくださいませ。本当にありがとうございました。早々 保守的な方々は、直ちに、お祖母さまの死に際しての大久保さんの体験をイエスさまの復活の問題と結びつ けるなんて、キリストの復活はそんなレベルのことがらではない、と言いたくなられるのではないかと思います。しかし、 私は、それがすべてだ、などと言うつもりは毛頭ありませんが、しかし、復活という出来事は、この方が言われるよう な、私たちもまたふつうに「追体験」できるような出来事でなければならない、と思っておりますので、基本的にはそ のような捉え方には、とても親近感を抱いております。 さて、私はいま、教会の礼拝において「説教」を語っておりますので、『アエラムック』に書きましたことと大いに重 なってしまいますが、最後の結語として、以下のことをメッセージとして申し上げたいと思っております。 上記の『どう読むか、聖書』を書きましたとき、私の目指したことは、「信仰を持つ者においては『狂信』からの解 放が、信仰を持たない者においてはいたずらな『懐疑』からの自由が、それぞれ与えられていく」(9 頁)ということ「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 6 でした。そしてそのときに私の念頭にあったまず第一のことが、まさにイエスの「復活」に関することがらでした。という のも、一方で「キリスト教の言っていることはいいのだが、あのイエスの奇跡とか、とくにイエスの復活などということは ちょっと……」と思っている人が大勢いることを私は知っているからであり、他方で、キリスト教徒ではあるものの、し かし福音書に記されているような「復活」の記事の内容は依然としてよくわからず、それでもそれを信じなければい けないと言われて、わからないままにぐっとそれを呑み込んでいる、と言う人をも、たくさん知っているからです。 実際、福音書に記されている復活者イエスの顕現物語は、現代人にはすんなりと理解できるような類のもので はありません。そもそも一度ほんとうに死んだ人が生き返るなどということが尋常ではありませんし、その復活者が戸 が閉まっていたのにスッと部屋に入ってきたり、パウロが言うような「霊のからだ」のことだと思ったら、魚とパンを弟子 たちと一緒に食べてみたり、すでにふれましたように、復活後 40 日目に天に上げられ、「雲に覆われて彼らの目か ら見えなくなった」(使徒言行録 19 節)などという報告をそのまま信じることが信仰なのだ、などと言われた ら、ほとんどの人が二の足を踏むのも当然でしょう。 それが信じられる人は、あるいは信じたい人はそう信じればよい、と言う人もいるでしょうが、しかし私は、それで はいけないのだ、と敢えて言いたいと思います。なぜならば、上述のような復活者の顕現物語は、はっきりと 2000 年前の古代の世界観に基づいた神話的な表象をもって書かれているからであり、それをそのまま信じるようにと説 くことは、理性あるいは知性の犠牲を強いることになるからです。そしてその結果、信仰は奇跡信仰、すなわち何 か超自然的で神秘的で尋常でないことがらが起こることへの憧憬としての信仰になってしまい、この人間世界の 悲惨に満ちた苛酷な現実を直視することができなくなってしまいます。「いや、イエスさまはほんとうに神の子だった のだから」という声がすぐにも聞こえてきそうですが、しかし、たしかにイエスをスーパーマンのように描く描き方が新約 聖書のなかに存在しているのは事実だとしても、それはやはり上で述べました古代の世界観に基づく平板な描写 なのでありまして、決して新約聖書に、ということはすなわちキリスト教に、真の意味で特徴的なものではありませ ん。 特徴的なのはむしろ、そうした描写とはまさに正反対の、十字架上で何の奇跡をも起こすことができないままに、 「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と絶叫して息絶えたイエスを描き、しかしそのようなイエス に対してこそ「ほんとうに、この人は神の子であった」という信仰告白をローマ軍の百人隊長をして言わしめるという、 最古の福音書であるマルコ福音書 15 章の描写です。そして、「復活」の内実とは、まさにこのように死んでいかれ たイエスに対して神から与えられた「然り、それでよいのだ」という「全面的な肯定」の告知だったのだ、という捉え方 です。 イエスの「復活」をそのようにマルコが理解しているということは、彼マルコのその後の描写にも注目すべき特徴を 与えずにはおきません。すなわち、マルコは、復活者が実際に弟子たちの前に現われたということについては、まっ たく物語ろうとはしないのです。つまり、マルコ福音書には、復活者イエスの「顕現物語」がまったく存在しないので す。ここでしっかりと頭の中に入れておきたいのですが、顕現について語っている、「結び 一」としてまとめられている マルコ福音書 169 節以下の部分は、それが[ ]のなかに入れられている事実が示していますように、新約 聖書のギリシア語原典を確定するための古写本の検討からして、後代の付加であることが明白でありますので、 そしてそのことは「結び 二」として記されている短い部分に関してもまったく同様に当てはまることですので、マルコ 福音書は、16 章の 8 節で唐突に終わっていたとしか思われない、ということです。すなわち、「婦人たちは墓を出 て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」、と唐 突に終わっていたのです。とすれば、マルコは、復活者の顕現についてはまさに何も語らないことによって、「復活」 について何事かを語る、という驚くべき手法をとっていることになります。「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 7 マルコは、復活者イエスをまったく登場させないで、その代わりに、「白い長い衣を着た若者」、すなわち当時の 世界観においてはごく普通に受け入れられていた存在である「天使」をして、空の墓のなかで、「あの方は復活な さって、ここにはおられない。……あの方は、あなたがたよりも先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこ でお目にかかれる」(67 節)と言わせます。ガリラヤとは、生前のイエスがユダヤ教の宗教的な掟に起因する 差別を乗り越えて、民衆と交わり、彼らと共に生きた、イスラエル北方のガリラヤ湖畔の町々村々のことです。その ガリラヤに行け、そこでこそ甦りのイエスに会える、とは、いったいどういう意味なのでしょうか。 それは、生前のイエスに目を注げ、そしてその生前のイエスに出会うことこそが、「復活」のイエスに出会うことな のだ、という意味以外ではないでしょう。そしてまさにその生前のイエスの生き様をこそ、マルコは彼の福音書におい て、世界の文学史上初めて「福音書」という文学類型を創り出しながら、書き上げたのでした。なぜならば、福音 書は伝記的ではありますが、人の一生について語っている「伝記」とは異なっており、イエスその人の人生のほんの 一部分を集中的に取り扱っている「福音書」という文学ジャンルは、マルコ以前にはまったく存在しなかったのだか らです。 そうであるからには、168 節の極めて唐突な、いったい何でこんな終わり方をするのだろうかという戸惑いの 思いを抱かせざるを得ないような福音書の終わり方は、読者に向かって次のように語りかけているのではないでしょ うか。すなわち、この福音書をもう一度始めから読み直してみてはくれないだろうか、そして、最初は、イエスという 過去の歴史上の人物の言行としてだけ読まれるに違いないものが、二度目、三度目の通読においては、もはや 自分とは関係のない過去の人物の言行としてではなくて、まさに今、生きて自分に語りかけてくれる人物の言行と して響いてくることになりはしないだろうか、そして実はそれこそが、「復活」のイエスに出会うということなのだ、と読者 に語りかけているのではないでしょうか。 「復活」のイエスに出会うということは実は生前のイエスに出会うことなのだ、という主張は、今日の聖書箇所と して選びました、有名な「エマオ途上のイエス」の物語(ルカ福音書 241332 節)においても、鮮明に言 われています。この物語によれば、イエスが十字架につけて殺されたあと、イエスに希望を託していた二人の弟子 が、失意のうちにエルサレムから 10 キロほど離れたエマオという村に徒歩で赴いたときに、何と「復活」のイエスが途 中から彼らに同伴し、イエスの身に起こったことや聖書の言葉について彼らと会話を交わしたのだが、弟子たちには 一緒に歩いているその人が誰なのかまったくわからなかった、というとても奇妙な物語です。そしてその物語は、三 人が夕方になってエマオについて宿屋で共に夕べの食卓を囲んだ時のことを、こう報告しています。「イエスはパン を取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿 は見えなくなった」(3031 節)。 これはいったいどういうことなのでしょうか。この物語は何を言いたいのでしょうか。イエスの弟子とされているからに は、彼らは生前のイエスの顔や声は、当然のことながらよく知っていたにちがいないと思われます。その彼らが、イエ スをイエスと識別できたのは、やっと彼が「パン裂き」をした時であったというのです。この「パン裂き」とは、生前のイエ スが民衆とまったく分け隔てなく交わって食卓をも共にした時になした象徴的な行為であり、今日キリスト教会で 守られている「主の晩餐式」あるいは「聖餐式」の始まりとも言うべき行為です。そしてイエスがその「パン裂き」をし た時に初めてそれがイエスだと分かったということは、すなわち弟子たちが生前のイエスとの交わりのなかへと引き戻 された時に初めて彼らはイエスを認識することができた、ということを意味しているでしょう。 しかし、意味深長なのは、そのあとに続く、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなく なった」という文章です。なぜならばここには、一方で、「復活」のイエスをこの目で見、この手でさわるという仕方で「『復活』の主イエスと共に生きる」 青野太潮協力牧師 20210530 8 捉えようと願っている限り、当のそのイエスがまさに目の前にいてくださったとしても、それがイエスだとは分からない、 ということ、他方、ほんとうにそれが「復活」のイエスだと分かった瞬間には、そのイエスを実際にこの目で見るというよ うな事態は完全に無と化してしまうのだ、ということが、それぞれ示唆されているからです。 まったく同様のことは、ヨハネ福音書 2011 節以下に記されているマグダラのマリアとイエスとの間の会話から も聴き取ることができるでしょう。そこにはこう記されています。イエスの死後三日目の日曜日の朝、マリアはイエス の墓が空になっているのを見いだして悲嘆に暮れ、そこにいた二人の天使に「私の主が取り去られました」と言いま す。するとその時イエスが現われてそこに立ち、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問います。しかしマリアはそれが誰 なのか分からず、園丁だと思って、イエスの遺体をどこにやったのか教えてほしい、と訴えます。 そのあと 16 節は、「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。『先 生』という意味である」と続けます。実に淡々とした描写ではあります。しかしここでも、生前のイエスをよくよく知って いたマリアに目の前にいるイエスが誰なのか分からない、それが分かったのは、イエスの、「婦人よ」ではなくて「マリア よ」という、彼女を生前のイエスとの人格的な交わりのなかへと引き戻してくれるひと言を耳にした時であったという こと、そしてその時彼女は、「あっ、先生」と叫んでそれがイエスだと分かったのだった、ということが、簡潔に語られて いるのです。 「復活」のイエスと出会うことは生前のイエスと出会うことなのだ、と言われても、しかしそのような認識に至るため には、そこに何か尋常ならざる出来事が切っ掛けとして起こらなければならなかったのではないか、との疑問を持た れる人は多いだろうと思います。そしてもしかしたらそれは、アウシュヴィッツのナチスの強制収容所生活を生き抜い て『夜と霧』を著わした、あのユダヤ人精神科医のヴィクトール・フランクルが、収容所において実際に体験した「幻」 の中での彼の妻との再会と対話のようなものであったのかもしれません。実際、人がある極限状況におかれた時に そのようなことが生起するのは、極めて稀なことというわけでは決してありません。 しかし私はここで、イエスの直弟子ではなかったパウロが、キリスト教徒を迫害する途上で体験した「復活」のイ エスとの出会いについて、次のように述べているのに注目することが、極めて重要だと思います。「神は御子をわた しに(直訳は「わたしのうちに」)示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテヤ 116 節)。そしてパウロはそれをイエスの直弟子たちの体験に匹敵するものだ、と主張します(第一コリント 91 節、 158 節)。 「私のうちに」が示していますように、それは心の深奥における内的体験でありまして、私の外側で、手でさわっ たり目で見たりすることができるような体験ではありません。そしてそれならば、今このときに、この私にも起こり得て、 私も追体験できる出来事ではないでしょうか。そしてその時、イエスは私の内で、生き生きとした生命をもって「復 活」してくださるのです。 そのような「復活」のイエスさまとの人格的な交わりが、つまり、復活者イエスとの間の、より完全な意味での人 格的な関係の具体化とその永続化が、神話的に描かれたキリストの「再臨」を待つまでもなく、今このときに、私 たちすべてに与えられているのだ、ということを心から喜びたいと思います。そして、その「復活」のイエス・キリストと共 にある喜びの日々を、ご一緒にともに歩んでまいりたい、と心から切に神さまに乞い願います。 アーメン

 

         主日礼拝2021523()

  「聖霊の思し召し」   森 崇牧師

 

 ペンテコステとはキリスト教の三大祝祭のひとつです。ペンテコステは聖霊降臨の事です。祈っている弟子たち一人ひとりの頭に火のような聖霊が下されて、それで弟子たちは心燃やされて救い主イエスのみ名を大胆にのべ伝えることが出来るようになりました。このペンテコステの出来事は弟子たちが宣教へと押し出されていくことから、教会の誕生日、とも言われます。聖霊のモチーフは鳩、あるいは火で表されますが、特に祈っていた弟子たちの一人ひとりに火のような聖霊が与えられたという事は、神の臨在、かつて荒野を旅していた神の民に、昼は雲の柱、夜は火の柱を持ってその旅路を導かれた神が、弟子たちのこれからの宣教の歩みと共に共にいるという事のしるしとなりました。もう一つ大きなことは、神の臨在のしるしである聖霊が信じる弟子たち一人ひとりに与えられたという事は、弟子たちが生きる神の神殿そのものになったという事です。ですからエルサレム神殿という場所が大事なのではなく、聖霊が宿って下さる私たち人間そのものが最も大事なのだというメッセージでありました。これらの確信はイエスにおいて顕された福音―イエスの十字架と復活において神の愛は信じるすべてのものに注がれているーという善き知らせを伝えていくこととなりました。聖霊が注がれるという出来事は、エルサレム・ユダヤ地方を満たし、地の果てに至るまであまねくのべ伝えられていく聖霊の導きが弟子たちを通して顕されていくこととなりました。

さて、使徒言行録は16章から使徒パウロを中心として福音が周辺世界にもたらされることとなります。パウロは以前宣教旅行に出かけた際に出来た教会を訪ねようと計画しますが、いくつかの問題が起きます。ひとつに宣教を共にしたバルナバと対立し、別行動を取るようになります。パウロはそれで有力な弟子シラス(ギリシャ語名シルワノ)と共に行くことになります。決別や決裂というのは悪い言葉ですが、バルナバと別行動になったことによって宣教の働きは二倍となります。パウロはリストラにて以前バプテスマを授けたテモテを宣教旅行に連れていきたいと考えました。こうして、パウロは三人のチーム(Ⅰテサロニケ11)として宣教を担います。初の宣教のミッションに望む三人でしたが、アジア州で御言葉を語ることを聖霊によって禁じられます。それで彼らはより山沿いの厳しい道を行くことになるのですが、入ろうとしたビティニア州でもイエスの霊によってここでも禁じられます。聖霊とイエスの霊とは同じ意味です。イエスの霊と言われる時にはイエス様が共におられることを約束してくださった聖霊という意味でしょう。過去イエス様は聖霊についてこのように言われました。「わたしが父の元からあなたがたに遣わそうと弁護者、すなわち、父の元から出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」聖霊が「弁護者」(パラクレートス)と言われますが、聖霊の働きは「励まし」(パラクレーシス)使徒14221531へと導くことです。パウロはその晩、幻を主から示されました。それはたった一人のマケドニア人が立って「渡ってきて、わたしたちを助けてください」と願うものでした。パウロたち一行はすぐにこの幻を三人で共有し、マケドニアへと旅立つことにしました。これは人の思いではなく、イエスのビジョンに従うという意思決定でした。ここから、使徒言行録では「わたしたち」が主語となって物語が展開されていきます。マケドニアではフィリピやテサロニケといった有力な教会が立って行った町があるところです。

わたしたちの教会の主任牧師で在られた平良師が赴任された福井教会はいわゆる絶滅危惧教会の一つでした。福井教会ではたった一人の信徒が毎週毎週出来る限りの礼拝を守っておられました。この一人の信徒の存在が、一人のマケドニア人の叫びとして受け入れられることになります。北陸三県による福井教会への宣教支援、そこから中部地方連合の支援とつながり、現在は新会堂建築の幻を、連盟の諸教会の新しい支援と希望としてその幻がわたしたちのものとなっていっています。牧師が一人残ったのではなく、信徒がひとりそこを守ったことの意味の大きさを感じます。

現在、私たちの状況は様々なことが禁じられているように思える日々を過ごしていますが、教会の主であるイエス様と聖霊には特別な思し召しがあるように思います。意図した道ではない状況でも、神様の計画と最善があることを信じて共に歩みたいと思います。

 

 

主日礼拝2021516()

「福音に踏み切る」   森 崇牧師

 

「神は人を分け隔てなさいません」という聖書の言葉は信仰者を通して何度も語られていった言葉です。現在、入管法改定が世の中の大きな話題になっていますが、NCC(日本キリスト教協議会)が「人道に反する入管法改定案に抗議する」声明文を出しています。「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたがたのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい」(レビ記193334)との聖書のみ言葉を最初に告げています。この声明文の中では「難民申請者の三回目以降の申請が強制送還の対象とされること」や「退去強制を拒否した場合、刑事罰が加えられるようになること」また「入管長期収容の代替措置としての監視措置と仮放免逃亡罪」を設置することに対して厳しい反対の表明をとっています。現在日本では難民認定率がわずか0.4%と先進諸国に比べ著しく低い状態にあり、いかに私たちの社会が閉鎖的で不寛容なのかを明確に表しています。そしてこの状態は、日本人が持っている差別的な思想が私たちのうちにも確かにあるということを思わされています。

さて、今日の聖書の個所は「エルサレムの使徒会議」と呼ばれる場面です。この時、教会はある問題を抱えていました。それは外国人が真実に救われるためには「モーセの律法や割礼を遵守しなければ救われない」(1515)という考えがキリスト教会にもたらされたことによりました。これはユダヤ教に入信し、ユダヤ民族にならなければ救われない、という教えでした。そこにはユダヤ教の中に強く存在する選民思想というものが存在しています。これらの問題に対して使徒ペテロは三つのことをシェアしました。一つは、自分が使徒として立てられたのは、外国人(異邦人)が宣教の言葉を聞いて信じるようになるためであったこと、二つ目に信じた者たちには異邦人にも聖霊を与えて、神が受け入れられたことの証明をなさったこと、三つ目に主イエスの恵みによってのみ救われるということです。 

シモン・ペトロは使徒たちの中の古株です。もともとガリラヤ湖の漁師であった彼は兄弟アンデレと共に「人をすなどる漁師にしよう」と呼びかけられて弟子となりました。網で打った漁に様々な魚がかかるように、キリストの宣教に対しても多様な人々がすなどられます。お調子者でもあったペトロは「水の上を歩かせてくれ」とイエスに願ったり、あるいは洗足の時には「足だけでなく頭も」と願ったり、ひょうきんかつ、みんなの場を和ませる個性の持ち主でもありました。「あなたこそメシア(救い主)、生ける神の子です」と信仰告白をし、「この岩(告白)のうえに私の教会を立てる」とイエス様にいわれながらも、そのすぐ後に十字架と復活のイエスの話を遮って「退けサタン」と呼ばれてしまうほど、ブレの大きい人でした。そのブレの大きさは「一緒に死なねばならなくなったとしても、あなたを知らないなどと言いません」と言いながら、十字架の前においては三度イエスを否んだことでも知られています。しかし、復活の主はそのようなペトの前に現れ、三度「私(イエス)を愛するか、私の羊を世話しなさい」(ヨハネ211517)とペトロの背離すら受け入れられ、またそのような弱さを持ったペトロをご自分の働きのために遣わすお方です。ペトロは使徒言行録において使徒のリーダー的な存在として活動をします。その宣教の最初から「主の名を呼び求めるものは皆、救われる(221)」「命に至る道はイエスである」(2:28)「私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、与えられていない」(412)と早くからキリストの恵みと救いはすべての人に与えられる、と宣教しています。「すべての人にイエスの福音を」と宣べ伝えたペトロでしたが、異邦人と食事をすることを厭うユダヤ人が来ると尻込んでしまう時があり、それをパウロに叱責された時もありました(ガラテヤ21114)。ペテロは主にユダヤ教を信奉する人々に対する福音の伝達の働きが委ねられることとなりましたが、使徒言行録におけるペトロの発言はこの個所が最後です。イエスの福音―それはどんな人であっても、イエスを信じる者はそれだけで救われているーというシンプルな言葉が、ことこの世の中で実践されるときに、なんと難しいことかと思わせられます。しかし福音に踏み込んで傾斜をするということなしには、それは世の中に広がってはいかないのです。律法はキリストにおいて終わりとなり、イエスの存在は私たちを自由な者へと召し出しています。神はわたしたちを分け隔てなく愛しておられる。それはイエス様によって実現している。そのように呼びかけて歩みたいと思います。

 

                   主日礼拝202159()

             「子供のようになる」   坂本 彰男兄

 

 みなさんゴールデンウィークはゆっくり過ごすことができましたか?学校や仕事など新年度が始まり、新しい環境や新しい勉強、仕事、人間関係に対して慣れなくて、疲れがたまってきていた人にとっては、気持ちをリセットしてリフレッシュするよい機会になったかも知れません。あるいは、いつ終わるか分からないコロナウイルスの脅威に対しては平日はもちろんゴールデンウィークも関係なく、いつも気が張っていて心休まる時がないという人もいるかも知れません。
この前の休日5月5日は子どもや子どもの成長を願いお祝いする子どもの日でしたね。聖書の中でイエス様は子どもたちについて何と言っておられるでしょうか?今日の聖書箇所で、イエス様は話を聞く者たちに子どものようになりなさいと言われました。イエス様が言われる「子どものよう」というのは、どういう意味でしょう?みなさんは子どもに対してどんなイメージをお持ちですか?天使のよう?純粋無垢?素直?信じる心?好奇心の塊?
少なくともイエス様は「子どもっぽさ」つまり幼稚で成熟していないというマイナスな意味で「子どものよう」と言われたのではないと私は思います。本日お話を聞いておられるみなさんの多くは大人の方々ではありますが、それでも何歳になっても親の前では子どもの一人に過ぎません。イエス様は既に大人である弟子たちや話を聞いている人々に対して子どものようになりなさいと言われました。私たちがどんなに年をとっても、おじさんおばさんになっても、おじいちゃんおばあちゃんになっても、いつまでも子どもらしさを失ってはいけないということなのでしょう。
私にはつい最近99歳になったばかりの祖母がいますが、彼女はまさに子どもの心を持った人です。尊敬する祖母は子どものような純粋さや謙虚さ、そして他の人に対する深い憐れみの心を失わずに大人になったような人です。祖母は子や孫、ひ孫など多くの人に慕われています。残念ながら私は無知で知ったかぶりのいけ好かないガキだった子どもの頃、彼女の持つ価値を全く理解していませんでした。
私が小学生中学生だったある日のこと。テレビで災害で苦しむ被災者か戦争で苦しむ人の姿を見た時祖母は涙を流しました。人前で泣くことは恥ずかしいことなど間違った考え方にとらわれていた私は、彼女の深い憐れみに共感するどころか、人前で涙を流す姿を見下すようなつまらない人間でした。
第1コリント8章1節後半―2節
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」
私たちは、学校や職場、家庭、地域社会など、それぞれ遣わされた場所で、様々な知識や経験を蓄えていきます。私たちは知識や経験を増した時、自分と比べて人を見下すようになるでしょうか。それとも、得た知識や経験を友人や家族、近くや遠くの隣人のために用いられるようになれるでしょうか。年齢を重ねるにつれて増していく責任や周囲からの期待、あるいは自分が周囲から期待されていると思い込んでいるかも知れない重圧の中で、私たちはイエス様が勧められているような子どもらしさを、どのようにして保っていけるでしょうか。あるいは既に失ってしまって久しい子どものような気持ちを、どのようにして取り戻すことが出来るでしょうか。
イエス様は私たちに、無理をして大人ぶる必要はないよと言って下さいます。どんなに大人になっても、先輩になっても、上司ができても、子どもができても、孫やひ孫ができても、無理をする必要はないよ。知ったかぶる必要はないよ。ありのままのあなたのままでいていいんだよと言って下さっているのではないでしょうか。私たちは本当の自分ではない誰かを演じれば演じるほど、心の中にぽっかりと大きな穴を作ってしまいます。子どものようになりなさいと言われるイエス様のことばは、皮肉のようでありながら、実は大人の檻の中で苦しみもがいている、虚しい思いをしている私たち大人たちに対する慰めのことばであるのかも知れません。
私たちが聖書の中で知ったイエス様は、神様を天の父なる神と呼ぶとともに、「アッバ」、つまり、「お父ちゃん」「パパ」というような親しみを込めた言い方で呼びかけお祈りをされていました。どんなに大人になっても、どんなに年をとっても、どんなに知識や経験豊かになっても、私たちが常に神様に向かって、「アッバ、お父ちゃん、父さん、パパ」と呼びかければ、天の父なる神様の前では、一人の幼子としての自分を取り戻していけるのではないでしょうか。

 

               主日礼拝202152() 

「なぜ私を迫害するのか」   森 崇牧師

 

 今日からしばらく、使徒言行録から共に神様のみ言葉を頂きたいと思いま す。使徒言行録は救い主イエスの弟子たちのその後を記しています。弟子 たちの宣教活動を物語として記していきますが、単に弟子たちの記録では ありません。救い主イエスの復活と昇天後に与えられた聖霊によって弟子 たちは押し出されていくのですが、聖霊による働きと導きが随所に出てき ます。使徒言行録では聖霊の導きがテーマとしてあり、それ故に使徒言行 録のことを「聖霊による福音書」と呼ぶ人たちも存在します。すでに皆さ んがご存じの通り、これはルカによる福音書の続編であり、その初めに 「私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選び になった使徒たちに聖霊を通して指図を与えすべてのことについて書き記しました」(1:1)とあります。私たちの教会もまた、聖霊によって導かれ ている教会であり、それ故に使徒言行録は私たちの教会の在り様、宣教に ついて深く示唆を与えてくれる書物です。 さて、今日の聖書個所は新約聖書の多くを書いた伝道者パウロの回心の物 語です。今日の聖書の個所では「サウロの回心」とありますが、サウロと はパウロのヘブライ語名がギリシア語化した名前です。のちに「サウル」 という名前を呼ばれますが、サウルはヘブライ語名です。パウロとは新約 聖書の書かれたギリシア語の名前です。後で名前のことについて再び言及 します。 回心という言葉は以前とは180度立場が違う、考え方が変わってしまう ことを一般的に回心と言われます。例えば仏教徒からキリスト教徒に代わ ることを回心といいます。回心とはキリスト教ではイエスとの出会いであ り、救い主イエスを受け入れることを回心といいます。キリストを信じ、 洗礼バプテスマーを受けたキリスト者はすべて回心者です。回心はその ように宗教が変わること、信じるものを受け入れることと同時に、自分の 中で知らなかったこと、分からなかったこと、気づいていなかったことが 知らされて、今までの生き方ではなく、全く新しい生き方に代わることを 回心といいます。 パウロは元々熱心なユダヤ教徒でした。どれくらい熱心だったかという と、聖書(当時は旧約聖書)の律法を非の打ちどころのなく遵守し、またそ れを教えることのできるほどの熱狂的なユダヤ教の原理主義者でした。彼 の出自はタルソス出身のものとされ(9:11)ています。タルソスという地名 はイスラエル地方から遠く離れた海辺のタルソスです。タルソスは現在の トルコで、ローマの属州でありましたが、キリキア州の首都でした。その 文化圏はパウロにとって異国でしたが、イスラエルから遠く逃れてきたユ ダヤ人のコミュニティが、その土地で市民権を経て、会堂を立て、律法の 朗読や詩編の朗誦などを通してユダヤ人の信仰共同体を守っていました。 よそ者でありながら、外国の地で礼拝をささげ続けてきたユダヤ教の共同 体の中にパウロは属していました。しかし、パウロはただの信仰者ではな く、古来から受け継がれてきた信仰を守るための律法を、非常に頑なに堅 持した、熱心なユダヤ教ご強者(護教者)でした。彼は自分のことを「ヘブ ライ人の中のヘブライ人だ」と紹介することがありますが、同じ意味のユ ダヤ人やイスラエル人ではなく、わざわざヘブライ人の中のヘブライ人だ と言ったかというと、それはヘブライ人が遊牧民族でありながら、その土 地土地で主なる神への礼拝をささげて生きたという誇りがあったからだと 思います。どの場所においても、神の言葉を遵守して生きる、そのプライ ドと信念がパウロにはありました。 異国の地にありながら、信仰を守っていくのは並大抵のことではありませ ん。ちょうど私たちが日曜礼拝を日本の文化/教育の中で礼拝を守っていくことが非常に大変なように。 そのような中で、ユダヤ教から新しく出たイエスを救い主とする宗教がエ ルサレムから起こってきます。彼らはイエスこそキリスト(救い主)だと告 げるグループで、パウロは「この道に従う者」と呼びますが、後にキリス トの名を呼び求める人たち「キリスト者」と呼ばれるようになります。単 に彼らがキリストを信じるだけならパウロはそれを容認したことでしょ う。しかし、律法の呪いであった十字架刑に処されたイエスを救い主と呼 ぶ信仰、そしてこのキリスト者たちが律法から自由に生き始めた姿をパウ ロは目撃することで、パウロはユダヤ教コミュニティを破壊する危険思想 の持ち主としてキリスト教徒を迫害していくことになります。その最初に 処刑されたのが使徒言行録7章に書かれてあるステファノの殉教でした。 パウロはステファノの殺害に賛成していた(8:1)、と言われています。 さて、パウロがそのように律法主義からの自由を語っていたキリスト者を 迫害し、殺すことが、ユダヤ教のため、しいては神のためだ、と絶対的な 強い確信をもってキリスト教徒を迫害していきました。ある時ダマスコと いう場所に近づいたときに、突然天からの光が彼の周りを照らします。か つてイエス様が生まれたときに羊飼いに天使たちの大群が現れ、「神の栄光 が周りを照らした」とあります。ここでの羊飼いたちは恐れますが、パウ ロは地に倒れます。そして主の声を聴きます。「サウル、サウル、なぜ私を 迫害するのか」主の呼びかけは名前を二度呼ばれることから始まります。 パウロはここで主なる神の声を聴き、自分が迫害しているものの中に主な る神の存在があったことを知りました。そこでパウロはこのように返しま す。「主よ、あなたはどなたですか」すると答えがありました。「わたし は、あなたが迫害しているイエスである。起きて街に入れ。そうすれば、 あなたのなすべきことが知らされる」 サウルというのは先ほど申し上げたように、ヘブライ人としてのパウロの 名前です。サウルと呼びかけたのは親しみを持った呼び名で呼ばれたと取 ることも可能です。ちょうど人が故郷に帰ったときに親しみをもってその 名を呼ぶように。しかし、私はこの呼び方に、もう一つの解釈があるので はないかと考えています。それは「サウル、サウル」という言葉が、シャ ウール、シャウール、ついてはシェオールシェオールという「闇、あるい は黄泉の国」を表すヘブライ語を見出すことができるということです。そ れはつまり、自分こそはただしい人間である、神の前に全くの光として生 きてきたと自負するパウロに対する、痛烈な批判です。だから、まことの 天からの光が彼に与えられたとき、彼は倒れざるを得ませんでした。なぜ なら彼は神の前に闇だったからです。彼は「シェオール、シェオール、闇 よ、闇よ」という神の呼びかけを聞いて、これまで自分の歩いてきた道の 振り返りと反省を余儀なくされたのではないでしょうか。実際にこの後、目は開きますが何も見えず、またダマスコに連れていかれながらも食べも 飲みもしませんでした。これは彼が悔い改めの断食の祈りの時を持ち、こ れまで生きてきた自分の人生の葬りの時、それがパウロにとって三日間 続いたとあります。イエス様が十字架の死より三日後に復活されたよう に、パウロもまたこの時に自らの義を追い求める、あるいは自らの義を他 者に認めさせていく人生の終結としての死を受け入れて、新しく生きよう としたということではないかと思います。 パウロはダマスコにおいて食べも飲みもせず、祈っているとき、アナニア という主の弟子に現れてこのように言われました。「立ってサウロを訪ね よ。今彼は祈っている。アナニアが入ってきて自分の上に手を置き、元通 り目が見えるようにしてくれるのを幻で見たのだ」しかし、アナニアは答 えます。「主よ、わたしはその人があなたの聖なるものたちに対してどんな 悪事を働いたか聞いています」しかし主はアナニアに命じます。「行け。あ の者は異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、 わたしが選んだ器である。私の名のためにどんなに彼が苦しまなくてはな らないかを、私は彼に示そう」 主なる神様は、迫害者であったパウロをあえて選びだし、ご自分の働きの ために召しだそうとされました。この時の出来事を、のちにパウロは使徒 言行録の22章、そして26章で自分の回心の出来事を語る記述がありま す。それは自分自身がどのようにしてキリストを受け入れていったのか、 あるいは自分がなぜ福音伝道者として立って行ったのかを語っていったと いうことです。自分で自分のことを話すと、少し話が変わったり、大きく なったりしますが、そのたぐいのことは聖書の中にも起きています。 かつて、リディア・ハンキンス先生が私たちの教会の協力牧師であられら とき、自分の救いの体験、回心の体験のあかしを三種類準備していなさ い、といわれていました。それは 1 分の証、五分の証、10 分の証を準備 しておき、時にかなって人々にキリスト者としての証を話すことができる ようにしておきなさいという勧めでした。 それではパウロが自分自身の回心の体験を、パウロが教会や信徒にあてた 手紙の中でどのように語っているかというと、それはただ一回、ガラテヤ の信徒への手紙の 116 節で言われている箇所がパウロの回心にあたる 箇所だと言われています。それはどのような言葉かというと、「御子をわた しに示して」という言葉です。パウロはこのように言います。「しかし、わ たしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださっ た神が、御心のままに、御子を私に示して、」とあります。パウロはその生 涯の始まりから神の計画のもとに召されていたという告白と共に、自分自 身の回心の体験が「御子イエス・キリストがわたしに(わたしに、とは私の うちにという意味です!)」示されたという体験をもって自分自身の回心の体験として語ります。しかも、その御子イエスの姿は、十字架にかけられ たままのイエスの姿(31)がパウロのうちに示されたのだとしています。 つまり迫害のゆえに痛んで弱って死んでいった十字架のイエスが、パウロ の心のうちに示されたということです。 パウロはこのすごすぎる回心の体験を、自分の手紙の中では回心を主題と して取り上げて話すことはほとんどありませんでした。それはなぜでしょ うか。それは、パウロがイエス様に出会って救われ、また回心できたとい う体験よりも、もっと幅広い意味で、律法の支配から主イエスの十字架に よって自由にされ、その神の愛と自由の中に生きていけるというよき知ら せのほうが、パウロにとってより重要だったからです。 ここでは思想の転換が起きています。今まで憎んでいたもの、嫌っていた もの、遠ざけよう、排除しようとしていたものが、十字架のイエスと出会 い、その新しい価値に気づくことができました。その出来事を、今日の使 徒言行録の中では、パウロの目から「うろこのようなものが落ちた」とさ れています。アナニアが主の言葉によって押し出されて迫害者パウロのた めにその神の言葉通り手を置いて祈ったとき、サウロの目からうろこのよ うなものが落ちました。 「兄弟サウル」という呼び名は、アナニアのパウロに対する深い愛情の呼 びかけです。かつて神がパウロに向けた「サウル」ではなく、「兄弟サウ ル」と呼びかけ、このものを受け入れようとするアナニアの呼びかけで す。その祈りの中で、聖霊で満たされるようにと祈られたとき、彼の心の 中にあった闇が聖霊によって満たされ、また彼の目を覆い防いでいたうろ このようなものが取れました。うろことは何でしょうか。それは真実なも のを妨げ、見えなくさせるものです。つまるところ、回心とは、彼が思い 込みで決めていたものからの解放の出来事であったのです。十字架とは呪 いではなく祝福であり、信仰とは守るものではなく、神の祝福と共にひた すらに与えられるものである。人の行いによるのではない、神からただ一 方的に注がれる恵みに気づく、という出来事でした。 神様は私たちの世界に満ちている闇に注視して、呼びかけてくださいま す。そして十字架のイエス・キリストとの出会いを通して、満ち溢れてい る神の大いなる恵みに気づかせてくださいます。私たちは周りの人々が、 そのうろこが取り除かれ、感謝と喜びのうちにともに支えあっていくこと ができるように、この闇の中で、ともに祈りましょう。

 

                                       主日礼拝2021年4月25()

 

「すべてを赦して生きていくために」   森 崇牧師

 

聖書の中で「赦す」という言葉が使われる時、それは私たちが日常で一般的に用いる「許す」とは違う言葉です。「許す」とは「許容する」という意味で、行為や言葉に対して容認するの意味で用いられます。これに対して「赦す」とはもっと幅広く、大きく、その出来事や存在そのものを受け入れるという事です。聖書では罪のゆるしが語られていますが、初期キリスト教では罪のゆるし、という時には、律法違反の罪―つまり数えらるいくつもの罪がイエスによってゆるされたのだ、とされていました。しかし、伝道者でり神学者でもあった使徒パウロは、その罪のゆるしを解くとき、その日常的に頻出するこまごまとした数えられる罪ではなく、もっと根本的な、数えることのできない根源的な罪がイエスによって赦されたのだ、赦されていると人々に伝えました。通常罪のゆるしには、何か代償が必要です。「ごめんなさい」「もうしません」「赦してください」などの謝罪の言葉や、場合によっては文章やあるいは賠償、贈り物を準備する必要があるかもしれません。ルカ福音書ではイエス様はこのように言われました。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(ルカ 173-4)これらの言葉には赦しが本人の悔い改めなしには起きないとされています。

しかしながら本日読まれましたイエス様とペトロのやり取りに対して、赦しの前提条件となるようなものは一切ありません。むしろ赦しへと向かって生きていくために、このように生きなさいという積極的な勧めを告げられています。

第一に、赦しへと向かって語りかけよと告げられます。人があなたに対して罪を犯すならば、まずは一人で言ってその人と対話せよ、と言われます。言う事を聞き入れられれば「兄弟(姉妹)を得る」とは、罪の状態のままで、赦しのない状態のままではその人は生きてはいない、罪という死の中にとどまっているという事でしょう。その人が死ななないために、一人でダメなら二三人、それでもだめなら教会に申し出なさい、と言われます。どんどん人が出てきたらこじれてしまうのではないかと思ってしまいますが、ここでの教会というワードは共同体、という意味です。福音書の中で教会という単語はマタイ福音書が二度使うのみです。「わたしはこの岩の上に私の教会を建てる。…あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは天上でも解かれる」(マタイ1618)とありますが、赦しを実践していくために、教会という共同体が必要であることを言われています。「つなぐ/解く」とはユダヤ教では「禁止する/許可する」の意味ですが、ここでは「罪ありとすること/赦すこと」として語られます。重要なことは、私たちが地上で赦すことのないのであれば、その人は天上でも赦されないということです。地上と天上はつながっているのです。

赦しを実践して生きていく第二のポイントは祈りです。19.20節の聖句で、イエスのみ名による祈りの中のイエスの存在の宣言に励まされる方も多いと思いますが、その中の二人は誰なのでしょうか。私はこの二人は最初の二人、罪を犯した人と赦そうとする二人と捉えたいと思います。被害者と加害者が共に祈る場が教会です。

「はっきり言っておく」「アーメンわたしはあなたに言う」というイエスの前持った大切な宣言は1819節でくり返されますが、一つはこの地上での赦しが天の国においてもつながっているという、この地上の生の重さが語られ、一方では心を一つにした祈りが求められています。赦しには祈りが必要です。その心とは何かというと、マタイ18章で他に四回記される「心」です。「心を入れ替えて子どものようにならなければ決して天の国に入ることは出来ない」(3)「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14)「仲間たちは、ことの次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた」(30)「あなたがたの一人一人が心から兄弟(姉妹)を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう」(35)私たちがそれらの心を受け継ぎ、どこまでも無限に赦された者/赦す者として歩むことが出来ますように。

 

     主日礼拝2021年4月18()

 

「私と一緒に喜んでください」   才藤千津子協力牧師

  

今日の聖書の箇所ルカによる福音書15章1〜7節「見失った羊」のたとえ話は、イエスは、そして神は、失われた人を見つけ出して救うのに、どれほど深く配慮するか、そして見つければどれほど大きな喜びとするかというお話です。そして、そのことを象徴的に表す言葉として、15:6の「一緒に喜んでください」という言葉が印象的です。失われた羊が見つかった時には、友人や隣人を喜びの食卓へと招き、ともに喜びを分かち合う、そのような羊飼いの姿にイエスはご自分の姿を託しておられ、また神の愛とはそのようなものだと伝えようとされています。

さて、このたとえ話は、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」(15:1)という言葉で始まります。イエスが生きた時代、徴税人は、支配者ローマ帝国の手先となって自分の民から税金を取り上げ、まるで泥棒のようにそれをくすねて腹を肥やしているとされていました。また、罪人とは神の敵対者、律法を知らない、守らない人々で、「地の民」と呼ばれていました。そして、徴税人や罪人たちは決して神の国に入れないというのが律法の専門家たちの見解でした。しかし、徴税人や罪人とされた人たちは、自分たちをも歓迎するかのようなイエスの話を聞いているうちに、もしかしたら自分たちも神の国に入れるのではないかと思うようになったのではないでしょうか。そこで彼らはもっとイエスの話を聞こうと、近寄って来て熱心に耳を傾けようとしたのです。

すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、イエスは罪人たちを受け入れて、食事まで一緒にしている」と文句を言いました。(15:2)これに似た話は、ルカ5:29〜32の徴税人レビの家での宴会の話にも出てきます。そこでは、イエスに従った徴税人レビの家でイエスが食事をしているのに対して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが同じように文句をつけました。それに対して、イエスは、「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と答えたとされています。イエスは、イエスが「罪人たちを迎えて食事まで共にしている」と批判した「ファリサイ派の人々や律法学者たち」をいわゆる「正しい人」、すなわち、「自分は正しいとうぬぼれて、他人を見下している人」と皮肉を込めて批判したようにとれる一節です。その意味で、今日の箇所も、「悔い改める必要のない正しい人」(15:7)を「ファリサイ派の人々や律法学者たち」として読むとすれば、同じように「ファリサイ派の人々や律法学者たち」を批判され皮肉られたのだと理解することもできるでしょう。しかし、今日は、少し違う観点から読んでみたいと思います。

イエスは、彼らに対して次のたとえを話されました。「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(15:4) 実は、この部分はマタイによる福音書18章にもありますが、そこでは「迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」(1812)とあり、「迷い出た羊」はマイナスに評価されており、マタイの視点は「山(聖域)に残された九十九匹」にあります。しかし、ルカでは、羊は「見失われた」だけであり、その一匹の羊への批判的な視線は感じられません。九十九匹の大切な羊たちを野原(共同訳では荒れ野)に残すのは理不尽かもしれませんだが、羊飼いの「一匹」への心配はそれに増します。このようなイエスのたとえ話は、宗教的・社会的に差別されていた「一匹の羊」=「罪人」(とされていた人々)にとっては大きな喜びだったでしょう。

では、「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にとっては、どうだったでしょうか。この場面に描かれた律法学者・ファリサイ派の人々は、自らを正しいと思って「徴税人や罪人」と自分を区別し、彼らを批判していました。その意味で、彼らは、一匹の羊が見出されたことをともに喜ぶことができません。その意味で、「罪人」とされた人たちたとともに食卓について喜びの時を過ごしておられるイエスからは、ほど遠いところに立っていたのです。さて、イエスは、彼らに何を伝えようとされたのでしょうか。彼らにとって、そして私たちにとって、イエスの言葉はどんな意味を持つのでしょうか。今日はそのことをみなさんと考えてみたいと思います。

 

 

 

 

 

主日礼拝2021年4月11()

「私たちの使命と臨在の主イエス」   森 崇牧師

 

多くのキリスト教を信じる信仰者たちはイエス様の十字架と復活を信じていらっしゃると思います。それは信仰の基準だという理解を持っておられる方が多いと思います。平尾教会の信仰告白の中に、その序として「私たちは聖書を神によるものと信じてこれを信仰の基準といたします。この信仰告白は、何人の信仰をも制限することなく、あかしとして又、励ましとしてこれを宣言いたします」とあります。即ちこれは、どのように聖書を読んでまたどのように理解し、信じるか、一人ひとりの立場を徹底的に尊重します、という事です。本当に素晴らしい私たちの教会の宝と言える信仰告白だと思います。

イエス様は今日の聖書の箇所で復活者としてご自身の姿を、十字架のあったエルサレムから離れ、ガリラヤの山で十一人の弟子たちの前に顕します。彼らは復活者イエスと再開し、ひれ伏します。しかし弟子たちの中には疑う者もいました。この疑いという言葉は大切にしたい言葉です。復活者が目の前にいながらも、それが本当にあのイエス様なのか、あるいは本当に復活されて生きておられるのか、これは幻ではないかとそのような疑いがそこにはあったという事です。弟子たちが集まったガリラヤとは、十字架前のイエスが指定しておかれた場所であり、十字架において躓いた弟子たちの癒しと解放の場所として前もって用意されていました(2632)。ガリラヤとはイエス様の出身地(2111)で在り、かつ弟子たちがイエス様と初めて出会った場所(418)でした。イエス様が指示しておかれた山とはどのような山であったかは定かではありません。しかし、この固有名詞がない山は、私たちに復活者イエス様と出会う山があるのだと伝えてくれています。復活者がおられる、十字架の躓きからの復活の山とは、教会の事です。教会において復活者イエス様と出会い、またそこにおいて新しい命と新しい使命に生きることが出来ます。イエス様の使命に生きようとする教会の目標はすべての人にイエスの弟子となって頂くことです。それは出て行って神の善き知らせを語り伝えるという外に向かう働きと共に、弟子となったものは更に信仰の成長を求めて深めていく、内に向かう二つの働きが必要です。「だからあなたがたは入ってすべての民をわたしの弟子にしなさい」とは外に向かっていく伝道を指し、また信じた人々に神の子として迎える浸礼(バプテスマ)を施し、共に神の家族として生き(交わり)、聖書の御言葉に生きることが出来るように教え育てる教育が教会の果たすべき使命として、復活者イエス様によって語られていきます。その大宣教命令の中心には「父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け」とありますが、父と子と聖霊の権威によって受けるのではなく、むしろ父と子と聖霊の名に向かって生きるために洗礼を施しなさいと言われます。洗礼とは、受けるその人の生涯が、今からはまったく神によって生かされ/神に向かって生きるという事を顕しています。

マタイによる福音書の最後は、復活の山でその福音書を閉じます。この後の活動は使徒言行録によって弟子たちのイエスの名による宣教活動を記していきますが、復活の山におけるイエス様の使命の宣言でこの福音書の幕は閉じられます。マタイ福音書では要所で山が存在しています。小高い丘のような山でイエス様がこのように生きなさいと勧めた山上の説教から始まり、イエス様の活動を支えた霊的な祈りの時をなした海辺近くの山、多くの病人を癒し、また4000人の給食をなしたガリラヤの山、イエスが神の子としての栄光を大いに顕した非常に高い山、また十字架にかかる前に弟子たちと過ごされ、祈られたのもオリーブ山でした。大小様々な山があり、イエスの弟子たちには思い出深い山の記憶です。それらの話の中には、「イエス様が山を降りられると、大勢の群衆が従った」(81)とあります。山を降りられるイエスに従う人々がいました。しかし、復活の山においてはそうではありません。信/不信を抱えつつ、復活後にイエスの使命を受けて遣わされていく人々には、復活者イエスがいつも、伴われるのです。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と主イエスは約束してくださいます。神の独り子としてこの地上に下りてきてくださった方は、イエスの洗礼によって罪人とされた人々と共に生きる連帯を示してくださり、最も低いものとされ、十字架を乗り越えて復活の御身体を持ってなお、世の終わりまで私たちに伴われます。

 

 

 

                    主日礼拝2021年 4月4日()     

         「復活の希望に向おう    森 崇牧師

 

救い主イエス様の復活を世界中のキリストを信じる人々共に心から喜び祝います。今日は「復活の希望に向かおう」というテーマでお話をしようと思います。復活とは何か、というとまず第一に、救い主イエスから始まった希望です。全ての人はその罪のゆえに死ななければなりませんでしたが、救い主イエスがこの地上に来られて初めて、その復活の命をこの地球上で顕してくださいました。それは死からよみがえったという以上のものです。復活とはキリストを信じる者に与えられる新しい命のことです。新約聖書は復活についてローマの信徒への手紙の中でこのように告げます。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊があなた方のうちに宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(811)復活について大切なことは、ひとつにキリストは神によってよみがえらされた、即ち神がイエスを復活させたという点です。イエス様がスーパーマンのように一人で蘇ったのではなく、神の愛をこの世で全うし、その生き方のゆえに十字架にまでお架かりになったこの人を、神はよみがえらされました。その神やイエスを信じる信仰のゆえに、私たちも復活させられることを信じ望みながら生きる、それが復活の希望です。

第二に、キリストの復活とは何かというと、キリストの十字架がすべての人々の滅びの死を引き受けるものであるならば、復活はすべての人々が神の子として生きる希望を与えたという事です。コリントの信徒への手紙二/ 515節「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」とあります。復活とは、私たちが神の子として喜びを持ち、イキイキと生きることができ希望です。

さて、今日の聖書の箇所で復活の希望に向かって生きるとは3つの大切な事柄を教えられるように思います。ひとつは、復活に生きるとはかすかな希望を抱きつつ生きるという事です。日曜日の朝、二人のマリアは「墓を見に行き」ます。他の福音書ではイエスの亡骸に油を塗るために行くのですが、マタイでは違います。「復活する」という事態を防ぐかのように墓には番兵が立てられ、その警備は厳重でした。過去マグダラのマリアはイエスに高価な香油をイエスの埋葬の前準備として振りかけました。そんなマリアたちが墓に行く理由は、復活されると言われていていた方がどのようになったのか、疑いつつも、少し信じつつも、墓に行ったのです。そこが復活の始まりです。神の顕現のしるしとして大きな地震が置き、またイエスの誕生と復活の時に(のみ)現れた主のみ使いが石をどかします。その場にいたローマ兵は死人のようになります。何もわからないものとなったという事でしょう。しかし婦人たちは微かな復活への希望のゆえに、生ける神のみ声を聞くことになります。ふたつめに、復活の希望に生きるとは、「神によみがえらせて頂く」ということです。イエスさまが十字架や死に対して全く無力であったように、わたしたちも自分の力や計画、能力によって生きるのではなく、全く神により、神にのみ生きるという事です。女性たちはみ使いとの出会いにより、復活を告げられ、復活の使者とされます。「恐れるな、十字架につけられたイエスはここにはおられない。彼は復活された。遺体の置いてあった場所を見よ。そして急いで行って弟子たちに告げなさい。あの方は死者の中から復活された。そしてあなたがたより先にガリラヤにいかれる。そこでお目にかかれる」復活の希望は男性から始まったのではなく弱くされていた女性/人々から始まります。

 

みっつめのことは、復活の希望に生きるとは恐れながらも信仰に生きるという事です。婦人たちはみ使いの復活の知らせを聞いて「恐れながらも大いに喜び…知らせるために走っていった」とあります。すると行く先にイエス様が立って「おはよう」と挨拶されました。かつてイエス様の誕生の際に東方の博士たちがひれ伏して幼子を拝んだように、この女性たちも復活者イエスを伏し拝みます。復活のイエス様との出会は、イエスの復活を恐れながらも信じてよろこび、走りだした、その先にあります。イエスの復活を信じて歩む者には、復活者イエスとの出会いが備えられ、伏し拝む礼拝の場がそこにはあります。沈黙の墓はイエスの復活によって命の喜びの知らせを告げる場所となるのです。

 

主日礼拝2021328()

 

「弱さのゆえに十字架に?」   青野太潮協力牧師

今週は、イエス・キリストの受難を記念する受難週です。今週の金曜日の326日が、イエスの受難日です。イエスが十字架上で処刑された日は、今日の太陽暦に従って言えば、ほぼ確実に、西暦30年の47日のことであったことが判明しています。この日付は、いつも私が繰り返して言っておりますように、ヨハネ福音書の証言にしたがって推定されたものでありまして、マルコ、マタイ、ルカの、いわゆる「共観福音書」と呼ばれる三つの福音書の証言とは、一日だけズレております。すなわち、ヨハネ福音書は、イエスが十字架刑に処せられたのは、ユダヤ人たちの最大の祭であります「過越しの祭」が始まる日――それはユダヤ暦の一月を意味するニサンの月の、ちょうどその真ん中の15日なのですが――よりも一日前の、「準備の日」であったと繰り返し語っているのですが(1914節、31節、42節)、そうだとしますと、その「準備の日」は、ユダヤ暦のニサンの月の14日のことであったことになります。しかし4つの福音書はすべて、イエスが十字架につけられた日は金曜日であったと記していますので、「準備の日」であるそのニサンの月の14日が金曜日であった年を古代のユダヤ暦のなかに探してみますと、ちょうど西暦の30年がその年であったことがわかるのです。そしてニサンの月の14日は、太陽暦の47日だったこともわかるのです。共観福音書が証言する過越しの祭の第一日目、すなわち、ニサンの月の15日が金曜日であった年を、同じようにして同時のユダヤの暦の中に探してみますと、西暦の27年がそうであったということがわかるのですが、ヨハネ福音書の証言に基づく西暦の30年と比べますと、27年では種々の観点からして少し早すぎるという理由から、27年がイエスの十字架刑の日付であった蓋然性は、やはりかなり低いだろうということになります。
さて、金曜日であるイエスの受難日のあとの、土曜日を経た日曜日は、イエスの復活を記念するイースター、復活日、復活祭、として、キリスト教会では覚えられているのでありますが、毎年毎年のイースターの日付はどのようにして決めるのか、というその決め方は、次のようになっています。すなわち、<イースターは、「春分の日」よりも後の「満月」の後にくる最初の日曜日とする。> なぜ「春分の日」よりも後でなければいけないのか、と言いますと、「春分の日」はユダヤの暦においては、一年の始まりを意味するからです。ただし、一年の始まりだからと言って、いつもいつも「春分の日」が一月一日となる、というわけではありません。なぜならば、ユダヤの暦は太陰暦で、月の満ち欠けによって暦が成り立っているわけですが、月の始めは、新月が夜の空に現われた日とすることが決まっているからです。ですから、「春分の日」に一番近い新月の日が、一月一日、つまりニサンの月の一日ということになるのです。
地球から見て、月が太陽と同じ方向にあって、月の暗い反面を地球に向けていた夜、つまり月の見えない暗い夜、が破られて、細長い形をした新月が姿を現わしたときに、ユダヤの神殿の一角から月の現われるのを今か今かと待っていた監視役の者は、細長いラッパを吹き鳴らして、新しい月が新月によって始まったということを、エルサレムの全市に知らせました。天候の具合で月が見えなかったときには、後日、月が初めて姿を現わした時の大きさから、いつ新月が見え始めたのかを判別しましたが、経験則からして、特別困るようなことはなかったと思われます。
ではイースターは、 なぜ「満月」のあとの日曜日なのでしょうか。それは、上で述べました「過越しの祭」が始まるニサンの月の15日が満月の夜だからです。太陰暦ではひと月は29日半くらいなのですが、その真ん中の日である15日は、いつでも満月の日なのです。詩篇81編の24節には、「わたしたちの力の神に向かって喜び歌い/ヤコブの神に向かって喜びの叫びをあげよ。ほめ歌を高くうたい、太鼓を打ち鳴らし/琴と竪琴を美しく奏でよ。角笛を吹き鳴らせ/新月、満月、わたしたちの祭りの日に。これはイスラエルに対する掟/ヤコブの神が命じられたこと。(その神が)エジプトの地を攻められたとき/ヨセフに授けられた定め。」とあります。「新月、満月、祭りの日」が、ユダヤ人にとっていかに大切な日であったがよくわかります。
 こうした基礎知識の上に立って、パウロがイエスの十字架の受難をどう捉えていたのかについて、ご一緒に考えて見ましょう。

                             主日礼拝2021年 3月21日()     

      「イエスさまの祈り    原田仰神学生 

本日の箇所はイエス様が弟子たちと一緒にゲッセマネに行かれ、祈られるという有名な箇所です。イエス様は、御自分を殺そうしている人たちが動き出していることを悟り、それがいよいよすぐそこまで迫っていることをご存知でした。イエス様は弟子たちに座って待っているようにと言われました。そしてペトロとゼベダイの子二人と共に、祈りに行きました。その時です。イエス様はその三人に「わたしは死ぬばかりに悲しい」とご自分の心の内を明らかにされます。あのイエス様がご自分の弱さを明らかにされました。そしてイエス様は弟子たちに言います。「ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」しかし、その後弟子たちは眠気に耐えられず眠ってしまいます。その後のやり取りを見たとき、ここでのイエス様の言葉は弟子たちを試したとも取れるかもしれません。そのように考えると、弟子たちは眠ってしまい、誘惑に打ち勝つことができなかったので、イエス様はそんな弟子たちに呆れてしまったという意味になるでしょう。このゲッセマネの山における弟子たちとイエス様のやり取りには、特にマタイによる福音書におけるこの場面にはもっと意味が込められているのではないかと思います。

 イエス様は「共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに言われた後、その場から少し進んだ先で神様に三度祈られたことが聖書には語られています。特に一度目のイエス様の祈りはとても苦しみに満ちています。イエス様が「共に目を覚ましていなさい」と言われたのは、弟子たちにこの苦しみを知ってほしかった。分かち合ってほしかったのではないかとも思います。しかし、弟子たちはそのようなイエス様の苦しみを理解できず、眠ってしまったのです。イエス様は眠っている弟子たちに言います。「わずか一時でも、共に目を覚ましていられなかったのか。」と、続けて「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われます。というのも、ここにいた弟子のひとりであるペテロはここに来る前に、イエス様に向かい「みんながあなたに躓いても、わたしは決して躓きません。」と宣言していました。しかし、ペトロは既にここにおいて躓いてしまっていたのです。イエス様は二度目にペトロたちが寝ているのを見たときにはもう何も言われませんでした。最後の言葉「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」この時をもって、イエス様と弟子たちはイエス様が十字架によって死ぬまで、離れ離れです。イエス様に一生ついていくと、運命を共にしようと思っていただろう弟子たちは、このゲッセマネで少しずつイエス様から離れてしまっていました。イエス様を1人にしてしまったのです。弟子たちは最初のイエス様の信者です。それだけに私たち信仰者の弱さをも同時に持ち合わせていると言えるでしょう。どんなに心を燃やしても、心をはやらせても、誘惑に負けイエス様から、目の前で苦しんでいる人から離れてしまう時があるでしょう。イエス様はそんな私たちの弱さをもご存知です。だからこそ、イエス様がこう祈りなさいと言われた主の祈りの中には「わたしたちを誘惑にあわせず、悪いものから救ってください」という祈りがあるのでしょう。

また、イエス様がゲッセマネにおいて最も強く祈られたのは「御心のままに」でした。神様の御心が行われることを何よりも優先して願われたのです。これも主の祈りにおける「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」に対応しています。ここで重要なことは、神様の御心とは「イエス様の苦しみ」ではないということです。むしろ神様は人々が苦しみからの解放されることを望んでおられます。だからこそ、イエス様自身も率先して苦しむものに関わってこられました。その中でイエス様は苦しみの根元に対して抵抗し、それ故に権力者たちから反感を買いました。つまり「これからも苦しむ者と共にあり続けよ」ということこそが、神様の御心であり、イエス様の前に置かれた杯です。その杯を受けたイエス様の歩みをわたしたちは知っています。そして今、イエス様は「インマヌエル」として私たちと共におられるのです。

       主日礼拝2021年 3月7日()     

      「即ち、我に為したるなり」  森 崇牧師

 

昨年の子どもクリスマスは、靴屋のマルティンの映画をみんなで見ました。靴屋のマルティンは妻にも子供にも先立たれ、人生に希望を失い、飲んだくれの生活を送っていました。荒くれた人間関係の中におりましたが、ある時町の牧師さんが訪ねて来、聖書を紐解かれました。その晩マルティンは夢で神様と出会います。「マルティン、マルティン、明日私はあなたのところを訪ねよう」マルティンは翌日から神様を迎える備えをしますが、一向に現れません。一日中、待ちに待ったその晩、神様は夢でマルティンに現れて言います。「実は今日、あなたが病で倒れたおじいちゃんに親切にしたとき、わたしもそこにいたのだよ。実は今日、貧しい母と乳飲み子にミルクを分けてあげたのは私にしてくれたことなのだよ。実は今日、リンゴを盗んだ少年の代わりに支払ってくれた時、いたのは私なのだよ」マルティンは神様の存在に全く気付きませんでしたが、出会った人々の親切にした中に神様がおられたという事で、マルティンのこころは慰められ、励まされ、マルティンは明るく朗らかに生きることができるようになりました。そのような話です。いうまでもなく、今日の聖書個所を作者トルストイは子供に分かるようなストーリーへと変化させました。そこにはいわゆる終末の時の裁きという視点は語られません。それは子供に語っても分からない、という理由だったのではなく、トルストイが注目したことは、実際に大切なのは生きている今であり、今目の前に置かれている現実の中に、そして苦しむ者の中に、神は共にいて下さるという事だったに違いないと思います。

マタイによる福音書24-25章は終末についての大講和が語られます。戦争や飢饉や地震などの苦しみに加え、多くの人々の愛が冷える中で躓きや裏切りや憎しみが起こります。しかし、その中でこの苦しみの時の圧縮(24:22)と、人の子イエスの到来こそ天の国の完全な実現なのだと語られます。その時はいつ来るかは分からないけれども、とにかく目を覚ましていること(24:43,25:1-13)、与えられた時や賜物を生かして神の時の実現に備えることが語られます。今日の聖書個所は、再臨の時にすべての人々が集められ、神様の羊とされた群れと、そうではなかった山羊が集められ、分けられます。私たちの現実がどちらであったかどうか否定的に問う必要はありません。それはこれから自分の人生に反映すればよいだけのことです。王は「天地創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい」と言われます。天の国とはご褒美として与えられるものではなく、天地の起こり、世の初めから用意されているものなのです。王とされる救い主イエスは最初から栄光の王座に座ったままの存在ではなく、実はこの以前には、この地上の飢え、渇き、よそ者、無一文、病、罪の只中におられる方です。かつて東日本大震災で被災し、津波の洗礼を受けた聖書として出版されるに至った山浦玄嗣さんの訳によれば「この最も小さな兄弟の一人」とは「このまったくとるにも足らない者どもの一人であっても、私にとっては兄弟だ。それにしてくれたとはわたしにしてくれたと同じことなのだ」(『ガリラヤのイエシュー』)としています。

終末時の人の子の到来、とは遠い未来に起こるわけではありません。マタイ福音書によれば、現在生きている今こそが終末の到来であり、同時に神の国の到来です。人の子の再臨が、このような形で最も苦しむ者の苦しみと共に在ることを示されるのであれば、どれほどの慰めと励ましがあるでしょうか。

実は私たちが今まで見てきた終末の到来とは、十字架のイエスにおいて貫徹しています。イエスご自身は十字架に至る苦難の道行の中で、何一つご自身のために奇跡のわざを行われず、されるがままの苦しみを受けられました。「十字架から降りて来い」(27:40,42)とはこの受難/苦難/絶望から逃れてみよ、との言葉でした。しかしそのイエスの十字架において、全世界の暗黒は到来し、神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、墓が開き、聖なる者たちの体が蘇りました。これらのしるしはまさに終末のしるしはイエスにおいて顕されたのだという事です。イエスさまはそのような十字架を背負って、今の時を生きておられます。それは私たちの苦難と絶望を一心に受けられるイエスさまです。私たちは、救い主み子イエスに顕された神の愛と救いを先に与えられつつ、終末の時代にあってそのようなイエスさまを探しつつ、神の愛に生きていきましょう。

 

                            主日礼拝2021年 3月7日()

 

                           「だから、目を覚ましていなさい」  森 崇牧師

 

皆さんは終末という言葉を聞くと何を連想されるでしょうか。ある人は週末と聞いて金曜日や土曜日の事ね、と思われるでしょう。キリスト教を齧ったことのあるかたは、この世の終わりの事ね、と思われるでしょう。ですが、キリスト教で言う終末とは単なるこの世の終わりの事ではなく、キリストの来臨、再臨の事です。マタイによる福音書では24-25章にかけて終末に関するイエスの説教が収められています。イエス様曰く、この世の終わりのしるしとして、自分が救い主だという者の出現や、戦争や飢饉や地震などが起こるが、それは生みの苦しみの始まりであって世の終わりではない、と言われます。世の終わりには艱難や殺害や、信仰の躓き、社会に不法がはびこることなど、苦しみの時代が長く続くことを告げられますが、いわゆるこれらの最後の艱難の時は、厳しすぎて誰も生き残れない。だから「神がその期間を縮めて下さらなければ、誰一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのためにその期間を縮めて下さるであろう」(24:22)と言われます。そして、その後にイエスさまが再臨なさるのです。神の苦難の時の圧縮と、キリストの再臨、これが終末の時の福音、良い知らせです。

終末に関するイエスの説教の中核は二つあります。24章13-14節にある「最後まで耐え忍ぶものは救われる。」と、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから終わりが来る」です。このふたつのメッセージは34節にある終末の接近の言葉「アーメン、すべてのことが起こるまでは過ぎゆかない。天地は過行くが、わたしの言葉は決して過ぎゆかない」というみ言葉の宣言を挟む形で次のように展開されます。すなわち、「最後まで耐え忍ぶもの」とは「使命に対して忠実な僕として」(45-51)、「御国のこの福音」とは天の国のたとえとして「十人の乙女のたとえ」「タラントンのたとえ」(25:1,14)として展開されます。ですから御国のこの福音とは、端的に言えば、「常に主イエスの再臨に向けて備えておくならば、誰でも天の国の祝宴に預かれる」(25:1-13)ということと、「与えられた賜物を用いてこの世で実践して行くときには、倍の祝福が備えられる」(25:14-30)という事です。

本日の聖書個所は花婿を迎える10人のおとめのたとえです。当時の結婚式は雨季を避ける形で夏に行われ、花婿が親族の家を涼しい夕方に練り歩き、夜に結婚式と祝宴が行われていました。結婚式で迎えるおとめたちは花嫁ではなく、結婚式を支える大切な役割を持ったおとめたちでした。夜、松明を持たない女性は怪しい女性とされ、夜松明によって顔が輝いていない女性は不名誉なことでした。花婿の到着が遅れるにつれて、おとめたちは眠りこけてしまいました。夜警(ものみ)らが叫びます。「起きよ、備えよ、おとめら」と。それぞれのおとめらはともしびを整えますが、油の準備できていなかったおとめらは自分たちの火が長い婚宴の時には婚宴には不十分であることに気づき、油を持っていた女性たちに分けてもらうよう頼み込みますが、それはあえなく断られます。婚宴が成立しないことの方がありえないからです。結局油を買いに行かざるを得なくなったおとめらは遅れて入ろうとしますが、「はっきり言っておまえたちのことなど知らん」と婚宴のマスターに一蹴されてしまいます。

ここでの花婿とはイエスさまの事です。過去旧約聖書では神の民イスラエルが花嫁、神が花婿という関係がありました(イザヤ62:5)が、教会は花嫁、花婿はイエスさまです。イエスさまがいつ来られてもいいように備えをしておくのが大切です。救い主イエスを迎えるためのともしび、松明とは何かというと、聖書のみ言葉だと私は思います(詩篇119:105)。それでは油とは何でしょうか。聖霊の油注ぎという言葉があるように、油とは「信仰」と言えます。かつてイエスの葬りの準備をしたマグダラのマリアはイエスの頭に香油を注ぎました。油とは、その人自身、、あるいは油とは惜しみない奉仕、あるいは油とは献身をも意味するでしょう。わたしたちはどの油をもって主イエスを迎えますでしょうか。あぶらがない、「ああ、あぶら(な)かった…」という事態はぜひ避けたいものです。

 

 

                               主日礼拝2021年2月28日()

 

  ホサナ、ホサナ‐どうか、救ってください‐  森 崇 牧師      

 

ホサナ、とはヘブライ語で「どうか、救ってください」との意味です。アーメン、ハレルヤ、ホサナは聖書中によく出てくる三大へブライ語の一つですが、旧約聖書中に「ホサナ」という言葉を見いだした人はいないと思います。それはなぜかというと、「どうか主よ、私たちに救いを」(詩篇118:25)とあるように救いを願う言葉として訳されているからです。だからホサナという言葉は聖書の中で新約聖書中、マタイ・マルコ・ヨハネ福音書の中にしか出てきません。そしてそれは救い主イエスを迎え入れるときにのみ使われる言葉です。

ホサナ、とは救い主イエスを迎え入れる声です。今日の聖書個所ではいよいよイエス様が12人の弟子たちと共にエルサレムに入場しようとされます。イエスさまは二人の弟子たちに使いを出し、ころばを引いてくるように命じられました。そして誰かに何か言われたら「主がお入り用なのです」と言いなさい、と伝えました。誰かが勝手に何かを持っていけばそれは窃盗になりますが、「主がお入り用なのです」と言われる時には、それはすでに主のものとされています。ろば、とは人々の生活に必要不可欠なものでした。ものを運んだり、移動したりするときの大切な動物です。ころばとは、ロバに体力は劣りますが、それでも荷を負うほどの役割を担っていました。小さく弱いというイメージを持ちますが、実際は違います。人ひとり、背負って歩くことがころばにはできるのです。弟子たちはイエス様の命令の意図がよく分からずに、ろばところばの両方を引いてきます。そしてイエス様が乘られるために、自分の服をかけると、イエスさまはお乗りになられて入場されたのでした。イエスの命令に対して6節では「命じられたとおりにした」とありますが、マタイ福音書ではイエスの人生の大切な要所でこの言葉を用います。イエスの誕生(1:24)、エルサレム入場(21:6)、主の晩餐(26:19)、死と復活(28:15)の4回です。ここで必要不可欠なころばが主によって召しだされ、用いられたという事でしょうか。

大勢の群衆は自分の服も道にひき、また別の人は木の枝を切って道に敷きました。かつて王を新しく迎えるときになされたこと(王下9:13)が、救い主イエスをエルサレムに迎え入れるときになされたのです。その行為は、自分の上に立って何事かを行っていただきたいとの期待の表れでもあったと思います。この時の人々の願いとはローマ軍によって支配占領搾取されていた抑圧から救ってくれる政治的リーダーの役割を求めていましたが、イエスさまは所謂軍馬に乗ることではなく、平和と非暴力の象徴的な存在である、ころばにまたがってエルサレムへの入場を果たしたのでした。彼は「柔和な方」(5)でした。柔和とは重荷を負い、しなやかであること、そして人々の労苦を共に負うこと(12:29)を意味します。ホサナ、どうか救ってください、と叫ぶその声を一身に受けて、無言のままで十字架へと続いていくエルサレムの門を潜っていくイエスは、すべての叫びを一心に受けられるイエスさまです。

かつて私たちも「ホサナーどうか救ってくださいー」と叫んだことがありましたし、今その叫びを叫んでいる人は世界中にいるのだと思います。新型コロナウイルスの影響により、多くのことを断念させられる事態になってきています。そのような中で「どうか助けてください」と叫ぶばかりではなく、キリストに望みを置くものは、「救って下さるこの方に栄光がありますように」と祈りたいと思います。詩編にはこのようにあります。「どうか主よ、わたしたちに救いを。どうか主よ、わたしたちに栄えを。祝福あれ、主の御名によって来る人に…」118:25-26a。聖書はいつもホサナと叫ぶ者に必要な救いと助けを備えて下さる方です。その確信があるからこそ、どうか救ってくださいと同時に、この方の祝福をも祈っています。私たちも同じように救い/助け/支えの祈りと同時に、この方の祝福/恵み/栄光を祈るものでありたいと願います。そのうえで、再び力強くホサナ!と叫びましょう。

       主日礼拝2021年2月21日()

 

     『自分の場を離れる』 才藤千津子協力牧師

 

 

先週の水曜日、いわゆる「灰の水曜日」と言われる日から復活祭(イースター)の前日までを四旬節(レント)と言います。イエス・キリストの死に至るまでの受難について思い起こし、共に復活に預かるように心の準備をする期間です。

今日は、四旬節の最初の主日ですので、聖書箇所もイエスがご自分の苦難を予言される場面に入ります。今日の聖書箇所の前段(マタイ16:13〜19)では、弟子ペトロがイエスはメシア(救い主)であると告白する場面が描かれています。イエスが、「それではあなた方は私を何者だと言うのか」と弟子たちに問いかけますと、ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です。」と言うのです。(16:16)「生ける神の子」とは、マタイ福音書だけが記すペトロの信仰告白の言葉です。イエスが生きた当時のユダヤ社会はローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝は自分を「神の子」と呼ばせていました。しかしここでは、イエスはそのような政治権力を持つ「神の子」ではなく、ペトロは、それに拮抗するような意味で「人々にいのちを与える生ける神の子」だと答えたとされています。

ペトロのこの告白は、イエスがご自分の受難を弟子たちに予告するきっかけになりました。これ以降、このエピソードをクライマックスとするかのように、イエスの活動は自分の死へと向かって行きます。その意味で、このエピソードは、イエスの生涯が苦難という新しい段階に入った時として描かれており、イエスのガリラヤでの宣教とエルサレムでの受難との間の転換点となっています。

 さて、今日の聖書箇所(マタイ16:21〜28)です。「このときから、イエス・キリストは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。』」(マタイ16:21-22)イエスはご自分が受けなければならない十字架上の苦難という使命について弟子たちに打ち明けましたが、ペトロはそれを理解しませんでした。

ペトロは、この世で成功裏に自分たちを救ってくれるイエスを期待していたのかもしれません。そうだとしたら、ペトロは、イエス「生ける神の子」と告白し、イエスに従うと言いながら、実は自分の頭で理想化したイエスを見ようとしていたようです。ペトロは、当時の人々が持っていた「常識」の上に立って、「自分の立ち位置」から離れることができなかった。そんなペトロに、イエスは強い揺さぶりをかけられます。 「イエスは振り向いてペトロに言われた。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。』(マタイ16:23)イエスは、ペトロが人間的な誘惑に陥っていることを鋭く指摘されました。イエスは、神に信頼し、徹底的に愛に生きることを人々に教えました。イエスの生涯を辿れば、イエスが何を教えようとされていたかがよくわかります。イエスの周りには、いつも、当時差別の対象であった病気や貧困に苦しんでいた人々、徴税人として人々から嫌われていた人、売春婦だと非難されていた人がいました。そのようなイエスの生き方は、当時の一般的な常識とは大きく異なるものであり、この世的に見れば、成功しない、役に立たない、弱くて負けているとも見える生き方でした。イエスは、愛に生きる時、私たちが「常識」だと思っていることからは離れることになるのだと人々に教え、それゆえに迫害されたのでした。

今私たちはコロナ危機の中を生きていますが、その中で私たちは、これまでの自分たちの「常識」が通用しない、「価値観」が通用しないと言う大きな不安の中にいるのではないでしょうか。常識や思い込みに生きることは安全でもありますが、私たちの目を曇らせもします。むしろ、現在のように「危機」に陥った時にこそ、常識や思い込みという「自分の安全な場所」を離れ、私たちの「いのち」にとってもっとも大切なものは何かということに目が開かれる機会なのではないでしょうか。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マタイ16:24) レントを迎えた今、私たちにも、イエスに従って行く生き方とはどういうものかが改めて問われています。

 

                   主日礼拝2021年2月14日()

 

                    『福音を種蒔く教会』  森 崇牧師

 

今日は会堂改修感謝礼拝を共にしています。本来私達はこの2月の第二週の礼拝を会堂感謝礼拝として、平尾/大名会堂が与えられていることを感謝する礼拝の時を持っておりますが、今年は去年行われた平尾教会の会堂改修をメインに覚えて、会堂改修感謝礼拝としています。さて、会堂の改修が終わって一段落といきたいところですが、平尾霊園にあるお墓の老朽化が進み、急遽改修を行わなければなりません。元々1970年に建てられたお墓ですから、今回の修理保全は必須です。今から10年後の2031年には平尾教会の新しいお墓を建てることができるように、10年間で1500万円を目標として献金を捧げていきたいと思います。毎月500円からでも、納骨堂指定献金を実施できれば、この大きな山も可能だと思います。主の山に備えあり、ヤーウェイルエ(創世記22:14)を合言葉に、これからの10年を共に歩みましょう。

さて、私達の教会のこれからの果たすべき使命を考える時、その理念はミッションステートメント(使命宣言文)にありますが、私が平尾教会の牧師として、平尾と大名の2つの会堂の宣教を考えるときに、この様に在りたいという大きなふたつの幻があります。それは「福音の種を蒔く教会、安息する教会」です。主イエスは「誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)とそのように言われました。安息する教会とは、教会に来られたすべての人が、ここに来れてよかった、ほっとできると思っていただける教会です。主にある平安と居場所を感じられる教会であり、それは場所のことではなく、私達一人ひとりの人生が聖霊の住まう宮、神殿、教会として建てられていくことを意味します。その場所においては賛美が豊かに歌われ、元気になることができ、安心して祈ることができ、聖書が分かるものとして解き明かしがなされる場所です。

もうひとつの「福音の種を蒔く教会」とは平尾/大名会堂がそれぞれ福岡のすべての人々に福音が届くように御言葉の種を蒔き続ける教会の姿です。それが例え、私達の教会の宣教の実りにならなかったとしても、主イエスが言われた福音宣教の業に励んでいく教会の姿です。今日の聖書の箇所で主イエスは「種を蒔く人のたとえ」を大勢の群衆に船の上から岸辺に向かって話しかけられました。湖畔に浮かぶイエス様の姿は、集められた人々の心の揺れを顕すようです。

イエス様は集められた人々の生活の実体験に合うかたちで「農民と種まきとその結果」について語ります。私達の生活のレベルで言うと、種まきとは中々縁がありません。せいぜいあるとしたら、びわの木の種を庭にペッとしたら、数年後に木になったという話でしょうか。私達にとって「種まき」とは何かというと、私達の日常そのものと言って良いでしょう。コレをしたからこうなったというレンジでチンではなく、長い時間をかけて培われるものです。それが生かされたか、もしくは死んだのか、結果的に実ったのか、実っていないのかはその時にならないとわかりません。駄目なときこそ明確です。芽が出ていない・あるいは成長していないという事実です。イエス様が言わんとされたのは、誰でもその日常を神に向かって手放し/種を蒔き/諦めないのなら、いつかは私達が信じられないほどの実りを生むであろうとの希望の言葉です。それを、救い主イエスや、弟子たちに言わせれば、種とは「主なる神の言葉」であり、様々起こる種に対する艱難は「つまづき/思い煩い/富への誘惑」によって神の言葉が阻害されます。しかし、良い土地にはそれらのものがなく、まさにラッキーとしか言いようがないのです。信仰を持てるのは、本当にラッキーとしかいいようがありません。マタイによる福音書は10章で神のインマヌエル(神我らと共にいます)について語られ、11章では安息日について、12章では神の国のたとえ、よき知らせと宣教について語られていきます。イエス様の周りに集めさせられた人々がどのような人々だったのかというと、パンに飢えている人、片手の萎えた人、悪霊に憑かれた人、あるいは律法学者やファリサイ派、イエスの身内に至るまで様々です。呼び集められた人の現実は様々で、それぞれに悩みと痛みとを持っています。しかし、イエスの蒔かれた御言葉には、神の愛である十字架と、そして神が共に歩まれる復活のいのちがひとりひとりにひとつぶの種、ひとつぶのいのち、ひとつぶの信仰として与えられているのです。

 

                             主日礼拝2021年2月7日()

 

                           『迫害と信仰』

                                                                                   

                                                                                  森 崇 牧師

 

 

今日は信教の自由を覚えての礼拝を私たちは守っています。2月11日が建国記念日として国民の祝日となっていますが、これは元々初代の天皇神武天皇が即位し、日本の国もここから始まるとして戦前戦中は「紀元節」とし、戦後は「建国記念の日」と呼び、以来続いています。天皇が時を支配する元号(昭和・平成・令和)などの歴は、中国が皇帝の権威を強めるために始めたものですが、世界各国見渡して未だに元号を使っているのは日本だけです。天皇を神とし、富国強兵を推し進める中で、アジアの近隣諸国に対して天皇遥拝を強制し、また自らもまことの神をまこととしなかったキリスト教会のあり方を罪とし、悔い改めて、いまこそ真実な主告白へと至るものとなりたいと願っています。

信教の自由を覚えるとき、思い出されるのは初代バプテストの信者たちです。イギリスの英国においてその多くは英国国教会でしたが、同時に国王は英国国教会において唯一の最高首長でした。国王に背くものは「国の秩序と平安を妨げるもの」として厳しく処罰されました。国家は国民の心を支配する道具として教会を利用しました。嬰児洗礼は住民登録と同じ意味を持ち、住民はすべて教会=国家によって支配されました。しかし、新約聖書の真理を追及する一握りの人たちが、そのように国家の制度に守られた教会を批判し始めます。国や家の信仰ではなく、個人の信仰が、伝統の継承ではなく、一人ひとりの決断としての信仰が意識されていきます。初代バプテストの指導者であったトマス・ヘルウィスは殉教覚悟で亡命地のオランダからイギリスへと戻り、「完全な信仰の自由と、良心の事柄には国家が介入すべきではないこと」を訴えます。トマスは言いました。「王よ、お聞きください。王は死すべき人間であり、神ではないのだから、臣民の不滅の霊魂を支配する権限を持たない。…王よ、あなたは欺くものに騙されて神と貧しい臣民に対して罪を犯してはならない」この言葉はイギリスにおいて信仰の自由を最初に求めた主張でした。特に彼の主張の優れた点は、自分たちだけの自由ではなく、宗教そのものの自由を訴え、「異端者、トルコ人、ユダヤ人、その他の誰であろうと、罰する権限は地球の権力者には属していない」とした点です。

本日の聖書個所でイエス様は「人を恐れるな、神のみを畏れよ」と告げられます。ここでの人とは自分を迫害する者の事です。イエスの弟子となり、神の国の宣教を担うときには迫害が必ず起こりました。その弟子たちに対して「迫害が起きたら逃げよ」(23)、でも「同時に信仰を貫け」(32)という緊張関係の中に今日の言葉はあります。イエス様は私たちに三つの大切なことを私たちに伝えます。ひとつは、「すべての意味は顕かにされる」(26,27)という事です。この時の弟子たちには、まだイエスの十字架も、そして復活も、隠されたままでした。あるいは、世の終わり、終末がどのようになるのかもこの時には分かっていません。しかしすべてのことは主イエスによって顕かにされるのです。二つ目は、「主なる神はあなたの人生の最後まで伴われる」という事です。魂まで滅ぼすことがお出来になるかたは、逆に、いのちの全てをすべ治める方です。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とありますが、ここでは神が雀に地に落ちてよいという許可/許しと受け取られますが、聖書本文では「お許し」はありません。父なしに雀は落ちることが無いというのは父と共に堕ちるという事です。神のインマヌエルは、無数かつ、無力なちいさなちいさな命の果てにまで伴われるという奇跡です。三つめはそのような神が、あなたを徹底的に愛しているという事です。「髪の毛一本残らず数えられている」というイエスの言葉は、旧約聖書では、いのちが失われてはいけない、上から下まで!!徹底的に大切な存在の意味で用いられます。イエス様が「だから恐れるな」と言われるのは、たくさんのすずめの生死に最後まで添い遂げる父の愛が、無限にあなたがたには注がれているのだという宣言です。それゆえに、その神を信じ、また神の愛が注がれている一人ひとりを守り尊ぶことこそ、今の世に遭って大切にされるべき信仰です。

                             主日礼拝2021年1月31日()

 

            「主われを愛す」から始めましょう 

                                                                                   

                                                                                    西山薫執事

 

今日の聖書箇所は、1年にも渡るコロナ禍において、いつこの状況が終わるのか?命の危機にさらされながら、疲れ果て、希望を失っている私達の今を表しているようです。さらに、医師である私の夫の姿は、「あらゆる病気と患いを癒すため」に権能を与えられた弟子たちの姿と重なり、私はいつのまにか聖書の中にすっぽりと入り込み、「医師である夫が、いつコロナで命を奪われるかわからない」その事に怯え、そして、私が知っている神様が「与え、奪う神様」だと知っているが故に、神様に今激しく絶望しています。私の夫は呼吸器内科の医師です。肺の病気であるコロナは呼吸器内科、あるいは感染症内科が受け持っています。世界中の人達がその終息を待っているコロナですが、日本に関して言えば、コロナの患者さんを受け入れ治療しているのは、福岡ではあの病院のあの先生と、名前が言えるくらい数少ない病院の数少ない医師だけです。そして、それらの医師はコロナの患者さんだけを診ているわけでなく、通常通り肺などの呼吸器に関する病気を常に診ています。自分がコロナに感染する以上に呼吸器に疾患を抱えた患者さんに感染させないよう細心の注意を払いながら…。働き手はとても、とても少ないのです。1月中旬、高校3年生の娘が初めての共通テストに挑もうとしていた3日前、夫の病院でコロナ感染者が出て、家族への感染と病院内での感染を心配した夫は、お布団と2枚の下着だけを持って家を出て行き、そして病院が少し落ち着いた一週間後帰ってきました。理由は、「もし僕がコロナの陽性者になったら自宅療養になり、病院にもどこにも行けず家に帰るしかない。そうなったら結局、家族が濃厚接触者になり、子どもたちが受験できなくなったり、学校に行けなくなるのは同じ事だから」と。「色々気を遣わせてごめんね」と言う夫に、私は「あなたが謝る必要なんて一つもない!」とキッパリ言い放ち、大学生の長女は「あまりにも理不尽過ぎる。パパや私たち家族がかわいそうだ、救いがない」と泣きました。それでも夫は毎日朝早くから夜遅くまで患者さんを診るために病院へ行きます。そして、病室を訪れると必ず言います。「お変わりありませんか?一緒に頑張りましょうね。大丈夫ですよ」自分達も全然大丈夫じゃないのに、なぜそんな事が言えるのでしょう?きっと、最初からそうであった訳ではなく、職業としての使命が与えられ、先輩の先生方や仲間に出会い、患者さんに育てていただく中でそういう風に作られていったのだと思います。聖書の中の弟子たちもきっと、そうであったと思います。

本日の招詞「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと(中略)わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である」(ヨハネによる福音書15章16節)任命された者たちは、互いに愛し合う中で育てられ強められ、いつのまにか自分でも思ってもみないような者に変えられていく。そして、それは神様の選びから始まっていて、私たちはすでに選ばれているのです。本日の礼拝の応答賛美歌に『主われを愛す』を選びました。「主われを愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ わが主イエス わが主イエス わが主イエス 我を愛す」私が神様を愛せないと苦しんだとしても、「主、われを愛す」神様はいつも先に私を愛してくださっている。私を選んでくださったのも、愛してくださったのも、いつも神様から。神様はいつも私の前を歩いていてくださる。私の信仰は振り出しに戻って1節目を歩いているようです。コロナ禍で、私のように不安や絶望を抱え、教会にも行けず、神様に対して「あなたこそが希望であり、救いであり、喜びです」と言えなくなっている人は多いかもしれません。

そのような方に私が言える事を今一つだけ見つけました。それは、「また初めから一緒に始めましょう」という事。一節目のワンフレーズ「主われを愛す」から始めましょう。4節目の「わが君イェスよ、われを清めて、よき働きをなさしめたまえ」といえる日は、もしかしたらそう遠くないかもしれません。

                     主日礼拝2021年1月24日()

 

              「奇跡信仰?それとも逆説的信仰?」

                                                                                                                                                                                                            青野太潮協力牧師

 

ルネッサンスからバロックにかけてのイタリアの美術史の研究者で、とくに1571-1610年に活躍したカラヴァッジョ(Caravaggio)についての研究で著名な、神戸大学教授でもある宮下規久朗先生が、日本経済新聞の文化欄に、「『ヨブ記』の問い・不幸に意味はあるのか」というエッセーを書いておられました(2016年5月15日付朝刊)。宮下先生は、若い頃から聖書に親しみ、「ヨブ記」にも惹かれてそれを読んでこられたそうなのですが、こう記しておられます。「ヨブの3人の友人は、因果応報論によってヨブを諫めるが、ヨブは潔白を訴え、神に直訴する。最後に神が大風の中から登場してヨブに語りかけるが、全知全能ぶりを披歴してヨブを問いつめ、彼の問いには答えない。ヨブはそんな神に恐縮して懺悔し、以前にもまして幸福が与えられるというハッピーエンドとなる。とうてい納得できる話ではない。」

 そして宮下先生は、エッセーのなかで、岩波新書の浅野順一『ヨブ記』や、岩波文庫の内村鑑三『ヨブ記講演』にふれたあと、岩波現代文庫のH・S・クシュナー『なぜ私だけが苦しむのか・現代のヨブ記』(斎藤武訳)に次のように言及されています。「(この本のなかでは)難病の息子を亡くしたラビ(ユダヤ教の教師)が、ヨブと同じ地平に立ってこの問題を検討する。そして、神は不幸を与えるのではなく、そこから立ち直らせてくれる力を与えてくれるのだという結論にいたる。不幸や人の生死は神の意図によるものではなく、神も人間とともに悲しむのだという。彼は息子の死に際して、神から愛や優しさ、勇気や忍耐が与えられたという。」

 そして宮下先生は、こう続けます。「私は3年前に一人娘をがんで失ったが、そのとき牧師や友人がこの本を贈ってくれた。以前読んだときは感心したが、悲嘆の中で再読すると怒りさえ覚えた。神が人の生死も左右できないような存在なら、そんなものに祈る価値があるのか。祈りとは、超越的な存在に奇跡をこいねがうことにほかならない。娘を助けてくれと日夜祈り続けた私の祈りは、無意味だったのだろうか。」

 宮下先生の最後の言葉、<神が人の生死も左右できないような存在なら、そんなものに祈る価値があるのか。祈りとは、超越的な存在に奇跡をこいねがうことにほかならない。娘を助けてくれと日夜祈り続けた私の祈りは無意味だったのだろうか> という言葉は、娘さんをがんで失くされた先生の深い悲しみを思えば、ほんとにそうですよね、と思わさざるを得ない重みを持っています。そして事実、新約、旧約を問わず、聖書のなかには、そのような「神」理解、「祈り」理解、そして「奇跡」理解、を支えてくれる箇所がたくさん存在しています。

 しかし、聖書のなかには、それとはまったく異なった「逆説的信仰」を可能としてくれるような「神」、「祈り」、「奇跡」理解もまた、確かに存在していることも事実です。 私たちは、こうした問題に対してどのように考えていったらよいのでしょうか。しばらくの間、ご一緒に考えてみましょう。

 

                     主日礼拝2021年1月17日()           

 

               <説 教> 「小さな“点”も守られて」    

  

先週、慌ただしく福岡も非常事態宣言を迎える中で、私の心に浮かんだ祈りの言葉は、アメリカの神学者ラインホルト・ニ―バーの祈りでした。このように祈られています。「神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。あなたのご計画にこの身を委ねれば、あなたが全てを正しくされることを信じています。そして、この人生が小さくとも幸福なものとなり、天国のあなたのもとで永遠の幸福を得ると知っています。アーメン」実はこの1940年ごろのニ―バーの祈りに先立って哲学者のWWバートレーはこんな言葉を残しています。「太陽の下にある全ての病は、治療法があるか、治療法が無いかだ。もし1つでもあったなら、それを探しなさい。もし何も無かったなら、それは気にしないこと」インドの僧侶寂天さんも8世紀ごろこのように言います。「困難が我々を襲った時、治療法があったなら、落ち込まないといけない何の理由があるだろうか。もし助けになるものが何もないなら、落ち込むことが何の役に立つだろうか」これら三人の祈りの言葉には、人生を肯定的に、あまり悲観的にならずに、現状をそのまま受け入れよう、そして何とかなることを信じて生きよう、という姿勢が見いだされます。特に我々キリスト者は「万事を益として下さる主なる神」を信じています。その主は、ご自分の口からでる神の言葉一つひとつで世界のすべてのものを創造なさいました。実に「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ1136)とありますが、この世界にあるすべてのものは神の言葉によって造られ、また保たれ、神の目的を果たすように、その完成へと導かれています。私たち人間も、神の言葉によって存在し、神の計画の完全性へと歩まされています。人は誰でも罪人であり、弱さがあり、愚かさがあります。小さな私などは価値のない存在だ、あるいは神様の救いや助けなどからは無縁の存在だと思われることもあるかもしれません。しかし、神の口から出たどんな小さい存在すらも、神によって蔑ろにされることはありません。

かつてイエスは、旧約聖書の教え、律法や預言者を廃止するために来たのだと人々から思われていました。律法や預言者とはヘブライ語聖書(旧約)のことを全体として指していますが、狭義には神と人とを結ぶ十戒、神の戒めとして語られた言葉を意味していました。文字に起こされた戒めの言葉と、預言者が神からの霊を受けて語った言葉の事です。神と人とを結ぶものとしての律法や預言者は、神と人とを結ぶ仲介者としての神の子イエスが現れた際には必要ない、廃止するものと受け止められたのです。しかし、主イエスは廃棄する為ではなく、完成するために来たのだと言われます。「はっきり言っておく」とは「誠に汝らに告ぐ」(文語訳)、「アーメン、あなたがに告げる」という大切な言葉を告げるときの始まりの言葉です。「すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることは無い」と言われます。当時聖書はヘブライ語で書かれており、一番小さな文字はYを意味するヨッド(’)でした。当時その細かさ、視認しにくいヨッドは省かれて書かれることも多かったのですが、ここでイエスはその小さな小さなヨッドすらも省かれることなく実現するであろう、と言われています。この後にイエス様は十戒の意味について解き明かしていくのですが、「殺すな」という十戒の言葉は、人を殺さないだけは不十分で、神が万人に対して持っておられる深い愛情と憐れみのゆえに、人を軽蔑する言葉はすでにその戒めを破っているのだという厳しさについてイエスは語ります。ですから忘れられがちな小さな“点”ヨッドとは主ヤハウェ(YHWH)のことであり、神が発せられた神の言葉は一点一画も落ちることなく、言葉そのものではなく神の私たちにははかり知ることが出来ない深い愛は、すべて実現されるのだという事です。そのような意味で20節のイエス様から言われる「あなたがたの義」とは、「私たちが弱いままで、罪人のままで、苦しみなやみもがいているままで、それでも私はあなたを愛している」という神の愛、神の義です。人々が追い求める言葉やルールを守れるものが大切にされる「人々の義」ではなく、そこにはもはやおられない、いることのできない、かけたるもの(Youを想い求められる神の愛/神の義が、この世界で求められる全てよりも勝っていなければならない、というイエスの熱い勧めです。

               主日礼拝2021年1月10日()

 

 

  <説 教>悪魔に抗うイエスの信仰」森 崇 牧師

 

 

「主の祈り」の中に「我らを試みに遭わせず、悪より救いだし給え」という祈りの言葉がありますが、まさに現在の私たちはこの祈りに対してアーメン、アーメンという気持ちを持って祈っています。さて、イエス様が浸礼者ヨハネから悔い改めのバプテスマを受け、ご自身が神の子でありながら、罪人の一人として生きる、そのことの表明をなさいました。その時に、聖霊を鳩のように降され、また神の言葉が響きます。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声です。その後、聖霊はイエスを荒野へと導きます。荒野とは、イエス様がバプテスマを受けられたヨルダン川と比べて、全くの高地です。「導く」とは「導き上った」という事を意味しています。イエス様は荒野で4040夜断食をし、空腹を覚えられました。飢えや渇きは、私たち人間は普通の状態では我慢できません。朝起きてきたら水やお茶を飲みたくなるのが常なように。一日二日飲まず食わずすることは可能かもしれませんが、水や植物のない閑散とした荒野において4040夜は耐えきれるものではありません。聖書では数字の40に特別な意味合いがありノアの箱舟の物語のように悪に満ちた世界に対する神の裁きと世界の再創造や、あるいはモーセがシナイ山において神の言葉を授けられたことを思い起こされます(出エジ3428)。イエス様が4040夜断食を史、空腹を覚えられたということは、彼が真の人としてこの世に来られ、人間が受けるすべての苦しみ/痛み/歎き/渇き/飢えを経験されたという事でしょう。実に彼は試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるかたです。

 弱っているイエス様に、悪霊は近寄ってきて言います。「もしあなたが神の子であるなら、石をパンにしてご覧なさい」と。いつでも悪魔は弱っている時に人の心にやってくるものです。「もしあなたが神の子であるなら」という問いは二度悪魔に問われること(36)です。イエス様はすでに御父によって「これは私の愛する子」と言われていますから、そうすることには何の抵抗もない誘いの言葉です。しかしイエス様は『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつの言で生きる』と聖書、申命記8章3節の言葉をもって応えられました。申命記のこの言葉には三つの大切なポイントが含まれています。ひとつは神の民が40年に渡って荒野を旅した時のことを覚え、すべての道における主の導きを覚えなさい、という事です。二つ目は人生における苦しみや試みは、主がその心の内にある者をご覧になり、主の命令に忠実であるか知られるためです。三つめは日々の糧や、今日の命は、神の言葉から来ていることを知り、かつ覚えよ、という事です。

 次に悪霊は聖地エルサレムの神殿の屋根に立たせ、詩篇91篇11-12節を引用して言います。「あなたが神の子なら下へ飛び降りてみよ。天使たちがあなたを守ると、聖書に書いてある」悪魔も聖書を引用するとは驚きです。これに対し、イエス様は申命記616節の言葉を引用し、『主なるあなたの神を試みてはならない』と返されました。この言葉には、神を試してはならない、という禁止よりも、神から愛されているあなたは「あえて試みることはないだろう」という強い意思です。

ついに悪霊は本性を現し、イエスを高い山に連れて行って言います。「私を拝むならば、全てをあげよう」

悪魔の誘惑は、イエス様だけでなく私たちの心の弱さにも漬け込むものです。すなわち第一の誘惑が「何によって生きているのか」を揺るがすパンの誘惑であり、第二の誘惑は神を試し、信仰によって神やみ使いを服従させたい誘惑。第三は権力への誘惑です。これらの誘惑に対して、人間のあらゆる苦しみを受けて弱られた人間イエスは「サタンよ、退け『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』」との言葉を持って悪魔に抗ったのでした。イエス様が「打ち勝った」と書かれていないのは、そのような苦しみや誘惑は世の常であり、わたしたちも、これらのイエスの戦いに共に身を置かれているからでしょう。悪魔は退き、イエスを離れ去り、み使いがきて御許にきてイエスに仕えた、とありますが、ここには「見よ」という言葉が隠されています(3:16、4:11)。イエスさまの言葉や行為に応答する者がある、ということです。ここでの天使たちとは誰の事でしょうか。これは、キリストを信じるわたしたちであると私は信じています。すなわち、極限の試みの中で弱られたイエスは神の子としての権能を使用することなく、十字架の苦しみの絶叫にまで昇らされたそのイエスの生き方、聖書の言葉を多様に引用しつつ、ひとつひとつの困難を乗り越えていくそのイエス様を知り、見て、出会い、「見よ、仕えよう」という天使たちこそは、実はわれわれだったのだ、と思わされています。

 

                                        主日礼拝2021年1月3日()

 

 

 

         <説 教>「始まりのバプテスマ」     森 崇 牧師

 

新年明けましておめでとうございます。新年を迎えて、皆さんは新しく何かを始めたいなぁと考えておられることがあるでしょうか。あるいは新年の決意や意気込みのようなものがあるでしょうか。2020年の年始に、JOYSHIP奉仕者会で今年一年の自分の御言葉というのを書く時を設けました。それぞれ一人ひとり、聖書と向かい合い、聖句を決めて発表したのですが、私はアブラハムが息子イサクと共に神の試練を乗り越えた聖句「わたしの子よ、焼き尽くす捧げものの小羊はきっと、神が備えてくださる。二人は一緒に歩いていった」という聖句を選びました。昨年の一年はこの聖句に助けられました。ぜひ、みなさんも今年の聖句をお選びになって書き、それを見えるところに掲示されてください。主の御言葉が、必ずそのとおりになさってくださるでしょう。

新年の始まりに際して、始まりのバプテスマについて共に考えて行きましょう。バプテスマの起こりは、新約聖書のバプテスマのヨハネに遡ります。彼は「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って宣教を始めました。かつて預言者たちは多くの人々の注意を向けるために大げさとも言える象徴的行動を行いましたが、ヨハネもまた、その地方でもっとも低いヨルダン川にて、ザブザブと人を沈めてバプテスマ(浸礼)を施していたのでした。それは「もうすぐ主なる神が来られる」という切迫感の中で、神の裁きを受ける前に、自分の罪を告白し、前もって神のさばきを受けよう、という事でした。これは単なるデモンストレーションではなく、自分が死すべき罪人であるのを自覚して、殺される、という覚悟を持ってなされる行為であり、それ故に浸礼とは、「溺死礼」(須藤伊知郎氏による)とも言える行為でした。ヨハネは預言者イザヤによって預言された人として「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』」を体現する人でした。神様を人々が迎え入れるために、その道を整えて平坦にしておく、ということです。ヨハネがバプテスマを授けていたヨルダン川はかつてイスラエルが約束の地に入るために渡った川です。ヨハネは神の民が近づいている天の国に入るための備えとしてバプテスマを施します。かつて割礼は神の民への入会儀式として行われるものでしたが、バプテスマは男女関係なく受けられるものでした(5節)。ヨハネはバプテスマの目的を「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」(8)ことだとします。そこにはもはやイスラエル民族だけが救われるという選民思想はなく、血や肉によらず、悔い改めの結ぶ実を残すものこそ、神ご自身がアブラハムの子として、祝福の約束を受け継ぐものとしてくださる(9節)ものとしてくださるという確信が語られています。

イエス様はこのヨハネからバプテスマをお受けになりました。イエスご自身は罪のない神の子でしたが、罪人の仲間として、あるいはもっと低くされている罪人と共に生きるために、ヨルダン川に降ってきます。そのイエスの決意のバプテスマを神は祝福し、神の霊を鳩のようにイエス様の上に降しました。まさにイエス様の生において、どんな時も神が伴うことを約束されたように。

イエス様はその生涯においておそらく誰にもバプテスマを授けられませんでしたが、イエスの十字架と復活後、大宣教命令「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け…」との言葉に従って弟子たちはバプテスマを授けていきました。「名による」とは元々の意味を辿ると、「そこに向かって」という意味です。父と子と聖霊に向かってバプテスマを受けるとは、受浸した者の生き方/方向性を指し示しています。初代教会のバプテスマとはまさにそのイエス様の生涯/死に向かってバプテスマを受け、イエス様が復活の命に預かったように新しい命の希望に生きるということを現したものでした(岩波訳聖書、ローマ人への手紙6:1-5)。では、当のイエス様はどのようにバプテスマについて考えておられたかというと、それは受難、苦しみをうけることについて言及しています。「あなたがたは、この私が飲む盃を飲み、この私が受けるバプテスマを受けることができるか」(マルコ1038バプテスマと受難が分かちがたく結びついていることをイエス様から知らされています。今日、私達の状況は、昨年と変わらず、恐怖や恐れは人々の中に増大しているように思われます。しかし、これらの受難の中にあって今やすべての人々が、キリストへと向かう大いなるバプテスマの中にあります。このバプテスマはキリストと彼の受難とに結ばれ、そして復活の希望へと導いて下さいます。受難と復活、この狭間で、キリストが今私達と共におられます。

 

 

 

 

2021年12月27日

<説 教> 「人をつなぐもの」 原田仰神学生

 

今年は本当に大変な一年でした。日本では首相が変わるという出来事も起こりました。

忙しく動く世の中の中で一つ気になることがあるのです。

それは「自己責任」という言葉です。新しい首相の意気込みの中にも、その精神は含まれています。「自分のことは自分でやること」これが国の成長のためになるということが言われているのです。しかし、実際にその言葉が使われていたのは、誰かが何か問題にぶつかり、

苦しんでいる時でした。

 本日の箇所で、イエス様によって癒された人は、身体が麻痺している状態でした。

彼は「自らの病をいやすために動く」ということはできないのです。

そのような中でイエス様の噂を聞くことはあったことでしょう。

その知らせに希望を抱くことはあっても、イエス様のもとへ自分1人の力で行くことを、

彼はできなかったのです。そんな彼は「自己責任だ」と言われていたのでしょうか。

それでは「自己責任」とは何なのでしょう。今日使われている「自己責任」という言葉の認識は、まるで誰かに頼ることを制限しているかのように思えます。

それはある問題において、自分も抱えているかもしれない問題点を他者に押し付けているとも言えます。 しかし今日の箇所に登場する人たちは違いました。

イエス様は癒された本人だけではなく、屋根から現れた「その人たち」の信仰も見たのです。イエス様は彼らのうちにも信仰を見出し、彼らの信仰を通して、病人に「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。

ここには、信頼の中において誰かの「責任」を共に背負い、またそこから「自らの責任」

を新たに見出す人々の姿が描かれています。人間は独りでは生きることができません。

そのために神様は人間を互いに支え合う生き物として創造されました。

互いの「生」の責任を負い合うのが人間なのです。

 助け合う者たちの信仰を見て、イエス様は「あなたの罪は赦された」と病にある人に言われました。病にあった彼はイエス様に「あなたは神様との関係の中にある」と言われたのです。病にある人と、助けた四人の人の中には信頼がありました。

その背負い合う姿から、イエス様によって「信仰」が見出されたのです。

そしてその彼らの信仰の営みの中にあのイエス様も参与されています。

11節、イエス様の「床を担いで家に帰りなさい」という派遣の言葉によって、

癒された彼は先の道を歩みます。しかしその歩みは、「あなたの罪はゆるされた」

という先立った宣言によって神様との深い関係の中にあるものとされていくのです。

 私自身がこの説教の準備の中で、学ばされたことは「祈る」ことの大切さです。

祈りは、「共に生きる」ことを体現しています。わたしたち人間にはそれぞれ限界があります。しかし今日の物語で登場した四人は、病そのものに対して無力であったが故に、

イエス様により頼みました。彼らのように、たとえ自分自身が無力であっても、

祈りによってその苦しみを共有すること、神様の執り成しを求めることはできるのです。

さらにそのような祈りの営みの中にイエス様も、いつも共におられます。

イエス様は十字架によってわたしたちの「罪」を共に背負い、わたしたちと共に歩まれるお方です。そのイエス様が私たちの「その信仰」を見て、わたしたちの祈りを聞き、

様々な形で応答してくださっているのです。

 今年は身体的な距離があり、会えない日々が続いた一年でした。それでも私たちの関係はつなぎとめられています。なぜなら、この空いている距離、会えない日々の中には、互いの命を思い合う「信頼」があるからです。

そしてその「私たちの信頼」イエス様が直接的に働きかけてくださっているからです。

 

 

 

主日礼拝2020年12月13日()

 

 

 

 

創世記 12章 10-20節(新共同訳 旧約聖書 p.16

 

10: その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったのでエジプトに下り、そこに滞在することにした。

11: エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。

「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。
12:
 エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、

13: どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」

14: アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。

15: ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたのでサライはファラオの宮廷に召し入れられた。

16: アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた。

17: ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。

18: ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。

「あなたはわたしに何ということをしたのか。 なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。

19: なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」

20: ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。

 

<説 教>

なぜ嘘(フェイク)は見過ごされたのか」小林洋一師

  ※今回、原稿はありません。すみませんが、動画を御覧ください。(森)

 

                    世界バプテスト祈祷週間礼拝 

                     2020年11月29日()

                       マルコによる福音書 15章33節-41節( 新共同訳 新約p.96)

33: 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

34: 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」

   これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

35: そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」

    と言う者がいた。

36: ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤ

    が彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。

37:  しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。

38: すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

39: 百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように

    息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

40: また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブと

    ヨセの母マリア、そしてサロメがいた。

41: この婦人たちは、イエスがガリラヤにおら

れたとき、イエスに従って来て世話を

    していた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た

    婦人たちが大勢いた。

 

 

                                  <説 教>

「今、何を伝えるのか-世界祈祷週間に再考る-                                                                                       青野 太潮 協力牧師

マルコ福音書15章に見られる、あの「十字架」上でのイエスの、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」との絶叫は、「世界のための贖罪の供え物としての自分の命を犠牲にするというキリストの愛」を示しているようには、到底私には思えません。むしろ私には、すでに私の『パウロ』(岩波新書)のなかで私自身が展開しましたように、十字架上で絶叫されているあのイエスは、ご自身が宣言された「さいわいなるかな」の宣言、すなわち、「貧しいあなたがた、泣いているあなたがた、飢えているあなたがた、悲しんでいるあなたがたは、さいわいである。神の国は、実にあなたがたのものなのだから」、というあの「さいわいなるかな」の宣言、その宣言のなかの、「貧しく、泣いている、飢えている、そして悲しんでいる者そのもの」にまさにご自身がなっておられたのであり、神は、まさにそのようなイエスに対する根底的な「しかり」「肯定」としての「復活」の命を、そのイエスにお与えになったのではないのか、というように思われます。そして、その神の「肯定」は同時に、イエスがその生涯をかけて徹底して宣べ伝えられた「無条件で徹底的な神の愛とゆるし」の宣言に対しても、「それは正当な理解であり、その基盤にある神理解もまた正当な神理解だ」という意味における「肯定」として与えられたのであり、決して、「自分は全人類の罪の贖いのために、自分自身を、贖いの供え物、つまり犠牲の捧げもの、として与えるのだ」というようなイエスの捉え方に対して与えられたものではなかったのだ、と思われます。この「犠牲を要求する神の要求」が、最終的には拒否されている点は、実に的確な解釈だと私も思いますが、そのような捉え方をイエスは保持されていたのだと解釈し、その上で、しかしそれは神によって拒否される形で、いわば弁証法的に「止揚」されたのだ、と考えられる点は、正しくはないのではないか、と私には思われます。 

 

       9月27日 出エジプト記12章21-28〜14節

 

 

   「聖なるものを犬にやるな?

          真珠を豚に投げるな?」

               青野太潮協力牧師

今日の聖書箇所のマタイ福音書7章1-6節の最後の節、つまり6節ですが、

そこではこう言われています。「神聖なものを犬に与えてはならず、

また、真珠を豚に投げてはならない。

(豚は)それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」ギリシア語の原典では、6節で改行されていますので、

現在の新共同訳のような改行なしの連続の中で1-6節を訳すことには

問題があるでしょう。その点では岩波訳は正確に6節で段落を変えています。

それはともかく、私は長い間、なぜ、新約聖書のなかでマタイ福音書においてしか見出すことのできないこの7章6節の言葉が、

その前の1-5節の部分に接続しているのだろうか、

ということがわからないままでおりました。

1-5節の部分は、ルカ福音書6章37節-42節にも記されていますので、

したがってルカは、マタイと共通の「Q資料」を使用していると思われます。

「Q資料」とは、マタイとルカが用いていると思われる仮説上の「イエスの語録集」のことですが、マルコはそれを使用していませんので、

彼はその存在を知らなかったと思われます。

しかしルカは、マタイ福音書には含まれていない言葉までも

そこでは引用していますので、マタイとルカの二つの箇所は

まったく同じ内容とはなっておりません。そして、今問題のこのマタイ7章6節の言葉には、ルカはまったく言及してはおりません。

ルカは6節のこの言葉を知らなかったのか、それとも知っていたけれども、

神学的に問題を感じて、それを採用しなかったのか、

それはよくわかりませんが、おそらくルカはその言葉を知らなかったのではないか、つまりマタイだけがこの言葉を知っていた、

という可能性が大きいのではないか、と私には思われます。
 その6節の言葉を、イエスご自身はほんとうに発せられたのか、

それともそれはマタイ、あるいはマタイ共同体が創り出した言葉であったのか、

もしもそれがイエスご自身の言葉であったとするならば、

いったい何をイエスはそれによって言おうとされたのだろうか、

とくに1-5節の、誰もがイエスに遡らせることを否定しない

鋭い批判的な言葉との密接な関連のなかで、

私たちはどうこの6節の言葉を解釈したらよいのだろうか、

そういった問題について、しばらくの間、ともに考えてみたいと思います。

 

 


               816日  ヨハネによる福音書8:29

 

         「道をそれて神に出会う」

                     才藤千津子協力牧師

 

ヘブライ人(イスラエル人)たちがエジプトに居住し権力者ファラオから迫害を受けていた頃、イスラエルのレビ族に生まれた男の子がモーセだというのは、先週取り上げられたお話です。

モーセはエジプトの王女の子として王宮で育ちました。

やがて成人したモーセは、同胞であるヘブライ人を虐待しているエジプト人を見て、怒りのあまり殺してしまいます。そして、エジプトにいられなくなり、ミディアンの地に住む祭司エトロのもとに逃れ、その娘と結婚して羊の世話をしながら平穏な生活をしていました。

 ある日、羊の群れを追って神の山ホレブ(シナイ山)にやって来たモーセは、燃えているのに燃え尽きない柴を見ます。彼は、「道をそれてこの不思議な光景を見届けよう」と近づこうとしますが、その時柴の中から、「モーセ」と自分の名前を呼ぶ声を聞きます。それが神の声であることを知って恐れたモーセに、神は「私はあなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(出エジプト記3:6)「さあ行け、私はあなたをファラオのもとに遣わす。私の民、イスラエルの人々をエジプトから導き出しなさい。」(3:10)と語りかけるのです。

 

 この春以来、私たちは皆、新型コロナ感染拡大という未曾有の状況の中を生きています。それまでの平穏な日常生活が崩れ、思いがけない、予測できない出来事が次々と起こりました。

燃えているのに「燃え尽きない」柴のように、私たちの理解を超える出来事に日々出会わされているのです。困難な毎日ですが、もしかすると私たち一人一人は、それぞれの生活の中で、モーセのように「道をそれて」荒れ野の中に一歩踏み込んで行くことに招かれているとは言えないでしょうか。

「道をそれて行った」モーセが神と出会い、逡巡しながらも神からの呼びかけに応えた時、モーセと彼が属している共同体の将来が徹底的に変えられてゆきます。「私は何者なのでしょう。この私が本当にファラオのもとに行くのですか。」(3:11)と問うモーセに神が言われた言葉は、「私はあなたと共にいる。」(3:2)という力強い宣言でした

 

 



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