風囁

教会員の証


3月15日

こども説教(2020年2月23日)

N.A 姉 

 ここはエルサレムのベタニヤ村。この日、静かで悲しい時が流れていました。マルタとマリアの兄弟ラザロが病気で亡くなったのです。「かわいそうになぁ、イエス様は間に合わなかったらしい...」そんな声を聴きながらマルタは心の中で「どうして?どうして?」と言っていました。お兄さんを亡くした悲しみが大きかったのです。

 「イエス様が来てくださったぞ。」家の外からの声に、マルタはイエス様を迎えに行きました。足取りは重く、力がありません。イエス様が言葉をかけても、マルタの心には響かないのでした。「どうして?どうして?」マルタの心はその言葉でいっぱいでした。マルタは病気のお兄さんの事を、少し前からイエス様に伝えていました。すぐに来てほしい、と。皆さんも学校のお友達とけんかになったり、誤解を受けて悲しくなったり、どうしようもない気持ちになる事、ありませんか?お母さんやお友達に「大丈夫、元気を出して」と、言われてもすぐに元気になれなくて、心も晴れない事が、大人の私でも、些細なことで誤解をうけたり、自分ではどうしようもできない事など、同じようなことが沢山あります。

 私は皆さんのおばあさんと同じぐらいの歳です。ここ4年の間にお母さんとお父さんを亡くしました。そんな時、マルタさんと同じ様に「どうして?なぜ?」と心 は悲しみや不安などで重く沈みます。でもしばらくすると、礼拝で聞いた御言葉や聖書で読んだイエス様の言葉が、ふっと心に浮かんで、なんだか悲しみが和らいで、不安も消えて、心が少しずつ軽くなり、元気になってきます。そうして、段々ともとの自分を取り戻すのです。そのことが神ざまから命を頂き、復活することではないでしょうか。

 では今日の暗唱聖句を皆さんで読みましょう。この聖句が皆さんの心の中に残りますように。

「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、 死んでも生きる。」ヨハネによる福音書 11:25

[当日の子どもはMAくんだけでしたので、少し変更して話しました。これは子ども向けに用意したも のです。]


2月9日&16日&23日&3月8日

転入会式の証し(2019年12月8日)

H. T 兄 

 私たちの人生には上り坂もあり、下り坂もあり、時には「まさか」の坂もあります。わたしは、この「まさか」の坂を3回経験しました。 

 私の人生は40歳頃までは、家庭生活においても仕事においても全く順調、一般的にいう日常生活は順風満帆で、平凡で幸せな生活を過ごしていました。自分の人生は自分で決めるもの、自分が努力すればなんでもできる。地位もお金も幸福も自分の力がすべてだと思い込んでいました。それが、ある時、自分の傲慢さが切っ掛けで人生が傾き始め、奈落の底へと落とされる状況に至ってしまいました。

 これがわたしの第一番目のまさかの坂です。バブルの頃、友人の保証人になり、自分の収入では到底負えない多大な負債を背負ってしまったのです。それによって、仕事も家庭もめちゃくちゃになり、いよいよ行き詰って自殺を図ろうとしたのです。実際にある時、駅で向こうから来る電車に飛び込もうと思ったのですが、いざ飛び込む直前に別の人が飛び込んでしまいました。その状況を見るともう怖くなり、その場から逃げ出したというようなこともありました。

 毎日が暗い地獄のような生活になり、そのような状況から抜け出そうと遠く北のほうに逃げていこうと考えました。そのような時に、たまたま友人の紹介で、東京ホープチャペルの西田先生という方と出会いました。自分は教会の牧師で日曜に礼拝をやっているので一度教会に来て見ないかと誘われました。私は宗教にはあまり関心はありませんでしたが、誘われるまま一度だけ礼拝に出席しました。

 私は初めての礼拝で緊張していましたが、皆さんが賛美しているので、一緒に賛美していると知らないうちにとめどなく涙が溢れてきて、それまで溜まっていた苦しい心の中が洗い流されていくように感じました。

 「すべての疲れた人、重荷を負うている人は私のところに来なさい。私が休ませてあげよう。」(マタイ 11:28)そのようなイエス様の声、心の平安が与えられたのです。その時には分かりませんでしたがとても不思議な気持ちでした。迎えてくださった教会の皆さんの優しさにも触れ、教会っていいところだなあと思いました。それまでの苦しい日常の感じから解放されたようにも思いました。

 そして、その礼拝に出た次の日の朝です。いつものように近くの河川敷を散歩しました。すると、その朝は周りの空気も、頬に当たる風も、そして近くにある草花も、周りの景色も、すべてが新鮮でまったく新しく感じ、まるで世の中が新しく変わったように感じたのです。それまでこの世の中は苦しくて絶望しか見えなかったのに、何か新しく希望が見えてくる、暗闇でしかなかった世界に明るい光が見えてくる、そのように感じました。なにか暗い穴から抜け出したような気持ちでした。

 自分の中で何が起きたのか分からない気分でした。自分の置かれている状況、自分の周りの厳しい状況は昨日と全く何も変わっていないのですよ。そして、これまで、厳しい問題から逃げだそうとばかりいた自分の中に、なにかしら前向きに積極的に生きていこうという気持ちが与えられ、新たに人生に前向きに進んでいこうと言う気持ちに変えられたのです。

 「誰でもキリストにあるなら、その人は新しくつくられた者です。古いものは過ぎ去って、見よすべてが新しくなりました」(コリントII 5:17) まるで、自分が新しく生まれ変わったような気持ちでした。これが私の第2番目のまさかの坂です。それからは、これまでの自分の生き方を悔い改め、人が変わったように教会に通い始めるようになりました。そして、聖書のことやイエス様のこと、十字架や復活の事を次第に知るようになりました。そして、自分が変えられたその出来事を教会で証ししました。

 私は、その一ヵ月後にイエス様がおられることを信じ、これからの人生をキリストと共に歩む決心をし、1997年8月に東京の多摩川でバプテスマを受けました。それまでの出来事は、自分の人生にとって、大きなつまづきであり、試練であり厳しい出来事でした、しかし、そのことを通してイエス・キリストを知り、私の人生は180度変えられ、キリストと一緒に歩む素晴らしい人生へと導かれたのです。

 その後、東京の教会での長い信仰生活を通して神様のこと、聖書のことを深く知るようになりました。私の献身の思いは、ある時、教会の特別伝道集会の説教者のメッセージで、長年に渡り開拓伝道で、血のにじみ出るような苦労をされ、飢えと困難な中にも、いつもキリストが共にいて、助け導いてくださった、そして苦労の末、教会を建てあげていったという牧師先生の話しを聞き、自分もそのような教会を建てあげる働きをしたいと思うようになりました。

 その後しばらくして故郷である福岡で、その働きをしていきたいと思い、福岡に戻っ てきました。今から10年前、神様や聖書のことをもっと深く学びたいとの思いから、九州バプテスト神 学校に入学し、牧師コースに学びました。神学校では、いい意味で自分の古い殻が破られ、広い視野で神学的に物事を見ることができるようになったと 思います。あわせて、神学校の仕事も与えられ手伝うようになりました。
 2014 年の3月に九州バプテスト神学校を卒業し、牧師招聘を受けたかたえキリスト教会に4月から赴任しました。それが、わたしの3回目のまさかの坂でした。かたえキリスト教会で5年間牧師として勤め、教会員の方と教会形成に励みました。しかし、昨年くらいから体調を悪くし、体の左半分がしびれて、病院に通院していました。いったん牧師を退任することを考え、かたえ教会からはやめないでくれと言われましたが、今年の3月に退任し、4月から大名クロスガーデンの礼拝に出席するようになりました。

 私の人生は、山あり谷ありの波乱の人生でありま したが、しかし、今考えてみると、これまでの出来事は、私の知らない所で神様が計画された道を一生懸命歩んできたように思えます。「わたしは、道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:16)とイエス・キリストは言われました。すべての人に、この神様の用意された道が敷かれ「幸いな人」になることができると思います。

 私の好きな聖句は「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どのような時にも感謝しなさい」(テサロニケ 5:16)です。

 これからも、共におられるインマニュエルの神、イ エス・キリストと共に歩んでいきたいと思っています。 どうぞよろしくお願いいたします。


1月19日&26日&2月2日

入会の証し(2019年10月27日)

S.C 姉 

 この平尾教会には5月の終わりから来始めて、今日で5か月ほどになりました。妹が福岡バプテスト教会の会員であり、ランチカフェのような活動がしたいという思いがあって、平尾教会にその活動があることを知って見学に来たのがきっかけです。この近所に住んでいますし、きちんと教会に通わなければならないなという気持ちがちょうど芽生え始めた 時期でした。

 私は牧師家庭に生まれ、兄弟6人の中の上から2番目です。女3人、男3人という、珍しい構成の中のひとりであります。父が東京の神学校に行った頃は妹まで生まれていまして、神学校の家族寮で暮らしました。貧しい生活でしたが、教会の方々が助けてくださったことをあとで知りました。本当にそのことは感謝しなければならないと感じています。そのような生活を東京で7年送り、次に、父の最初の赴任先である大分メノナイトキリスト教会で4年間過ごしました。

 それから父の故郷の宮崎に帰り、以来ずっと開拓伝道でした。お祭りがあれば、綱を張るか張らないか、もめるような田舎で、その小さな攻防をみながら、自分では「キリスト教って??」と思って、受洗はしていませんでした。姉は中学生の時にバプテスマを受けました。毎週絶対に教会に出席することを強制される感じになりました。姉が受洗してからは「次はお前だ」との父の圧力が強かったのですが、私は、自分が受けたいときにバプテスマを受けたい、という思いで、ずっと抵抗していました。

 二十歳の時に友達の影響もあって、そのようなときが与えられ、自分の誕生日に受洗しました。今この場に父がいないので言えるのですが、父は割と上からガツンとものをいうような、父が思い描いていたことと違うことを言おうものなら、というような感じの人でした。姉は、どちらかと言えば、父の望んでいたような道を選んでいったものですから、一方の私は、いつも父とぶつかっていましたが、どこかで聖書というものに書かれていることは正しい、しかし父を受け入れることができないでいました。 

 私は今お菓子をつくる仕事をしています。高校の時にお菓子を作りたいと父に話したら大反対され、なぜ反対するのか、との気持ちをずっと持っていました。父は、自分がずっと続けてきた、教会と併設の無認可保育園を私に継いでほしいとの思いから、絶対に短大に行き、勉強してから、家で2年働きなさい、これは決定事項だから、と私に拇印まで押させました。お金もなかったものですから、私は泣く泣くそれに従うしかありませんでした。父は多分その仕事が楽しくて、きっと続けてくれるだろうと思ったのでしょう。

 私も子どもは好きでしたから、保母の仕事はきっちりやりました。教会には行きましたが、教会内の様々な問題に巻き込まれながら、悩みながらの毎日でした。保母さんとして2年間働いて、やはりお菓子の道にすすみたいと、ためていたお金で一人で東京に行き、貧乏生活をしながら、がんばって4年間お菓子のお店で働きました。

 普通のお店だったので日曜に休日がとれず、杉並メノナイト教会には、本当にたまにしか行くことはできませんでした。それでも教会とのつながりを完全に切っていたわけではありませんでした。4年間働きながら修業した後、勤め先がなかったので、また宮崎に帰ってきて、宮崎のお菓子屋さんで14年間働く間、父母との関係も少しずつ解消、回復しながらやってきました。

 数年前に福岡に来て、今は知的障がいのある方たちと一緒にお菓子を作る作業所に勤めています。考えると、父に無理やり行かされた保母の勉強が今役に立っている、と感じています。神様のなさることは人知を超えて素晴らしい、また不思議な事だと思います。福岡に来ても、教会にはなかなか行けず、父が無牧の博多メノナイト教会に来た時に呼び出されて行く、また妹の教会にたまに顔を出す、程度で自分の教会はなく、よくないなと思いつつ、仕事が忙しく、行けない状態が続いていました。

 最近人間関係に悩んで、これからどうしていったらいいかと思っていた時に、妹に声をかけられ、平尾教会に来ました。皆さんがやさしく話しかけてくださって、(一度大泣きしたこともありました。)なぐさめられました。大切な事は一つしかないなってしみじみ思いますし、説教も以前はいつも寝ていたのですが、今は、言葉の一つ一つが大切だな、と心から思います。十字架を見ても涙が出てくるような心持ちになって、神様が導いてくださった、と感謝して毎日を送っています。

 私は主イエス・キリストを私の神様として一番に考えています。皆さんと一緒に教会生活を共にしていけたらと願 っています。


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