牧師室

牧師のエッセー


3月29日

平和一丁目

平良憲誠 主任牧師

 平尾教会は、平和1丁目にある教会である。あたかも平和が一番と主張しているようだ。 「平和一丁目」は牧師たちが何気ない日常の生活から、神様の恵みを感じとって書くこともある。また、社会の動向に危機感を抱いて、聖書の教える正義や平和を願って書くこともある。

 それなりに、どこかに平和というものを考えるものになっていたらと思う。平和とか自由とかいったものは、不断の努力なしには得られないものだというが、ほんとうにそうだ。平和も自由も、私たちがのほほんとしていたらじわりじわりと崩されて、政治権力の思い通りになってしまって、気づいたときには手遅れというのがこれまでの歴史である。言論の自由、表現の自由、思想信条の自由などは、人間であれば誰もが大事にしたいものだ。

 キリスト者たちは、これらのことも聖書とイエス・キリストから学ぶ。ところで、新型コロナウイルスの蔓延により世界が大混乱をきたしている。人間ではない見えない敵によって多くの人々が苦しめられている有様を見て、平和を脅かすものは他にも多くあることに気づく。平和を第一とする教会からの発信は、その表現形態や扱う対象は多彩であっても、それを求めて止まない教会の姿を示し続けることはできた。

 しかし、これからのお忙しい牧師たちのお働きを思うと、是非続けてとも言えない。私は、これまでこの週報の紙面を通して、このような機会をいただいことに、改めてお礼を申し上げる。


3月22日

感謝します

平良憲誠 主任牧師

 今日で、この平尾での私の主任牧師としての説教は最後となる。私の説教の質は、どの程度のものだったのか。少なくとも、おもしろくはなかったと思う。説教のときには、誰も笑わない。そもそも笑いをとるような話はしていない。時にブラックジョークを言っても、一人、二人が、くすっと笑う程度で、あとは、誰も気づかない。

 それでも、福音を語っていたかと問われれば、普通ぐらいはあったのではないだろうか。私は、行間を読むことにおいてはかなり努力したつもりである。どこまで掘り下げられたかわからないが、その作業に喜びを感じてきた。ほんの少しだけであるが、聖書がどのような書物なのか、自分なりにもわかってきたと思う。

 聖書は、読めば読むほど、興味深い書物である。おそらく、人間が考えることは、すべてこの書物の中に網羅されており、その上に神様の視点がある完璧な書物である。私は、牧師としての恵みを思うのは、これほどに興味深い聖書に時間を費やすことができ、そこからの報酬もいただけたことである。

 誰よりも、真っ先にその日の聖書の説教箇所に感動をおぼえることができた。だから神様に一番感謝しているのは、この私を牧師として召してくださったこと。そして次に、牧師たちや執事、多くの信徒の皆様にゆるされ支えられた日々であったことに感謝したい。最後に感謝したいのは、パートナー(喧嘩相手兼助け手)として与えられ、牧会の手伝いをしてくれた妻である。


3月15日

T兄の挑戦者魂

平良憲誠 主任牧師

 81歳のT兄が、甘夏の木に登って、木の先端の方なので収穫するのが困難だった甘夏の実をさらに30個もちぎったと聞いて驚いた。T兄のチャレンジ精神には、いつも感心させられている。ヤマメ釣りもT兄なりの釣り方で、最初からなかなかの釣果だった。ここでは、平均25匹程度ですね、と管理釣り場の 職員は言っていたが、彼は30匹は釣り上げた。

 魚をトリッキーな動きで誘うのだ。今度は、燻製にも挑戦された。エサや釣り具はどこで調達するのか、魚の捌き方はどのようにするのか、燻製には、何が必要で、どのような手順で作るのか、一つ一つメモにとり、でかけて行き、見て、自分でもやり、そうやって覚えておられる。おそらく、何度かは失敗するだろうが、すぐにマスターするような気がする。

 T兄の武勇伝は、すさまじい。何度か釣りをしていて、鼻、耳、唇に釣り針をひっかけた。ご存じのように釣り針には、返しというものがあり、一旦刺さると抜けなくなる。さすがに唇を貫通させたときは、私がペンチで針を折り、抜けたが、鼻、耳のときは、ご自分で強引に引っ張り出した。普通は、もうこりごりというところだろうが、T兄は、全くひるむようすなどなく、釣りを続けられた。

 大名ができたとき、周辺の飲食店や商店に、DCG開設の案内チラシを配布して回られた。そのT兄からお褒めの言葉をいただいた。「先生は単純作業は苦にならないでしょう。私もそうです」。純朴な信仰者ということ?


3月8日

ちょっと詠んでみました

平良憲誠 主任牧師

 この季節に平尾教会を楽しませてくれる二本の木々があることは、教会の皆もよく知っている。甘夏とアーモンドである。甘夏は、実りの季節を迎え、アーモンドは、花の季節となる。これらの木々が愛おしいのは、全くといっていいほど手を入れていないのに、季節が来れば毎年私たちを楽しませてくれる。

 甘夏は、教会バザーのために収穫される。いつも1万円以上の献金となる。先端についている実を収穫するためには、人間が木に登らなければならない。木の立場になって考えると、さぞ、きつかろう。平尾の甘夏は、ジューシーで、実がギュッと引き締 まり素朴においしい。無農薬で、周辺の秋の木々の落ち葉が唯一の肥料である。この甘夏でゼリーを作られるご婦人もおられて、とてもおいしい。

 それから、アーモンドは、一昨年の台風で倒れたけれど、起こしてつっかえ棒をしていたら、何 とか元気を取戻し、今年も花を見事につけている。毎年、通りがかりの人々が桜と間違え写真を撮る。後は、芙蓉がある。あまり知られていないが、これもこの時期で、片隅で艶やかに咲いている。

 「ウイルスのマスク姿の信徒らにアーモンドの花春を告げる」。「手入れなし愛情なしもただけなげ甘夏の実も芙蓉の花も」。「北国のコロナウイルスの教会に聖霊吹くや甘夏の香り」。教員をしていた頃、授業で短歌を扱ったことはあるが、自分で詠んだことはない。平尾の最後の春、庭の愛らしい木々におされて、試しにやってみた。 


3月1日

どう生きるのか

青野 太潮  協力牧師

 ジャーナリストの伊藤詩織さんは、元TBSアメリカ支局長の山口某から性的暴行を受けた。彼女の訴えは、刑事訴訟では不起訴になってしまったが、しかし民事訴訟では彼女は勝訴した。昨年12月末のことだ。その直後の外国特派員向けの英語の記者会見で彼女が、「私たちはいったいどう生きようとしているのだろうか、どんな種類の人間になろうとしているのか」という、通常の記者会見ではあまり耳にしない言葉を語るのを聴いて、私は深く考えさせられた。

 山口は、現首相についての新書本『総理』を著しており、首相とは携帯電話で話ができるほどの親しい関係にあるそうだが、そんなこともあってなのだろう、山口にはこの件で実際に逮捕状が出ていたにもかかわらず、成田空港での逮捕が急遽取り止めになったという有名な事実がある。その中止は自分が指示したことだ、と当時警察庁本部刑事部長だった中村某が認めているが、彼は菅官房長官の秘書官をも務めた男なので、山口逮捕の中止も官邸をバックにした決定であることは明らかであろう。彼は総括審議官、警察庁長官官房長を経て、現在は警察庁次長であり、次期警察庁長官の有力候補だと言われている。

 刑事訴訟が不起訴になった背景にも、こうした事情が反映しているだろうことは容易に想像がつく。そんななかで、伊藤詩織さんは、同様の官邸からの圧力の事実を彼女に伝えてくれた米国人の友人の「生き方」に感謝している、と語ったのである。つまり、訴えられた山口の不起訴がまだ決定してもいなかった時点で、その山口をアメリカのある研究所の研究員として採用するように、との依頼が官邸筋からあった、それも、かつて訪米中だった現首相がその研究所で講演をしてやったので、その見返りとしてそうしてくれ、との異例の依頼であった、ということをその友人は内部告発しているというのである。

 #MeToo運動の切っ掛けとなった米国の映画プロデューサーはつい最近有罪となり、直ちに収監されたと報じられたが、性的虐待ゆえに苦しんでいる女性は実に多い。そんなとき私たちは、「イエスだったらどうされるだろうか」(What Would Jesus Do? 略してWWJD?)といつも考える必要があるだろう。不当な権力に媚びることなく、また屈することなく、小さくされた者たちの側に常に立って行動していく、そのような「生き方」を私たちはイエスとともに選び取っているであろうか。


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